彼女の憂慮



―――――――――…



母親に寄り添いつつ、地面に横たわる男性二人を見つめた。


「母さん、人が倒れてる。町の人かしら…?」


「酷い怪我ね…。とにかく貴女はクローバー博士を呼んできて。」

「でも。母さんだって具合が…」


「…貴女の看病のおかげで大分良くなったわ。それにこの人達はこの島の者ではないようだから、多分大丈夫よ。」


「多分って……もしかしたら海賊かもしれないわ。危ないよ。」


「…大丈夫よ。」


母親は、彼らに近寄るようにしゃがみ込むと幾つか言葉を交わしている。私は白い姿を木々に隠しながら、博士のもとへと急いだ。


「おぉ、ついに結婚か!!」


「あぁ。ようやくその手紙が今しがた!」


「孫の顔が楽しみじゃな!」


「ははは、博士は本当に気が早い。」


「勿論結婚式には行くんだろ?場所は?」


「それが―――」



圧巻するほどの大きな木は、"全知の樹"と呼ばれている。その扉を開けば博士達の陽気な声が聞こえて、思わず立ち止まった。


「セイレン、丁度良かった。祝いじゃ、コイツの息子が嫁を貰った―――」


「話しは後!博士、大変なの。西の森の付近に怪我をした男の人が二人!母さんが博士を呼んできてって。」


「――何じゃと?」






セイレンが瞳を開くと、宛がわれた自身の部屋のベッドに横たわっていた。何年前のことだろうか。酷く懐かしい夢を見た。

もうあの島は存在しない。
あの博識な学者達も、荘厳さを醸し出していた大木も、その内に秘められた膨大な知識も――全てが失われたと聞いた。


その知らせを聞いてから数年後にようやくたどり着いたセイラゲーブ――自身の祖先の故郷――に移り住むことになったのだが、それは果たして偶然だったのか……それとも必然、だったのだろうか。あの人達と出会い、能力を得て、私がこうしてここにいるのも――。


「……あー、もう!」


飲みすぎた。
セイレンはガシガシと乱暴に髪をかきあげると、上着を羽織る。そのまま酔い醒ましにと立ち上がり、食堂へと向かった。


「……………。」


船は既に寝静まっている。だから誰もいないものだと思っていた。
けれど、数刻前までは食事や酒で広がっていたテーブルが既に片付けられ、その代わりに参考書類や書きかけの羊皮紙が散らばっていた。それも二人分だ。
一方でその当の本人達―――リースとナツミは、揃いも揃ってすうすうと気持ち良さそうに机に伏していた。


セイレンはテーブル下に落ちていた一枚の羊皮紙を拾うと、その文字に眉を潜める。ポーネグリフの写しだった。再び、あの光景が脳裏を過ぎったため、紙を裏返しにしてリースの傍の机の上に置いておく。


「……セイラゲーブの緊張感がここでは皆無ね。」


セイレンはキッチンに入り、コップに水を汲むと一気に煽った。


母親は死に、あの人達と故郷を出た。けれど、一緒にいたあの人達はもういない。あの人との繋がりを失った挙げ句、もはや帰れる故郷もないときた。だから、唯一の自身との繋がりのあったセイラゲーブにいつまでもみっともなく執着していたというのに。


