今日はえいえんの最初の日
降谷と情報共有のため、恵はポアロを訪れるようになる。恵がカフェインが得意では無い体質を知ると、ハーブティーを入れてくれるようになったり、存外甲斐甲斐しい。
そしてゼロの裏取りが済んだため、いよいよ叩くことになった。恵の標的は絵師ベアトリーチェ、ゼロは三宮和也とその他大勢。さあ、戦場だ。
離島の屋敷に着くと、恵は何故か歓迎される。中性的な執事の少年にエスコートされて、降谷と共に地下に案内される。地下には大きなキャンバスがふたつ置かれており、そのうちひとつはまだ白いままだった。
もうひとつの絵が恵の精神を揺すぶる。老人が、妖精の羽をもぎ取る絵。老人は妖精が、割れた鏡の破片を隠し持っていることに気付いていない。恵の頭の中で、老人は加賀美蔵之介であり、妖精は紗音にもその子供とも捉えられる。だとすれば、加賀美蔵之介は近親相姦を行っていた?
そこまで飛んだら、真夏の夜の、じめじめした空気。虚ろに見上げた月。滴る血の赤。恵の傷がどんどん開いていく。突如始まったフラッシュバックを、恵は精神力だけでたてなおして、無理やりねじ伏せて、克服する。
「いきなりやってくれるね、ベアトリーチェ。君、名前は?」
「加賀美理音」
「失礼な質問で悪いけど、あまりに中世的でね。男か女かその他か、教えて貰ってもいいかな」
「どう見える?」
ここまで案内してくれた執事の少年こそ、念写のスペックホルダーであるベアトリーチェだった。恵はトラウマのフラッシュバックに冷や汗をかきながらも、平静を装い質問を重ねる。それに加賀美理音はいたずらに笑った。
もしあの老人と妖精の絵から感じ取ったものが本当であるとするなら、加賀美理音は近親相姦により生まれているはずだ。近親相姦では染色体異常が起こりやすく、それが加賀美理音の容姿に影響しているとすれば。
「混合性性腺異形成症ってところかな?」
「正解。容姿は中性的で、外性器は女性寄り、でも子宮や卵巣はなし。ノンセクシャル、それが私」
「でも君は絵師としてベアトリーチェを名乗った。神曲で永遠の淑女であるベアトリーチェを。自認は女性なんじゃないの?」
「ただの憧れだよ」
加賀美理音は、恵の手を白紙のキャンバスに触れさせ、その上から手を重ねる。インクも絵の具もないのに、どんどん絵が書かれていく。
何だか夏のように暑い。月が見える、夜になった。湿気が多くて、まとわりつくような暑さが恵の古傷を抉る。黒い影が、赤く血走った目が、お前のせいだと言った。
「××先生、黒板消しておきます」
「おお野宮、いつも助かるよ」
若くて気さくで優しい先生が好きだった。中学生で、異性への興味が出てくる時期。憧憬なのか恋慕なのか分別できないくらい、稚拙な淡い気持ちだった。それでも尽くしたくなって、お手伝いを買ってでることが増えた。もちろん先生にだけじゃなくて、他の先生にもした。
それをぶりっ子と言って気に入らない子達がいた。ちょっとしたものが隠されたり、イタズラ書きされたり、嫌がらせが始まった。いじめとも判断が付きにくい微妙なラインの嫌がらせは、恵の精神を削っていった。
「野宮、放課後ちょっといいか」
「はい」
「最近様子がおかしいけど、何かあったか?」
放課後の誰もいなくなった教室。先生は恵の変化に気付いて心配してくれた。それが嬉しくて、肯定された気がして、恵は泣きながら今まで辛かったことを順序もデタラメに語った。それでも先生は根気強く聞いてくれた。それが嬉しくて、また泣いた。
その様子を、忘れ物を取りに来た生徒が目撃し、噂を流す。噂には尾ひれが着いて最悪の形で広まった。
野宮恵は××先生と出来てる。放課後の密会。成績も媚びを売って、なんなら体も売って得たもの。
援交。アバズレ。淫乱。
中学生の絞り出した語彙が、恵を攻撃する。恵はショックを受け、不登校になった。部屋に閉じこもっていると、学校のことを考えると苦しくなるけど、部屋に学校の子達が来ることは無いから、安全だと思えた。
恵が不登校になってしばらく、校長と教頭、学年主任が事情聴取に来た。
