猛威を奮う鉛毒

今だに苦しそうなビル王子の周りには、何人もの付き人や兵士達がオロオロと落ち着かない様子を見せている。付き人の方から受け取った医療キットを用いて、私は早々に輸液ラインを取っていた。それに伴って王子の採血を終え結果待ちの今、私自身もどこか気持ちが急いてしまう。


けれど、それを察したのだろうローさんは、落ち着けと囁いた。凡その検討はついている、と。








『−−−−鉛中毒?』



「恐らくな。どうやら橈骨神経までは麻痺していないようだが、こいつの歯茎に特徴がでている。」



横たわる王子の診察を終えたローさんは彼の口元を開かせる。それを背後から見遣れば、彼のその歯茎には確かに青い線条があった。鉛は正常なヘモグロビンの産生を阻害してしまうことから、彼はそれに伴い酷い貧血を患っているらしい。




橈骨神経とは親指側を走行している神経で、上腕と前腕のすべての伸筋を支配している。 その神経が麻痺してしまうと、手関節の背屈及び各指関節の伸展が出来なくなってしまうため"下垂手"を引き起こす。

丁度、"うらめしや〜"とでてくる日本古来の幽霊の手の形だ。日本の馴染みある霊として描かれたそれは、どうやら鉛中毒を患った人間(鉛性の白粉を大量に使用した遊女や芸妓等)をモデルにしたという説が濃厚らしい。



『でも、どうして、彼は鉛中毒に?』



「……。こいつと違って、お前は何ともないんだな?」


『……はい、今の所は。』






ローさんは周囲を見渡すと、王子の飲みかけの紅茶、そしてこの部屋の照明の一部として担っていた壁掛け式の蝋燭を指し示した。彼はその火を消すや、忌々しそうに蝋燭を床に投げ捨てる。やや黄味がかった蝋が、音も立てずに転がった。


「…この部屋だけじゃない。この屋敷の至る所にある蝋燭は全て、ハーブが練り込まれている。鉛入りのな。」


いま今深刻な問題になるわけではないがなるべく早く撤去した方が良い、というローさんの言葉に、数人の兵士達は早々に部屋をでて行った。


私はその床に転がっている蝋燭を手に持つ。

この蝋から生じる煙の長期的な吸入で感覚を鈍らせた上に、王子が飲むであろう紅茶に多量の鉛を混ぜて中毒を起こさせたのだろうとのことだった。元の世界においても、確か、ある輸入キャンドルの使用やハーブ治療等によって鉛中毒を発症したという症例が発表されていたはずだ。おそらく、今回はそれと似たようなことが起きてしまったのだろう。



「あまりそいつに触るな。皮膚からの吸収もゼロじゃない。」


すぐに、ローさんの手によって蝋燭がもぎ取られた。
鉛中毒の最も初期に表れる症状は疲労、睡眠不足等非特異的なものだが、最悪の場合は急性脳症を起す可能性もある。それを懸念してくれたのだろうか。


「採血の結果で診断が確定するだろうが、仮に鉛中毒だった場合の治療法は分かるな?」


私は頷いた。一般的なものとして、サクシマーやBALといった薬剤を経口または静脈点滴により体内に投与し、蓄積された有害金属と結合させて排出するキレート療法がまず挙げられる。


「そうだ。だが一方で、鉛曝露が継続している患者の場合、逆にキレート化によって鉛の消化管吸収が促進される場合がある。暴露源の除去をした上で治療は行うべきだ。」


ローさんの言葉を頭に叩き込んだ。それから、血液検査の結果も踏まえた上で、王子の腎・肝の機能の異常の有無を確認する必要があるのだが、それにしたって先程からレインさんの姿が見えない。彼は確か王族お抱えの医師だったはずだ。こういった緊急事態で真っ先に駆り出される筈の彼は一体どこに行ってしまったのだろう。






「た、大変です!!」


先程屋敷中の蝋燭の撤去のために出て行った兵士達が、部屋内になだれ込んできた。


「この、屋敷の外にいた島民が、次々と倒れて、あれは、おそらくっ−−−」


息を切らしながらパニックに陥っている兵士に、ローさんは眉間にしわを寄せていた。




「皮膚、表面に、白い瘢痕が−−−っ!」


彼らの言葉の節々に感じた嫌な予感に、コクリと唾を飲み込む。


「あれは、あの痕は、死の感染症と言われた、珀鉛、病っ!!」


私の足元にローさんの愛刀が倒れ落ちた。
兵士達が病の名前を口にした後に、泡をふいて床に倒れこむ。


不気味なほどの一瞬の間。



そして。


ぎゃあああぁぁぁあ、うわぁぁあぁぁ、と私でさえも竦み上がる程の叫び声があちらこちらで上がった。


「この島はもう終わりだ!!」


「もしや、ビル王子も鉛中毒ではなく−−−珀鉛病なのでは!!?」


「嘘だろ!?そしたら、この部屋にいるもの、みんな感染した−−−−?」


「嫌だ!!!まだ死にたくな"いぃぃ!!!」



まさに恐怖と混乱のパンデミック(大感染)だった。阿鼻叫喚と泣き叫ぶ大人の男性達が我先にと、部屋を出て行こうとしている。先程までは仲間であり、上司と部下であり、それなりの役職についていた精悍な者達同士が、自身の隣にいる男を誰彼構わずに蹴落とし、はたき落とし、殴り倒し、一つしかない扉を巡って争い始めた。



『な…に…これ。なんで…』




私は、ただ呆然と酷く暴力的で血生臭いそれらを眺めていることしかできなかった。目の前に広がる光景があまりにも衝撃的で、現実味がまるでない。



「……………っ」



だからだろうか、私は完全に失念していたのだ。

隣に立っている、ローさんのことを。彼がどんな様子でそれらを見聞きしていたのかを。

私は気づくことができなかった。



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