迫り来る何か
あれから暫く経った今、一度出てきてしまったアザラシさんの部屋の前に、私はいる。
ただの風邪なら、原因はウイルスだ。抗生剤も意味がなく私にできることは殆どない。けれど。
―――――――もし違っていたら?
『アザラシさん、気分はーーーー?』
そっと彼の部屋の扉を開ければ、アザラシさんはきちんとベッドに横たわっていて、掛け布団がやや速めであるが規則的に上下していた。そっと近寄り、顔をのぞきこめば先程よりは随分と顔色が良くなっているように見える。彼が眠っている間にバイタルを図ろうと彼のシャツのボタンを一つ一つ外し、体温計を差し込みながら血圧測定の準備を始めた。
『…………?発赤?』
アザラシさんの右手首の内側には、一円玉大程の赤く腫れている箇所がみられた。虫に刺されたのだろうか?でも何の虫に。この間の健診(といっても、アザラシさんのだけは採血と血圧測定しかさせてもらえなかったのだが)の時には見られなかったものだから、最近になって刺されたものだろうか、と頭の中で考え込む。
正直皮膚は苦手だ。症状の鑑別が難しすぎて、もっともっと勉強しないとまだまだ実践では使えない状態だった。
血圧や脈はやや高めも基準範囲内で、体温はーーーーーー41度台?
『え?ちょっとアザラシさん!?』
一瞬、体温計が壊れているのかと思い、再度測定し直したけれど、結果は変わらなかった。彼の身体を触ってもそこまで熱いわけでもない。発汗も見られなければ、寒さに震えている様子もない。
なぜ?どうして?と頭の中はパニックだった。
とにかくアザラシは胸を押さえていたから、まず聴診をして、それから、と次にやるべきことを考えながら彼の胸に聴診器をあてようとした時だ。
『・・・これって』
彼の左胸元には見覚えのあるマーク。
前に、ペンギンさんの歴史の授業で教わった正にこれは“竜の爪痕”―――――彼が奴隷として買われていたという印。
聴診の結果、心臓にも肺にも特に異常は見られなかったけれど、あの時、アザラシさんが頑なに左胸を押さえていたのは、これを隠すためだったのだろうか。
『―――――え?』
その時、突然腕を引っ張られたと思えば、そのまま後ろに捻り上げられる。壁際に顔と身体を押しやられた私は、痛みから小さく悲鳴をあげた。
「…何、してるの」
『アザラ、シ、さん。体調、は』
「そんなことはどうでも良い。・・・見たの。」
彼のその言葉は疑問ではなく確信だった。
私は必死で後ろを振り返って、アザラシさんを見上げる。
『…はい。でも私はーーーー』
その瞬間、アザラシさんの片腕が振り上げられて私の顔のすぐ隣の壁に降ろされた。身体に伝わる振動と壁の凹みに、全身から血の気が抜けていく。
彼は今にも泣きそうな顔で、壁に置かれている手は微かに血が滲んで震えていた。
私が、彼に、こんな顔をさせてしまったんだ。そう自覚したら、自分があまりに愚かすぎて、情けなくて、下唇を強く噛み締めた。
「ーーーーそこまでだ。アザラシ、そいつを離せ。」
落ち着いた声色に、アザラシさんは一つ溜息をつくと私の腕を解放してくれた。
「ーーー船長。悪いんだけど、暫く一人にさせて欲しい。」
アザラシさんの強張った声色に、ローさんは頷くと、私は彼に手を取られながらこの場を後にすることになった。
――――――――――――――・・・
「―――――――ん。」
『…………ありがとうございます。』
ローさんの部屋の中で、ホットミルクの入ったマグカップを渡されれば、一瞬の躊躇いの後それを受け取った。彼にホットミルクを入れてもらったのはこれで何度めだろうか。一方で、ソファーで足を組みながら、相変わらずブラックコーヒーを飲んでいる彼にどこか安心感を覚えていた。
『…あの、アザラシさんの体調が、』