「あの日、××先生は私を心配してくれて、それで放課後残るように言いました。そして私は、いじめられていることを先生に言いました。その様子を誰かが見ていて、あることないこと適当に噂にして、あんな、あんな……」
「野宮さん、少し落ち着いて。深呼吸だよ」
興奮した恵を教頭がなだめた。落ち着いたのを見計らって、学年主任が口を開く。
「野宮さんたちがそういう関係というのは信じてません。野宮さんは××先生だけでなく、他の教師の授業の手伝いもしてくれる、よく気の利く生徒ですから」
学年主任の言葉に、恵は安堵した。信じてくれる人がいる。適当な噂に惑わされない人がいる。恵にとっては救いだった。
「ただ、この件が他の保護者の耳にも入っていて、緊急保護者会を開くことになったんだ。だから野宮さんたちの真実をまとめ、説明する内容を整理しないといけない。そのために私たちは来たんだよ」
保護者会では、いじめの証拠がないことから、その件には触れないことになった。様子のおかしい生徒を残し、相談に乗っただけ。それを偶然見た生徒が勘違いしただけ。みだらな行為はなかった。
内容が決まって恵は安堵した。いじめについては明らかにできなかったけれど、これで少なくとも先生の名誉は回復できると。
けれどそれは希望的観測にすぎなかった。火のないところに煙は立たない、と強く主張した親がいた。さらに、何かと手伝い尽くす恵を先生が気に入り、他で色々していた可能性は否定できないと。
そのせいで先生は他の学校への異動が決まった。恵が動くと余計拗れるので、お別れの言葉も、感謝も謝罪も何も言えなかった。
陰謀渦巻く学校という場所が怖くなった。学校の関係者に会ったらどうしよう。恵は外がこわくなり、外出できなくなった。そんな時、近所の御幸理沙が恵の家庭教師についた。御幸理沙は、勉強なんて学校じゃなくて家でもできる、と恵をしごき、恵は少し遠方の難関進学校に合格した。
「最近女子高生を狙って乱暴する人がいるの。恵ちゃんも夜道気をつけてね。絶対に一人じゃなくて誰かと、制服じゃなくて私服で歩くこと」
理沙ちゃんは念願の警察官になった。たまに恵の様子を見に来てくれるのは嬉しいが、警察官は大変なお仕事なので、無理をしていないかちょっと心配になった。
恵は大学受験に向けて、学習塾で夜遅くなることが増えていた。父は最近残業続きでタイミングが合わず、母は家事があるので、送り迎えは難しかった。
ある夏暑い夜のこと、予備校で夏期講習を終えた帰り道の事だった。学校が登校日で直接向かったので、制服のままだ。理沙ちゃんの忠告は守れてない。
公園の隣を通った時、腕が口元に回り、叫べないようにしてから、ぐっと力ずくで公園の中に引きずり込まれて、地面に転がされた。
恵の頭の中で、理沙ちゃんの忠告がリフレインする。あの時ちゃんと聞いてれば、どうしよう、逃げないと、でもどうやって?パニックの頭ではマトモな思考は困難だった。
男は恵にまたがり、触れてくる。その手のなまあたたかさが、恵の熱を全て奪っていくようで気持ち悪かった。恵は必死に抵抗する。それでも徐々に衣服を乱されていき、恵の体は恐怖に震えた。
男が邪魔してくる恵の腕を掴んで頭の上に固定する。体勢的に、真っ黒のフードを目深に被っていた男の素顔が露わになった。
「先生……?」
恵が男が××先生であることに気付いたように、男も少女が野宮恵であることに気づいた。
男は発狂した。脅し用で持っていた小型ナイフで恵の白い腹を刺す。溢れた叫びは男の持っていたタオルに殺された。お腹が熱い、痛い、寒い。恵は恐怖にすくみ上がって、ただ浅く息をするだけでが精一杯だった。男がいやらしく恵の肢体を撫で回し、秘所を暴き、蹂躙した。
恵は途中から逆に思考が止まり、見当違いなことを考えていた。見上げた月はちょうど半月で、赤く染っていた。行為のことは覚えていない。覚えているのは温度を奪っていく手と冷えた身体、この赤い月だけだ。
なかなか帰ってこない恵を心配した母が探しに来て、無惨な姿を公園で発見。母は仰天し、大層ショックを受けながらも娘のために上着をかけ直したり、救急と警察に通報してできる限りのことを伝えていたそうだ。
