こころというもの、言葉というもの

「趣味、わっる……!」

 野宮恵は普段丁寧な口調だが、時折荒くなる。外見や表情が人形めいている、と表現したコナンの言う通りの印象を降谷も持っていたが、意外と本質は激情を秘めているタイプなのかもしれない。
 執事と思われた少年こそ、今回の未詳のホシ、ベアトリーチェだった。触れていることが条件らしく、接触により精神に干渉して心理情景を念写しているらしい。

 少年に案内された地下室にはキャンバスが二個並んでいて、ひとつは老人と妖精、もうひとつは真っ白だった。一つ目の絵を見てから野宮の顔色が悪くなりはじめたが、まだ余裕がありそうだった。だが、もうひとつの絵が完成に近づくにつれてどんどん野宮の顔色が悪くなっていく。普段から青白く不健康だが、今はもう真っ白に近い。瞳孔は開いて揺れているし、吐き気を催して立っていられないほどの衝撃を、たった一枚の絵から受けている。
 もうひとつの絵は、赤い月の輝く夜空の下、黒い死神が笑い、裸の少女たちの腹を大きな鎌で割いている。鎌も周囲も、血の赤で塗れて、気持ちの良い絵ではないことは確かだった。

「ヒトのトラウマ掘り起こして塩塗りたくって…。まじで有り得ないわ」

 顔色は最悪で、冷や汗をびっしょりかき、座り込みながらも気丈に振る舞う野宮。組むにあたって身辺調査はさせてもらって、過去の性被害についても降谷は知っている。それでもなお、野宮の目は死んでいない。

「理音、貴方なんでこんなところで、こんな絵書いてるの?」
「善には幸福を、罪には罰を。絵は、深層心理は嘘をつけないから。絵を見れば分かる人には分かる。むしろなんで貴方は、あんなに辛い目にあってもそんなに正しくあれるの?」
「色んな人に支えてもらったからね。今まで散々助けもらってきたんだ。その分、沢山助けないといけないでしょう。もちろん、私はあなたの事も助ける」

 老人と妖精の絵を見て分かった。理音にとって、加賀美蔵之介は祖父でも父でもある。無戸籍な理由は近親相姦の果ての子で、載せられないからだ。
 老人 加賀美蔵之介は妖精 紗音と理音の羽をもいだ。彼女たちを支配するため、自分の悪行を隠すため。でも妖精たちもただ羽をもがれるだけでなく、反撃の準備をしていた。鏡の破片で加賀美蔵之介を殺し、支配から外れたのだ。
 なのにどうして自由に生きないのか。彼女はこれまで羽をもがれて足に鎖を繋がれて、自由に生きたことがない。生き方も知らない。そして、近親相姦により産まれてくるべきじゃなかった、なにより人として不完全な自分は、生きている価値なんてない。キャンバスに嵌った茨の額縁が、妖精たちを許しはしなかったのだ。

「私は、産まれてくるべきじゃなかった!」
「私は、貴方が無事に生まれてきて良かったと思ってる。元凶の色ボケじじいには色々言いたいことあるけどね」
「無事じゃない!こんな…欠陥品ッ!!」
「ひとまず五体満足、それでいいじゃん!今どきジェンダーなんてよくある問題なんだしさ。生きたいように生きなよ、ベアトリーチェ!」
「わたしは、わたしは、」

 野宮は冷めたように見えて、かなり情に厚い。自分が救いあげてもらったから、その傷を誇って、かつての自分と同じ傷に寄り添って救いあげようとする。
 他の誰かじゃダメなんだ。他の言葉じゃダメなんだ。同じ傷を持つ野宮恵が、心の底から叫ぶ言葉だから届くんだ。
 加賀美理音の心が揺らぐ。閉じこもって自分を貶めないと生きられなかった不幸な子。立ち上がって戦えと迫る野宮の手は、恐怖から素直に取れない。けれど、暗闇で俯いていた子が上を向いて顔に光が差した。あともう少し─。



 腹に響く破裂音がした。野宮の身体が、衝撃で吹き飛ばされるように倒れていく。

「クソっ!」

 降谷はすぐさま拳銃を抜き、野宮の心象画が飾ってあるイーゼルの足を打って崩し、野宮たちが絵画の物陰に隠れるようにする。入り口で拳銃を構える三宮和也にも、牽制を一発。
 三宮和也は小物なようで、すぐに入口から出て、物陰から加賀美理音に指示を飛ばす。

「公安の女はスペックホルダーだ!高く売れるから心を折っておけと言っただろう!」

 最初から野宮を引き入れたのは、羽をもいで奴隷として売り飛ばすためだったらしい。舐めた言動に腹が立った。
 降谷は三宮和也がビビって物陰から出てこないことを良いことに、地下室に置いてあった画材などを崩してバリケードを築く。銃口は入り口へ向けたまま、野宮と合流する。