「―――――あぁ。知ってる。アザラシから直接連絡があった。なんとなく嫌な予感がしたから急いで戻ってはきたんだが」
悪い、少し遅かった。とローさんに謝られれば、私は首を横に振った。
『私が悪いんです。頑なに拒んでいたアザラシさんのことを無理矢理診ようとしちゃったから…、ローさんが私をアザラシさんの健診中に席を外させたのも、知られたくないことがあるからだって、よく考えれば分かったはずなのに。』
「…。知られたくない過去は誰にだってある。」
『…………。』
「――――だが、いつまでもそれに縛られてちゃ先に進めねェだろ。あいつだって、いつまでも隠しておけるもんでもない、と分かってる筈だ。」
『…………はい。』
ローさんとの会話が落ち着き、ソファーの隣を勧められて座る。少し温くなったホットミルクを口に運べばピリリとした痛みに眉をひそめた。
「…………口、どうした?」
気がつけば、私のマグカップは彼の手に取られていた。
『あ…、さっきちょっと噛んじゃって。』
「そう言えば前にもあったな。…とりあえず診せてみろ。」
彼のその指が私の顎を支えると、下を向いていた私の顔を強引に彼へと向けられてしまう。彼の真剣な眼差しと綺麗で細長い指が私の唇を辿れば、否が応でもセイレンとのキスシーンを思い浮かべてしまい、反射的に彼の手を払ってしまった。
「…………。」
彼は、もうセイレンのものだから、節度のある距離を取らなければ。そう思えば、唇ではないところがヒリヒリと痛み出し、物悲しい気分にさせた。
『…あ…その、ごめんなさい。』
彼の顔が見れずに、視線を落としたままそう呟く。握りしめた掌は爪が刺さって少し痛かったけれど、それが心の痛みを紛らわせてくれた。
『…………私のことは大丈夫ですから、ローさんはセイレンの側にいてあげて下さい。』
「…………聞いていたのか?」
それはあのキスの時の会話、だろうか?
『いえ、たまたま見ちゃったんですけど、離れていたので声までは。でも、流石に分かりましたよ。』
「……そうか。」
『…………。セイレンは、』
「あの女は今、北にある病院で診てもらってる。今日はそこで入院だ。」
『……そうですか…………』
暫くローさんの言葉を反芻すれば、え?病院?と首を傾げる。
『ローさんとセイレンは…ホテルに行ってたんじゃ。』
私は驚きから顔を上げて彼をみつめた。ローさんは、一瞬呆然としていたが直ぐに私が言わんとしてたことを察したのか、クツクツと笑い始めた。
「なんだ。漸くおれと顔を合わせたと思えばーーー最近のお前の変な態度はそういうことか。」
ローさんに笑われれば、顔がぶわりと熱くなる。頭を軽く叩かれるように撫でられれば、恥ずかしさは更に増した。
『セイレンは、どこか具合が?』
その恥ずかしさを誤魔化すように彼に尋ねれば、彼はそれを見透かしたようにフッと笑った後にコーヒーを一口飲み込んだ。
「心臓が少しな。――――だが、あいつはおれに診られるのを頑なに拒んだ。だから、代わりにこの町の医者に診てもらわなければ、この島に置いていく。そう条件を突きつけた。」
『だから、ローさんはセイレンの見張りとして北に?』
「まぁな。だが、もう一つの目的はーーーー」
ローさんはそう言って、一度立ち上がると棚に置いてある長方形の包みを持って再度ソファーに座った。その包みを私に向ければ、思わず唖然とする。
『…え?私に、ですか?』
「そうだ、開けてみろ。」
シンプルなその包み紙を受け取って丁寧に開け始めれば、出てきたのは濃いブルーの箱で、よくペンチとかそういった工具がしまってあるような形をしている。それをゆっくり開ければ、驚きで言葉を失った。
「縫合セットだ。」
『ーーーでも、どうして?』
「お前、まだ持ってなかっただろ?」
『…はい。』
「この間の島では随分と頑張ってくれたからな。褒美だ。」