というのもこの時の私は意識が朦朧としていたので、全部あとから聞いた話である。私が意識を明確に取り戻したのは翌朝、看護師が細心の注意を払って、昨日起きたことと処置の内容を説明してくれている時だった。
意識を取り戻したとは言っても、今までとは世界が違っていた。視力に問題は無いのにぼやけて見えるし、聴力も水の中にいるみたいに聞こえる。そんな世界で、私はなにも考えずぼぅと、ただ息だけをしていた。
「恵ちゃん」
「理沙ちゃん…?お仕事は?」
「無理を言って、お仕事としてここに来たの」
理沙ちゃんが病室を訪ねてきた。理沙ちゃんは相変わらず優しい。傷に触れないように優しくそっと触れて覆い隠してくれる。ずっと甘えていたくなる。
けど、それでいいのかな?恵の中に疑問が生まれた。辛い思いをしたのは恵だけじゃない。皆が逮捕されて罰を受けることを望んでいる。
「私、今のままじゃダメ?何も考えてないと、とっても楽なの」
「恵ちゃんが成長したいなら、頑張らないといけないね」
「逃げるのはダメなことなの?」
「ダメじゃないよ。そういうことも必要な時もある。恵ちゃん、今は逃げるべき時かな、戦うべき時かな」
「逃げちゃダメなんだと思う。でも戦うのは怖いし嫌」
「じゃあ、私が恵ちゃんの代わりに戦ってくるよ」
「そんなのありなの?」
「アリだよ。私は強いからね。恵ちゃんの代わりに戦ってくるよ。ねぇ、私は誰と戦ってきたらいいのか教えて?」
「…………先生」
「そっか、ありがとう」
あとから聞いた話、他の被害者は乱暴を受けただけで、ナイフは脅しにしか使われなかった。被疑者の顔を見たが面識はなく、あんな極限状態ではモンタージュも出来ないほど顔の記憶はなかった。
ナイフによる傷害を受けたのは恵一人。恵が犯人に一番近い存在だったはずなのだ。捜査線上には当然××の名前があるが、証拠不十分で逮捕状まで持って行けなかった。恵の証言ひとつで、犯人逮捕の兆しがみえる。
そんな中の、念願の証言だった。まだ警察官になったばかりで交番勤務のところ、重要参考人の知人ということで、理沙は特例で捜査に参加できたのだった。そして、少しずつ恵の世界をチューニングし直し、証言まで導いた。
「あとは任せて!」
だけど次に聞こえてきたニュースは、犯人逮捕と御幸理沙の訃報だった。連続婦女暴行事件、そして女性警察官の殉職。ショッキングなニュースに、メディアは湧いた。
犯行に及んだ経緯には、恵が中学時代にいじめを受けていたこと、根も葉もない生徒と教師の禁断の恋、淫行。あの時デジタルタトゥーとして残っていた噂話により、さらに加速した。
そんな中、裁判が始まった。御幸理沙を殉職に追い込んだ状況を作ったのは恵だ。逃げるべきか戦うべきか、代わりに戦うからと言ってくれた優しい人はもう居ない。恵は自問し、今度は自分で戦う道を選んだ。
「被害者と殉職した警察官は幼馴染です。関係者を捜査に加え、精神が不安定な状態であった被害者に漬け込み、犯人は被告人であると証言させたのではないですか?であるとするならば、これは警察の介入による誤認逮捕です」
「この事件には他に5名の被害者がいらっしゃいます。その方と被告人とはなんの接点もなく、犯行の動機もありません」
「警察官殺傷についても、被告人は事実無根の誹謗中傷により退職を余儀なくされ、後ろ指を刺されるような人生を送ってきました。護身用に小型ナイフを持ち歩くことで精神の安定を保ち、なんとか日常生活を送ろうと必死だったのです。そんな中身に覚えのない罪で逮捕され、悲劇の元凶である人間の名前を出されれば、正気を保てないのも当然でしょう」
「我々弁護団は、被告人が無罪であると主張します」
弁護団はよりによって無罪を主張している。ずっと何も感じなかったのに、弁護士の話を聞いてるとイライラしてきた。無罪、と聞いてぶつん、と堪忍袋の緒が切れた音がした。
「そんな訳ないに決まってんでしょ!?私は確かにあの日、あの公園で先生に会った。先生にお腹を刺されて腕を掴まれて、良いようにされた!」
「先生も学校を辞めさせられて、どこまでも着いてくる噂話に参ってたのは分かる!けど!だからって女の子に乱暴していい訳!?」