「………我ながら…なんとやら、ね。」


ナツミの治療や出航の準備のどさくさに紛れてこの船に乗り込んだのだ。


蛇口から零れ落ちた水滴と、二人分の寝息の音だけがセイレンの耳に届く。と、同時にシンクロしたのは二つのくしゃみだった。


「…………。風邪ひいても知らないわよ。」


コップをシンクに置いてから、そっと二人に近寄った。


「無駄だよ。その二人、声をかけたくらいじゃ起きないから。」


その言葉にセイレンが慌てて食堂の出入口付近を見遣れば、アザラシが壁に背をつけて立っていた。

彼は大きな溜息をはくと、組んでいた腕を下ろしてテーブルに近寄る。それから、ナツミを抱きかかえるとその猫目をセイレンに向けた。


「…リースの方、頼める?」


「え?」


「部屋はベポと一緒。場所は知ってるよね。」


「……まぁ。」


「一応、これは船長命令だから。この船に乗っている以上アンタも遵守する義務がある。」


「…………分かったわ。」


「じゃ、よろしく。」



アザラシが颯爽と出ていく様子を眺めてから、セイレンはゆっくりとリースを見下ろす。
それから恐る恐る腕を彼の身体に差し込むと、力を入れて持ち上げた。


「――――重っ」


完全に脱力しているからだろう。予想以上の重さだったけれど、とてもあたたかい。彼は確か十歳、だっただろうか。
歳の割に小さめのようだけれど、この子は男の子だ。あと数年したら、その風貌も随分と変わってしまうことだろう。



「…………母様。」




呟かれた言葉に思わず立ち止まる。黒く塗り潰された幼子の顔が一瞬にして脳裏を過ぎった。


「"―――"、っ!」



呟いた名前に酷く驚いた。
何とも言えない、物哀しい感情がさざ波のように押し寄せたが、それをすぐに消し去る。今となっては全部が全部、過去の幻影に過ぎないのだ。


身体が、心が軋む。
自身の猶予はあとどのくらいだろうか。


セイレンはリースの身体を抱え直すと、暗闇の廊下を真っ直ぐ見つめ、ゆっくりと歩みを進めた。





―――――――――…


『え?健診?』


「そうそう、うちはほら。船長が医者だろ?だからクルーは定期的に診てもらってるんだ。」


シャチの言葉に瞼を瞬かせる。
渡された紙を見遣れば、見慣れない…けれどどこか馴染み深い記入欄が添えられていた。


「該当するところを簡単に記入して、当日船長に渡せば良いからさ。」


『……あ、うん。分かった。ありがとう。』


シャチはおう、と笑うと踝を反した。


『あ。明日の健診って私も何か手伝えるかな?』


シャチは動きを止めるや、顔だけをこちらに向けてニヤリと口元を上げた。


「直接船長に聞いてみろよ。またな。」



シャチの顔に首を傾けながらも、先程受け取った紙を眺める。



"LMP"



そう書かれた単語に目を留めると、溜息をついた。



『last menstual period……最終月経か………。』


ずっときていなかった。
この世界に来てから、それこそずっと。だけど、そろそろローさんに相談をした方が良いのかもしれない。


『そうなったら……診察だよね絶対……。手技だけ教えてもらって画像だけ診てもらうってのは…ダメかな……いやダメだよね…。』


ハァァァァと、深い溜息をつくと肩を掴まれる。驚いて振り向けば、そこには笑顔を浮かべたセイレンがいた。


「やけに落ち込んでるじゃない。どうかしたの?」


『これ…』


一度躊躇いながらも票を手渡すと、彼女は目を素早く走らせていた。そういえばセイレンはこの船の正式なクルーではない。けれど、彼女も明日の健診を受けるのだろうか。


「…あぁ、私も受け取ったわ。後から面倒をみるのは嫌だからって、船長さんが。」


『へぇ。』


「まぁ、断ったけど。」


『え。』


「だって余計なお世話じゃない。自分の身体は私が一番よく知ってるんだから、他人にとやかく言われる筋合いなんてないわよ。」


『そんな言い方…。』


「…とにかく私のことは良いの。今は貴女のことでしょ?」


私は溜息をつくとセイレンに明日の内診について伝えた。
お腹や背中を見られるくらいならまだ大丈夫だ。気にしないわけではないけれど、平気な方だ。だけど、経膣エコーをローさんにされる(かもしれない)というのは、流石に恥ずかしかった。


「あら。なら私が代わりにやってあげるわ。」


『……………へ。』


「私じゃ、嫌?異性より、同性からされる方がまだマシじゃない。」


『…そうじゃなくて、その…経験は?』


「ないわよ。私、医者じゃないもの。」


『………ですよね。』


「けど、今から彼に教われば良いんじゃない?練習すれば何とかなるわよ。」


セイレンが指をさした先には、片眉をひくつかせたローさんが立っていた。
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