中には、メスやピンセット、糸、人工皮膚などが入ったそれは、新米外科医なら練習用として必ず使うそれ。
「―――それとも無難にアクセサリーが」
『ありがとうございます!これでいっぱい練習します!』
パタンと箱を閉じればそれを胸に抱く。嬉しさを噛み締めながらも、ローさんを見つめた。
「―――――――っ。あ、あぁ。今度からは縫合も課題として遠慮なく出すぜ。覚悟しておけよ。」
『はい!』
私はそう返事をすれば、ローさんは苦笑してまた私の頭を撫でてくれた。
「そう言えば…………。」
それが突然ぴたりと止んでしまったため不思議に思いながら彼を見上げる。ローさんは、首を傾げながらも私を見下ろしていた。
「お前は、結局おれとあの女の何を見たんだ?」
彼にそう問われれば、少し躊躇いながらも口を開く。
『…………キスシーン、を』
「…………は?いつだ。」
『…………。健診の後の夕飯の前、です。』
少し考えるような仕草をしたローさんは、それから何かを思い立ったように顔を上げた。
「…………。悪いが、全く覚えがねぇ。」
『え、でも、私。』
「だが、お前がその時の再現をしてくれれば、おれも思い出せるかもな。」
『再現、ですか?』
「実際にお前は見たんだろ?ならやってみた方が話しは早い。」
『はい…』
ローさんに腕を引かれて立ち上がれば、部屋の壁際に身体を寄せられた。ローさんと壁に挟まれれば、丁度、あの時のセイレンのようだ、なんて思ってしまう。
「それで?あいつは、おれにどうしてたんだ?」
『…え?…あ、確か、両腕をローさんの首に』
「じゃあ、やってみろ。」
『……はい。』
恐る恐る彼の首に腕を巻きつければ、更に彼との距離が縮まった。彼の胸元が目の前にあり、どきりと胸が高まる。
「あいつはずっと下を向いていたのか?」
『…………一瞬だったので。』
恥ずかしくて、暗に分からないと答えれば彼はフッと笑う。
「とりあえず、おれの方を見ておけ」
『…………はい。』
彼の言う通りに見上げれば、どこまでも鋭く真っ直ぐな瞳と目があって思わず見惚れてしまった。まるで時間が止まってしまったかのように錯覚をしてしまう。
「この後は?」
この後は、キス、していた。
でも。
『あとは……………わから、ないです。』
彼とこの先に進むのが、どうしてかは分からないのだけれど、なんだか怖くて、気づいたらそう答えていた。
「――――そうか。」
ローさんは短くそう答えると、私の顔を右に向かせて左耳に手を這わせている。それから私の耳元まで彼はしゃがみこみと、ゆっくり言葉を紡いだ。
「…………これで、半分正解だ。」
『…え?』
「それからーーーー」
ローさんは私の手を取ると、まるで彼の首を絞めるかのような動作に変えてしまう。
『え?え?』
「…言っておくがアレはキスなんて生温いもんじゃなかったぜ。ま、これで完全な正解だ。」
そう言って彼は私の顔を覗き込みながら口端を僅かにあげていた。
「仕返しは、成功か?」
『…仕返し?』
「何でもない。そろそろ夕飯を作りにいくぞ。今日はアザラシは使いもんにならないからな。」
『え?あ、はい。って、ローさんも作れるんですか?私、てっきり…。』
「…………おい、それはどういう意味だ。おれだって人並みには作れる。」
『…え、あ、すみません。』
「……。先におれが行って作り始めてるから、お前は少しここで休んでから来い。」
『…休む?』
ローさんはドアを開けながら、此方を見ずに答えてくれた。
「その顔で出てきてみろ。お前まで熱があるのかとあいつらに勘繰られるぞ。」
ローさんはそれだけ言うと、そのまま部屋を出て行ってしまった。私はそれを認めると、壁をズルズルと伝ってストンと床に腰を下ろす。両手を頬に持っていけば、確かに仄かな熱を持っているようだった。
『…ローさんの、ばか。』
静かな私の抵抗が、微かに部屋に響いて消えた。