「理沙ちゃんは!御幸刑事は!私に先生とは言わそうとしなかった!私を落ち着かせてくれながら、事件と向き合う勇気をくれて、私の代わりに戦ってくれただけなのに!そんな優しさを責めないでよ!」
「他の子達と関連がない?動機がない?そんなレイプ魔の思考回路なんか知らねぇわ!警察の調書には噂の元凶の私に似た雰囲気の子を狙って、憂さ晴らししてるんじゃないかって書いてましたけど!?やってる事ただの八つ当たりなんだよ。ガキかよ!?いい歳した大人が子供相手にすることかよ!!」
恵の慟哭に、裁判官から静止が入る。警備員にこれ以上弁護人の方へ行かせないよう壁を作られる。裁判官は努めて冷静に、恵の一時退廷を命令した。警備員に付き添われ退廷する時、傍聴席の理沙ちゃんの両親が一番に目に入った。二人とも泣いてた。他の被害者の女の子の関係者も、泣いてた。
理沙ちゃんの両親の近くに座っていた男性が、恵に敬礼した。理沙ちゃんの関係者の警察官の人も沢山来ていたようで、みんなが恵に敬礼してくれた。
「理沙ちゃん、私も戦えたよ。私、頑張ったよ……」
恵は泣きながら退廷した。その後、弁護士の主張は全て検察によって証拠とともに退けられ、反省の態度が見られないと先生は非難された。求刑はまだ先の裁判になるらしいが、通常より重くなるのは間違いないらしい。
理沙への恩を返さねば、私も戦わなければ。そう法廷では自分を奮い立たせることが出来たのに、恵は燃え尽きてしまっていた。もうなんの気力もない。
「このまま消えてしまいたい……」
さっきまで激情に燃えていた目はすっかり虚ろで、何も宿していない。自分を極限まで小さくして抱きしめる。このまま誰の視界にも心にも入ることのない置物のような存在。この世全てから認識されないほどに、消えてなくなってしまいたかった。
「おいあんた、さっきの!」
「…どちら様ですか」
「俺は刑事の真山徹。あ、触れちまったけど怖くないか?」
真山徹という男は壮年の、無精髭の生えた男だった。最初こそ強く肩を掴まれてびっくりしたし怖かったが、それ以降はとても丁寧で怖がらせないようにしているのが伝わってくる。
「別に、」
「そうか、よかった。俺には妹がいて、アンタと同じ目にあったんだ。怖がらせてなくて、本当に良かった」
「妹さんが……」
「ああ。というかそれよりだな、お前今何やった」
「何って、こう、小さくなってぎゅうって?」
「そん時何考えてた」
「……消えてなくなっちゃえばいいのに、って」
なぜだか溢れてきた涙は、地面が透けている手に落ちた。
「えっ」
「お前も、そちら側の人間か」
「なになになに、これ、なに」
「俺たちはそれをSPECと呼称している。言っちまえば、特殊能力みたいなもんだ」
「そんなこと……」
「有り得るから今起きてんだろうが」
呆然と透ける手を見下ろす。頭はフル回転しているけれど、理解出来そうになかった。
「お前、法廷でいいこと言ったな。かっこよかったよ」
「かっこよくなんかない……。逃げないように必死だったし、適当にぶわぁって思ったこと言っただけだし。全部、理沙ちゃんが戦う勇気をくれたからなんです」
「良い刑事に出会ったな」
「はい」
「その思いは継がなくていいのか」
「思い…?」
「怖くて戦えねぇやつの代わりに、戦うんだろ」
でも私には、と恵が言いかけたところで、真山は髪の毛をぐしゃぐしゃに混ぜた。
「お前まだ高校生だろ?力がないなら鍛えろ。この世界は不公平だから、今も不幸なやつはいる。お前だけが、お前が世界でいちばん不幸だなんて思い上がりだ。痛みを知ってるお前だから、戦えることもあるだろ」
いじめで恵の心は一度折れた。理沙が献身的に尽くして目標をくれたから、心に添え木をしてくれたから、頑張れた。先生に乱暴されて、理沙ちゃんを失って、また心が折れた。理沙ちゃんのために頑張りたくて、先生たちが許せなくて、折れた心を燃やして戦った。
今もう恵の心は灰しか残っていない。それなのに、まだ戦えというのか。
「灰が残ってんなら大丈夫だ。灰を土に混ぜれば、もっと立派な木が育つ」
震える恵の両手を、真山が上から覆って軽く握る。とても、温かかった。