見えた光の幻想
―――――――――…
アザラシは目の前の光景に溜息をついた。先程から、イルカと共に崖上から降りてきたナツミが膝を抱えてうずくまっている。
気分が悪いわけではないようだが、あの体制での飛び降りに相当ショックを受けたらしい。…だったら途中で意識でも飛ばしてしまえば良かったもののとは思うが、彼女があまりにも図太いのか、いつもどおりに防衛本能が後手後手にまわってしまったようだった。
ずーんというナツミの落ち込み具合に、先程まではムスッとしていたリースもそれどころではなくなったらしい。
今では、イルカと共に何とかナツミを宥めようと奮闘していた。
仕方ない。と、アザラシは右手に持っているボロボロの書物で彼女の頭を軽く叩く。そうすると、ナツミはゆっくりと顔を上げた。
『…………それ』
「君が捜していたものでしょ。いつまでメソメソしているつもり?」
『……メソメソなんてしてません。』
顔を上げたその瞳は濡れてはいなかった。成る程、本人の言うとおり確かに泣いていたわけではなかったらしい。
「……じゃあ、なんでそんなにいじけているわけ?」
暫く彼女が押し黙った後、怖ず怖ずと口に出した。
それが――。
『……見ました?』
だった。それを聞いて首を傾けたのはイルカだけで、リースは傍目から見ても分かるくらいには顔を赤らめている。
見たというよりも、正しくは見せられた、だ。着地時にめくれてしまったスカートを―――呆然としているナツミに代わって―――軽く払って直してあげたのが、アザラシだった。
アザラシは、ナツミの膨れっ面の理由が先程の降下があまりにも怖かったためかと思っていたのだが、どうやらそれよりも下着を見られたことの方がショックだったらしいということを知り、呆れ果てた。
「……だったらどうなの。そもそもその下着だって、船長に選んで貰ったんでしょ。」
そもそも、こんな森の中をスカートでくる方が悪いとアザラシは思っていた。
けれど、一方で、船長のチョイスにしては思いの外控えめだったか?と内心では不思議に思っていたりもする。
『―――――っ!』
顔を赤らめたナツミを横目で見た後、彼女から伝染したように赤らめるイルカとリースを見やってアザラシは溜息をついた。
「……別に減るものでもないし。何も知らない生娘ってわけでもないんでしょ。」
『………』
「―――早くしなよ。こうしている間にも、船長は苦しんでるんだから。」
アザラシの言葉にナツミは文句を言いたげに口を開くが、すぐに諦めて口を噤んだ。アザラシには言葉では絶対に敵わないことを、これまでの経験から学んでいたからだ。ナツミはムスくれた様子で書物を受け取ると、表紙を見遣る。それは予想以上にボロボロだったが、レッ―――ローという文字が辛うじて読むことができた。
――――――――…
ページを破らないように慎重にめくっていく。
『…………これって……』
「………何これ。古代文字?」
アザラシさんの問い掛けに、リース君は首を振った。
『……………』
てっきり、古代文字で書かれているものと思っていたため、リース君にもついてきてもらったのだが、どうやら彼を危険な目に合わせるだけに終わってしまったようだ。
「……なら、誰も読めないってこと?」
『―――それは大丈夫です。』
舌打ちをしそうな勢いで不機嫌になっていくアザラシさんを横目に、ページをめくっていく。
『―――これは日本語で書かれてます。私の母国語です。…だから読め、ます。』
かなりの年月が経っているからか、紙は黄ばみところどころ滲んで読めなくなっていたけれど、なんとか解読はできそうだ。
「……日本語?」
訝しい気にアザラシさんは眉を潜めている。それは、きっと私もだろう。この島の魔女とは何者だったのだろうか。何故、魔女の遺品が日本語なのだろう。
………分からないことだらけだ。
『―――――ここですね。』
レッド・サローは手書きの医学書だった。該当項目を見つければ、すぐさま解読にはいる。
このページでは、冬眠草という比較的寒冷地域にて生育している毒草に対する治療法が載っていた。ちなみに、セイレンさんが置いていってくれたセイラゲーブの歴史書にも載っていた奇病は…この冬眠草によるものだったらしい。
治療法としては―――
「………で?何が書いてあるの?」
『……アザラシさん、"魔王"っていう薬草、知ってますか?』
「マオウ?……知ってるけど」
『それがローさんの治療薬になる可能性があります。』
私の言葉に、アザラシさんは押し黙る。そして、徐に首を横に振った。
「それは無理だよ。」
『どうして?既存の拮抗薬と違って、作用も長く、緩徐に効果を発揮してくれるみたいですし。』
「作用云々の前にそのマオウという薬草は、既に絶滅していたはずだからね。」
『………え?』
アザラシさんの言葉に固まった。完全に失念していたが、確かに、レッド・サローは大昔に書かれたものだ。ここに載っているもの全てが実現できるわけではないらしい。
『…………』
「………お手上げ?」
『……まだ、です。』
ページをめくりながら考える。
ローさんが飲んだ薬は、恐らく中枢を抑制させる受容体に作用するものだ。だから、"魔王"という薬草で中枢を興奮させれば良いと思った。
だけど、それが駄目だとなると………。
『……やっぱり、受容体を遮断するしか…』
拮抗薬は存在する。けど、遮断薬はこの世界には存在していなかった。
ページをめくれば、これまでの中毒に対する対処法の項目が終わり、感染症の項目に移っていた。
陰性菌や陽性菌などの、見慣れたものから…恐らくこの世界特有の感染原である細菌やウイルス等、幅広く載ってある。
中でも、様々な細菌に効果があるとされる薬草が紹介されているページに目を留めた。そして、効果・効用の下にある注意事項を読む。
『――――これだ。』
本を閉じると、アザラシさん達を見遣る。
『一度、船に戻っても良いですか。ちょっと確認したいことがあるんです。』
「……確認?」
『多分船の中にある薬で、ローさんを助けることができると思います。』
私の言葉を聞いた三人は二つ返事で了承してくれる。
イルカさんを先頭にポーラータングへと急ぐことになった。
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魔王⇒マオウ⇒麻黄
アルカロイドで有名な漢方ですが、この世界では絶滅してもらいました。