暗くなる街並
暗闇の中で男の人が横たわった女の人の手を握りしめている。彼女の腹部は小山のように蠢いていて、いま今出産が目前となっていた。
場面がぐるりと変わる。朝日が昇り、視界が明るく開かれた時、先程の騒がしさが嘘のようだった。
........産婆だろうか。彼女は首を横に振っている。
先程の男性と女性は、彼女のその姿を見るや身体を震わせて涙を流しーーー女性は静かに意識を手放した。
−−−−−.......
ふわりと意識が舞い戻る。ゆっくりと身体を起こせば、少しだけ頭が重くふらつきを覚えた。それを分かってくれたのかそのタイミングで誰かが私の背を支えてくれた。
横をみれば、そこにいたのはリース君だ。
『......』
おはよう、と言おうとしたのだけれど、私の耳はその音を拾ってはくれなかった。
耳元を探ると補聴器がない。あぁ、またいつかのように誰かが外してくれたのだろうか。眠る前の記憶を辿れば確かアザラシさんに補聴器を外してもらったはずだ。けれど、私のベッドの周りを少しだけ見渡してみたが、それらしき物は見つけられなかった。リース君か誰かが預かってくれているのだろうか。
ややぼうっと霞みがかった頭で考えると、隣で支えてくれたリース君に向き直る。
『ありがとう、リース君。ね、私の補聴器、知らない?』
両手を両耳まで持っていき、身振りを交えて彼に伝える。そうすると、リース君は慌ててベッドサイドのメモ帳とペンを取ると言葉を走り書きさせていた。
"ナツミさんの補聴器、壊れちゃったんだ。だから、ローさん、ベポ、アザラシさんで町に買いに行ってるよ。"
リース君の文字に、思わず思考を停止する。補聴器が壊れてしまったことは少し残念だけれど、機械はいずれは壊れてしまうものだし仕方ないとは思う。けれど。
『..........アザラシさんも町に?大丈夫なの?』
そう言えば、リース君はやや思案してから腕を動かしていた。
"大丈夫だと思うよ。そのために三人で行ったと思うから。"
そうだろうけど、それでもまだ本調子ではない彼にはゆっくりしてもらいたかった。壊れたのが私の補聴器なら、私が本当は行くべきだったのに。
"あと、首輪は常に身につけておけって。船長命令だってさ。"
リース君のその言葉に苦笑を零すと、胸の前に垂れ下がった音玉を軽く握りしめた。
『−−−−リース君、ちょっとだけ甲板に出てきても良い?』
リース君は自分を指差し、一緒に行くと身振りで伝えてくれる。
『んー....でも風に当たるだけだよ?ちょっと寝すぎちゃったから眠気覚ましに。』
私がそう言うと、彼は焦ったように文字を書き出して行く。
"そうだとしても、一緒に行くよ!ナツミさん、前科があるし"
思わず苦笑する。
リース君は、ニッコリと微笑んでいた。
−−−−−.......
私が眠ってしまってから既に数時間が経過し、辺りはすっかり日が暮れようとしていた。ここ最近の寝不足がある程度解消されたためか、午前中よりも幾分と頭がスッキリとしている。
落ちゆくオレンジ色の光が、潜水艦の看板に反射してキラキラと輝いていた。海原の反対側には大小の白い建物が立ち並んでいる。シャチとイルカさんは、私が目覚める数十分前にすぐ戻るからと言って町に出かけてしまったらしく、ここにはペンギンさんとリース君しか残っていないと伝えられていた。
『.........あれ?』
リース君が私の隣で、どうしたの、と答えてくれる。
『あそこ。』
港と近くの倉庫のような白い建物が三つ並んでいるうち、向かって右側と中央の間に小刻みに蠢いているピンク色のものが見える。倉庫と比較すると、随分と小さい。
彼にも分かるように指で指し示すと、リース君はその正体を知っているだろう。合点したという表情の後に、記してくれた。
そっと手元を覗き込む。
"あれは、ピクシージュゴンだよ"
『ピクシージュゴン?』
"まだ赤ちゃんだから小さいけれど、海王類の一種でね、好奇心が旺盛。戦闘能力としては其れ程でもないんだけど、素早さがある。"
『戦闘能力......』
リース君の話しによれば、アラバスタ王国サンドラ河に生息しているクンフージュゴンという種類がジュゴンの中では断トツで強いんだとか。
そう言った話しをしていると、突然肩を叩かれたため振り返る。そこにはペンギンさんがいて、小さなカタツムリ型の電話を持ちながら少し慌てている様子が見えた。
"セイレンが診療所からいなくなっちゃったんだって。"
リース君の字だ。
『アザラシさん経由でローさんに連絡は?』
ペンギンさんは頷いてる。仕事がはやいペンギンさんのことだ。どうやら既に船長である彼には連絡が取れているらしい。
"アザラシさんは放っておけばって言ってるみたいなんだけど........とりあえず暫くしたらシャチ達がここに戻ってくるみたいだから合流してセイレンを探そうって"
了承したことを頷くことで示した。
その時だった。
目の前の倉庫の近くで日向ぼっこをしていた赤ちゃんジュゴンが突如として柄の悪い男達に囲まれてしまった。
『ーーーね、リース君!あれ!』
指をさしてその方向を示せばリース君の目が大きく見開いた。男達の手から逃れようとバタついているピクシージュゴンは、見る見るうちに暴行を受けている。
ひ、ど、い....とリース君の唇が形作った。
『ーーー待って、リース君!!』
私やペンギンさんが止める間もなく、リース君は船を駆け下りていく。
慌ててリース君を追いかけていったペンギンさんに習うように私も彼の後を追った。
