恋愛島での傷
「ーーーナツミ、ナツミ!」
もふもふの白い手に腕をとられると、すぐさま我に返った。目の前に注いでいた三つのマグカップは既にミルクで溢れていて、思わず溜息をつく。
「大丈夫?体調悪いの?」
『ううん、ちょっとぼーっとしてただけ。』
「そう?もしどこか具合が悪いなら早めにキャプテンに言うんだよ!」
零してしまったミルクを素早く拭き取ろうとするとベポの言葉に一瞬だけ固まる。
『大丈夫ーーーーっあつ』
誤魔化すように笑って手を動かしたのだが、それが不味かった。不注意からまだ冷めていないミルクに右腕が触れてしまったため、反射で腕を引けばカップの一つがガシャンと音を立てて床に落ちる。当然ながら、床にはミルクとカップの残骸で散らばってしまっていた。
「ナツミさん大丈夫!?」
ベポだけでなく食堂で勉強をしていたリース君までもが血相を変えて来てくれたーーーー
先日のことを思い出しては溜息をついた。どうやら最近は失敗ばかりを繰り返してしまう。その自覚はあるのだから次からは気をつけようとは思った。けれど、その思いとは裏腹にローさんとセイレンのあの光景が頭をよぎればついつい考えこんでしまうのだ。
「ちょっと・・・溜息をつきたいのは僕の方なんだけど。」
『・・・はい。』
「さっさと買って帰るよ。」
『…すみません、アザラシさん人混み苦手なのに、無理につき合わせちゃって』
「まぁあいつらが着き早々向かった南の町よりはまだマシだけどね。僕が言いたいのは隣でそこまで暗い顔をされると鬱陶しいってこと。」
ムスッとした様子のアザラシさんを見やれば、苦笑をもらす。
周囲を見渡せば、辺りは手を繋ぎ合せたカップルで溢れていた。まるであの アトラクション島の再来である。数時間前に辿り着いたここはアムール島と呼ばれ、愛欲が渦巻く島だと囁かれているそうだが、この航路上はどうやらこういった種類の島が多いらしい。この島は東西南北に区画分けをされているのだけど、今私達がいるところはそのうちの西側にあたりショッピングを楽しむ人々で溢れていた。シャチ達が向かったのは南側にある町。そこを歩けば数分の間に声がかかるという出会いの場としてこの島では有名なところだった。シャチ達は南で女を捕まえてあわよくば北のホテル街になだれ込みたいものだ、と話しているのを聞いてしまった。
私とアザラシさんはこの間割ってしまったマグカップ(及び生活用品の補充)のためにこの町に降り立ったのだが、あまりの店舗の多さにどのお店に入ろうか決め兼ねていた。
「―――ねぇ。」
アザラシさんの言葉に振り返ると、彼は店舗と店舗の間の路地裏に視線を向けていた。
「赤ん坊の泣き声が聴こえる。」
アザラシさんの言葉に首を傾けるが、私の返答を待たずに彼はその路地裏に入っていってしまったため慌てて彼の背中を追った。
徐々に暗くなっていく路地裏に若干恐怖を覚えたが、彼はそんなことは御構い無しのようだ。
『アザラシさん…。』
漸く立ち止まってくれた彼の後ろ姿が見えたため、小さく呼びかける。アザラシさんはそれに気づいてくれたようで、私からもその先が見えるように僅かに身をずらしてくれた。
―――その先には女の子がいた。暗がりでよく見えないが、彼女の腕で抱きかかえられたタオルに包まれるようにして赤子が泣いている。
「この子ね、ここに捨てられていたの。」
女の子の視線は側に置いてあるダンボールの向けられていた。
『―――あなたが、見つけてくれたの?』
幼子の扱いは苦手だと言わんばかりに私の背をグイグイ押しやるアザラシさんに苦笑を洩らしながら、彼女の背に合わせるように膝を折った。ここはどうやら私が話しを聞かなければならないらしい。
「そうよ。でも、ここではこれが普通なの。」
