プレリュード
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笹川京子になってから随分と時が流れ、私は並盛中学の一年生になった。
「京子、何してるの?早く帰ろうよ。」
"原作通り"初っ端から友達になった花は、片手に鞄を持つと席までやってきた。
私は、今までの思考を追い払うように顔を上げると自身の机の上を見遣る。
授業が終わって随分と経ったはずなのに、机の上には今だに社会の教科書やノートが置かれていた。
『ご、ごめん花。今、急いで支度するね。』
手早く教科書等を鞄にしまっていると、その様子をじっと見ていた花が苦笑をもらす。
「まったくこの子ったら……やっぱりどこか抜けてるのよねー。天然って言われない?」
『……!言われないよ〜。今はちょっと昔のことを思い出していただけ。』
「昔のことって―――」
「ダメツナ、今日の掃除当番代わってくれるよな!」
「え、なんで俺が…」
「お前のせいで今日の体育のバスケの試合負けたんだろ。当然じゃねーか。」
花の言葉を遮るように聞こえた、同じクラスの男子の声。その中でも、"彼"の弱気な声が耳に入った途端、私の心臓が脈打ったのが嫌でも分かる。先程まで忙しく動いていた動きがそれに伴ってピタリと止まった。
「あーあ、沢田の奴。また男子にいびられちゃって…嫌なら嫌ってはっきり言えばいいものを。」
花が呆れたように呟いた言葉につられるように、私はゆるゆると顔を上げる。その視線の先では、"彼"が数本の箒とちりとりを持たせられてオロオロとしていた。
どうやら、掃除当番の男子達は既に帰ってしまったらしい。
『…………あ、』
思わず"彼"と目があってしまった。
トクリと跳ねる心臓を抑えながら、ごまかすように首を傾けつつ口元を上げる。
………上手く笑えているだろうか。
「あ、え、あ………」
どうやら上手く笑えたらしい。さすが笹川京子の顔だ。
"彼"は顔を赤らめながらバタバタと慌て始め、ついには箒を落としてしまう。
それを見ていた私は、憧れの"彼"の脈ありの反応に嬉しくなった反面…それでも"彼"は私ではなく笹川京子の笑顔に反応したのだという事実に沈んでいく。
彼はどうやら昔のことを覚えていないようだった。
何やってんだよダメツナ、とまだ教室に残っていたクラスメート達がクスクスと笑っていた。
「……京子、準備終わったのなら帰るわよ。ほら、鞄持って。」
花の言葉に私は我に帰ると、手渡された鞄を握りしめつつ教室を後にした。
"彼"にバイバイっと言った方が良かっただろうか?
それとも、私も掃除を手伝えば良かっただろうか?
でも、あの日以来"彼"とは一度だって話したことはないし…記憶のない"彼"に気軽に話しかけられるほど、仲良くはない。
そんな私が手伝ってもな……ともやもやとしたこの気持ちを抱え込んだまま、教室を振り返ることができなかった。
「京子、あんたってさ……」
玄関の下駄箱に差し掛かった時に、花に話しかけられる。靴箱に伸ばす手を止めると花を見つめて、話しの続きを促した。
「もしかして、沢田のこと好きなの?」
花の言葉に、一瞬思考が止まった。
真っ白な頭の中で、それでも身体は理解し始めているのか、それとも私の心臓がものすごく素直なのか、心拍数が半端なく動き始めている。
『え…』
私は、ごまかすように首を傾けた。
「ほら、それ。その仕草。」
『仕草?』
「あんたってさ…焦ると首を傾ける癖、あるよね。」
『………』
「大体、さっきの沢田とのやり取り、なんか妙な空気が漂ってたし。」
『妙って…』
「それに口元、引き攣ってたわよ。沢田は鈍感なのか、全然気づいていなかったみたいだけど。」
『………』
驚いた。まさか、そこまで私のことを見ていたなんて。
「反論なし、ってことは図星ね。に、しても…あんたの好みってどうなってるの?」
テストは入学以来全部赤点、運動音痴、すぐ諦める根性なしのオサル…と次々列挙していく花に、さすがの私も苦笑をもらした。
「……それに比べてあんたは、」
並盛中のマドンナ―――と言いながら、花はあたしの下駄箱を開けた……と同時に落ちてくる数十枚の手紙。
私は、下に落ちたものを拾い、下駄箱の中に入っているものも全て回収して鞄に入れる。
ほぼ毎日の習慣に、慣れてしまっていた。
「…あんたも律儀ね。そんな得体の知れないもの、すぐ捨てちゃえばいいのに。」
そう言うと花は、自身のロッカーを開けて出てきた数枚の手紙に顔をしかめると、全てビリビリに引き裂いて傍のごみ箱に投げ捨てた。
「オサルにラブレター貰っても気持ち悪いだけよ。」
『―――あはは。』
毎回思うけれど、彼女の潔さには感服する。
花は笑う私を見ると、ポンポンと頭を撫でてくれた。
『…花?』
「まー、あたしとあんたが出会ってからまだ日も浅いしね。……無理には聞かない。」
『……。』
「でも、京子の相談ならいつでも乗るから。」
さ、帰ろう。と言う言葉に頷くと、靴を履いて学校を後にした。
ね、花。
その言葉は笹川京子に向けられたもの?
それとも"私"に向けられたものなのかな?
そんな答えのない疑問がグルグルと回っていた。
臆病な私は、未だに彼女に名前を教えられずにいた。
―――――――…
「どうした、さゆ!極限に飯が進んでないぞ!」
ガツガツとご飯を口の中にほうり込んでいくお兄ちゃんに、私は焼き魚を突くの止める。
お父さんもお母さんも共働きで、いつも帰りが遅いから、今は二人だけの夕食を取っていた。
『……お兄ちゃんは、さ…』
「ん?」
『私のこと、好き?』
「おう!極限に好きだぞ!」
『私のこと、大切?』
「うむ、極限に大切だ!」
『………』
お兄ちゃんなら絶対そう言うだろうと予測していた言葉をそのまま返されて、私は固まった。一体、彼に何と言って欲しかったのだろう。
笹川京子に成り代わってしまった事実は、私しか知らないのだし、お兄ちゃんはずっと私のことを妹だと思っている。
……いや、実際妹なんだけれども。
でも、本当はその愛情は私に向けられるべきではないことは確かで、お兄ちゃんを試すようなことを聞いては罪悪感に押し潰されそうになる。
それでも、好いてくれているという答えとさゆと呼んでくれる言葉に、どこか安堵している自分が確かにいることに気づいていた。
「さゆ、本当にどうしたのだ?風邪か?」
純粋に心配してくれているお兄ちゃんにハッとすると、私は首を横に降って食事に手をつけ始めた。
片付けなどを済まし、部屋に戻って鞄を開く。出てきた手紙を机の上に置くと、私はグッタリと椅子に座った。
……この手紙の主達は、私の容姿に惹かれた人達なのだろうか。
この数あるラブレターの中で、私自身を見てくれている人は、一体何人いるのだろう。
『"彼"も、やっぱり…』
その先は言えなかった。
言ったら認めてしまうみたいで、どこか苦しかったから。
やっぱり返事は全て断ろうと決めるとラブレターを机の傍に置いてある大きな段ボールの中に入れた。
…私は花のように、ラブレターを捨てられない。
それは私宛てのものではないのだから。
少しで良い。
ほんの少しで良いから、"彼"と話すきっかけが欲しい。そう思ってしまう私は、矛盾しているのだろうか?
それとも、思うだけで行動しようともしない私は、やはり甘ったれの臆病者なのだろうか。
そんな考えが、ふと頭を過ぎった。