『ーーーセイレンっ!』
倉庫の辺りに駆けつけた時、先程の男達が床に寝そべっていた。赤ちゃんジュゴンを守るように抱き上げていたのは紛れもなく彼女で、先程は倉庫の影で見えなかったのだろう赤ちゃんジュゴンの親らしき二頭がセイレンの足をポコポコと殴っている様子が見えた。
あまり攻撃の強さはなさそうだけれど、そのままにしておくのもどうかとおもったのだろう彼女は苦笑を零すと赤ちゃんを親元に返して上げる。そうすると、その三頭はくるりと一回転して傍の海水へと逃げ去っていった。
ペンギンさんとリース君は伸びている男達を気にかけながらも、セイレンに詰め寄る。なぜ診療所からいなくなったのか........おそらくそんなことを彼女に聞いているに違いない。セイレンは少しだけバツが悪そうに頭をかいていた。
ーーー
あの後すぐにシャチ達も帰ってきた。彼らも行方不明だと聞いていたセイレンが此処にいることに驚いたようだけれど、探す手間が省けて良かったと笑っていた。
「ーーー調子はどう?」
シャチ達が帰ってきてから暫く経った頃に、アザラシさん達も戻ってきた。彼らが帰ってきて真っ先に渡された補聴器を装着すると、アザラシさんが真顔で聞いてくる。
ちゃんと聴こえていることを示すために片手で丸を作ってみせれば、アザラシさんは安堵したように溜息を零していた。
『ーーー前と変わらないです。それにしても、この島によく替えの補聴器がありましたね。』
「.........あー、結局必要な物は外枠だけで本体は僕のーーー」
「アザラシ、その話しは良い。それよりーーー」
ローさんにアザラシさんの説明を途中で遮られてしまった。どこか彼の様子が不自然な気がしたのだけれど、気のせいだろうか?
「ーーーセイレン、何故診療所を抜け出した。おれは検査をきちんと受けなければこの島に置いていくと言ったな?」
船の甲板にローさんの声が静かに響き渡る。
「ーーー検査はちゃんと受けたわ。約束は果たした筈よ。」
「..........。分かった、もう良い。」
珍しくもどこか苛立ちを見せた様子の彼は懐を探り始める。そうして出てきた物を彼女に向かって放り投げれば、セイレンは慌てて受け取っていた。
振動し続けるそれは恐らくローさんの能力で取ったのだろうーーーヒトの心臓だった。
「ーーー診療所に預けたお前の心臓だ。」
「ーーーあら、返してくれるわけ?」
貴方に私の心臓を預けることが、貴方の船に乗船させてくれる条件だったんじゃなかったかしら?とセイレンは首を傾げた。
「ーーーあぁ、返す。その代わり、お前にはここで船を降りてもらう。それに元々、送るのは次の島までという約束で乗せたはずだな。」
ローさんのキッパリとした声に、しーんとした気まずい空気が流れた。
「ーーーっ、」
セイレンが動揺したように瞬きをする。いつもは朗々としている彼女が取り乱す姿を初めて見たような気がした。
「ーーーここはおれの船だ。おれの命令に背く奴をいつまでも乗せておくわけにはいかねェだろ。降りろ。」
「ーーーっ!診療所を抜け出したことは謝るわ。ごめんなさい。」
そうしてセイレンは静かに頭を下げた。
「ーーー勝手なことを言ってるのは分かってるの。でも、せめて、カルディナまでは乗せてって欲しい。」
「ーーーカルディナ?理由は。」
ローさんが静かに問いかける。
「.............。」
「ーーー言えない、か。また随分とお前に都合の良い条件だな、セイレン。」
「ーーー、」
この空気が居たたまれなくて、私はコクリと唾を呑みこんだ。
『ーーーわ、たし』
皆からの視線を一斉に浴びた。そのプレッシャーに視線を一度だけさ迷わせてから、ローさんを見上げる。視界の隅で、シャチが片手で顔を覆っているのが見えた。
『ーーーーーーわ、私も。次の島までって言われていたけど、ここまで乗せてもらってます。それに、これまで、沢山、自分勝手な行動を取っちゃってて......ローさんにも、みんなにも迷惑かけてます。』
「ーーーお前の突飛な行動は、この船の仲間のため.....もしくは人助けのためだろう。だが、こいつは違う。」
『ーーーセイレンだって、ちゃんとした理由があるかもしれないじゃないですか。ね、セイレン。』
私が彼女にそう投げかけるけれど、彼女は頭を下げたまま黙りこくっていた。
『ーーーセイレン?』
そう投げかけると、彼女はこのまま黙り続けることはできないと悟ったのだろう。ややあってから顔を上げた。
「..........私に残された時間は少ないの。」
セイレンの告白に、目を見開いた。リース君や他のみんなも驚いたように言葉を失っている。アザラシさんやローさんは知っていたのだろうか、落ち着いた様子で彼女を見下ろしていた。
「ーーー元々の相性が悪かったのよ......私の能力は、酷く、心臓に負担をかける。もう、限界に近いの。」
「ーーーマジかよ、それ。だったら余計に元の島で大人しくしていた方が良かったんじゃ」
シャチの言葉に、セイレンは自嘲した。
「ーーー死ぬ前にーーーこの心臓が止まってしまう前にどうしても会いたい子がいるの。そのカルディナに、ね。」
『ーーー会いたい子?』
私の復唱に、彼女は頷いた。
十年前に私が産んだ娘よーーー死産したと産婆に聞かされていたんだけどね。
彼女は、淡々とそう告げた。
完全に夕日が沈めば陽気なアムール島を夜の帳が覆い隠してしまう。暗くなっていく街並みに比例するように、セイレンの表情からも色が失われていくようだった。