彼女はそう言って笑みを浮かべると、私の側を通りすぎてアザラシさんに何事か耳打ちをしていた。アザラシさんはその猫目が溢れるくらいに見開くと、驚いたように少女を見下ろす。どこか焦りを含んだ彼の表情に疑問を抱きつつも二人の動向を見守ることしかできなかった。
「それじゃあ、またお会いしましょ。ハートのみなさん。」
『…え?』
「おい、ちょっと待て!!」
アザラシさんの制止の言葉を余所に赤子を抱きかかえたまま彼女は姿を消した。
暫くの沈黙が痛い。暫くして聞こえた、とりあえず船に戻るよ、という彼の掠れたような言葉にただ頷くことしかできなかった。
――――――…
「おかえりなさい、ナツミさん、アザラシさん!島の様子はどうだった??」
「ナツミ!!良いマグカップ買えた??」
この島の性質上、必然的にお留守番となったリース君と、その護衛として船に残ることを買って出てくれたベポが私達を明るく迎えてくれた。けれど、アザラシさんは、その様子を一瞥するや無言で船内に入っていってしまった。
「…アザラシと喧嘩した?」
ベポの言葉に首を横に振ると、先程のことを簡単に説明する。ベポは眉間に皺を寄せながらうーんと唸り、一方でリース君は首を傾げていた。
「その子とアザラシさんって、知り合いだったのかなぁ?」
『…どうだろう?アザラシさんは何も言ってくれなかったけど。』
というより、あの雰囲気では何も聞けなかった。
『そういえば、ローさんは?一応、このことを報告した方が良いと思うんだけど。』
それを聞いた二人は顔を合わせると、どこか顔を赤らめ始めた。
『…え?どうしたの?』
「キャプテンは、ナツミ達が船を降りて少し経った後に町に行ったよ。―――セイレンと、北の町に。」
ドクンと嫌な音を立てる。
北はその殆どがそういう目的のためのホテルが連なっている町だ。
つまりは、今頃、ローさんとセイレンも、きっと…。
そう確信すると、胸が更にキリキリと痛んだ。
「ナツミ?大丈夫?」
「…もしかして具合悪い?顔色が良くないよ。」
ベポとリース君に顔を覗き込まれてハッとする。すぐに口元を緩ませると首を左右に振った。
『―――あ、ううん。大丈夫大丈夫!それより今晩の夕食は四人ってことだよね?ちょっと私、厨房に行ってくる!』
私は早口でそう二人に告げると、返答を聞かぬまま船内へと入った。
中に入れば、どこかガランとしている。アザラシさんの他には誰もいないのだからそれは当たり前なのだけれど、それが今は心地良かった。
『…アザラシさんは食堂、かな?』
廊下をゆっくり進むにつれて見えてくる食堂への入り口。そこへと向かう足はその途中で止めざるを得なかった。食堂の入り口の向側―――アザラシさんの寝室になるのだが、そのドアが少しだけ開いている。几帳面なアザラシさんらしくない、なんて思っていたところに、そこから地響きが微かに聞こえた。
『アザラシさん?』
ゆっくりとそのドアをあけると、床にアザラシさんが転がっている。急いで彼に駆け寄れば、息が荒く、顔も紅潮していた。そして額と身体も酷く熱い。
『アザラシさん、聞こえますか!?』
「……なに。何でここに君が?」
気怠げながらも、そう返答があればそっと胸を撫で下ろした。
『そんなことより、アザラシさん。熱ありますよね?他に症状は、』
「……ただ、風邪引いただけ。寝れば治るから早く出てって。」
『…でも。』
アザラシさんはそのまま立ち上がる。その時に痛むのか、左胸のワイシャツを強く掴んでいるのをみて、慌ててアザラシさんを支えながら彼に尋ねた。
『もしかして、左胸が痛むんですか?』
彼をベッドに寝かせながら、彼のその手を掴む。彼は私の手を払うと、荒い息そのままに私を睨んできた。
「君には関係ない。僕に、触るな、」
『……でも!』
「良いから、出て行って。」
『……アザラシさん?』
「出てけよ!!!」
『―――っ!わ、かりました。暫くしたらまた様子を見に来ます。』
彼の迫力に負けて、私は彼の言うとおりにそのまま部屋を出て行くことしかできなかった。