「ど、どうしよう。この人、死んじゃうの…?」
「大丈夫だ。出血はないし、恐らく防弾チョッキに当たっている。衝撃は殺せないから、意識を失ってるだけだ」

 加賀美理音は野宮を抱き上げておろおろしている。野宮は相変わらず青白い顔色で汗が光っているが、銃で撃たれた顔では無い。

「クソ、公安どもが来やがった。ここはおしまいだ!早く逃げるぞ!ほら理音!早くこっちへ来い!」

 ビクッと、加賀美理音の肩が震えた。野宮の上半身を膝に乗せたまま、自分の体を抱きしめて庇っている。大方加賀美蔵之介の死後、養育者の三宮和也から虐待でも受けていたのだろう。
 組織でも、警察でも。この世の闇に触れるから、クズも外道も、不幸な人も。掃いて捨てるほど見てきた。それでもこうして目の前で虐げられ、支配されるのを見ると、腹が立ってしょうがない。

「ベアトリーチェ、君は、どう在りたい。どんな人になりたくて、ベアトリーチェを名乗った?」
「ぁ、」

 意識を取り戻した野宮が、真っ直ぐに、それでいて鋭い視線で問いかける。見つめられて、喉の奥が詰まったのか、喘ぐような吐息だけ漏れた。

「羽をもがれて苦しかっただろう、籠に閉じ込められて窮屈だっただろう。でも、感情を殺して、言われたことだけこなすのは楽だっただろう。ベアトリーチェ、君にはまだ手足がある。立て、自分の未来は自分で切り開け。自由になれ」
「こ、怖いの……。今までずっと、そうして生きてゆくしかななった。自由が怖い。歯向かうのはもっと怖い」

 加賀美理音は泣いていた。今まで刷り込まれた支配も恐怖も、そう簡単には消えない。野宮はカッコつかない様相だが、力強くベアトリーチェの手を握って笑った。

「私も初めは怖かった。だから一緒に戦おう。大丈夫、私は強いから」

 加賀美理音は、いや、ベアトリーチェはその手を握り返した。
 公安の仲間から無線が入る。三宮和也の姿はなく、特別重要な証拠品を持って逃げた可能性が高いと。逃走経路と思わしき港も押さえているが、そちらには影もないらしい。まあ、三宮和也はここに居るし、きっと証拠品もここだろう。
 そして別の無線から、緊急連絡が入る。大量の爆弾が仕掛けられているらしい。もうすぐ起動すると。

「クソ、そろそろ時間だってのに!早くしろ!!」

 三宮和也が手当り次第に発砲する。あの腕前では当たりはしないが、この閉鎖空間では充分脅しが効く。
 無線の音が聴こえていたのだろう、野宮がそっと手を伸ばしてくる。その手に触れる。

「そちらは、任せましたよ」
「ああ、任せておけ」

 すぅ、と降谷の身体が透明になった。足音を立てないよう走って入り口を抜け、部屋の中を伺っている三宮和也の無防備な背中を襲う。
 透明化が解けて、突然姿を現した降谷に三宮和也は随分と驚いたようだった。銃は手の届かないところに滑らせたし、完全にマウントを取ったのだ。もがいても無駄だ。

「被疑者確保。総員、待避だ!」
「こっちです、三宮さんが避難のために用意していた隠し通路があります」
「理音、貴様ッ」
「この場に放置して生き埋めか、大人しく着いてきて刑務所か、二つに一つだ」

 三宮和也の腕を強く捻りあげ脅しをかけると、やはり小物で大人しくなる。ベアトリーチェが足元のおぼつかない野宮に肩を貸して先導し、三宮和也を取り押さえた降谷がその後に続く。
 地下室を出て、さらに降りるとそこは坑道のように横穴が掘られていた。潮位によっては沈むのか、足元が海水で濡れた。かなり暗いので、野宮がスマホのライトで照らして進む。
 かなり歩いた。島の大きさと屋敷の立地を考えても、ここまで歩くことは無いだろう。その疑問を察したのか、ベアトリーチェが疲れた顔をして答えた。

「この島は元々、世界大戦時の秘密基地だったようです。この横穴は干潮時のみ通れて、隣の小島と繋がっています」
「なるほど。闇取り引きや逃走経路にはピッタリだな」

 その時、爆音と地面が揺れた。仕掛けられた爆弾が作動し始めたようだ。それに、先程より潮位が上がったように思う。一行は歩くスピードを早める。

「光です!出口です!あともう少しですよ!」

 ベアトリーチェが目を輝かす。出口の錆び付いた扉を開けると───。


 ベアトリーチェが肩を貸していた野宮をこちらへ投げる。三宮和也が受け止めきれず、二人揃って倒れる。
 光の向こう、ベアトリーチェの肩越しに、無数の銃口が見えた。
 降谷は反射的に倒れる三宮和也と野宮に覆いかぶさった。ベアトリーチェは、満足そうに笑っていた。


「ああぁああああ!!!!」

 野宮の絶叫は、銃声に掻き消えた。野宮の爪が、降谷の肩に食い込む。助けに行こうと暴れる野宮を押し潰す勢いで、抱え込んだ。
 銃声が止んで、どさりとべちゃりとが、混ざった音が降谷の耳を刺した。

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