壊死の手触り

 当麻のいただきました、の言葉の後。当麻は再び地面に正座して、新しい半紙を用意して筆を取る。

“犯人は   ”





手水てみず りつさんですね。私は刑事の野宮恵」
「同じく当麻です」
「連続男性傷害事件について、お話を伺いたいのでご同行願います」

 恵と当麻はとある大学に来ていた。ここには壱原ハジメの痴漢被害者である女子大学生が通学している。手水律は被疑者を洗う中で、その被害女性とかなり仲の良い友人として、捜査線上に名前が挙がっていた。当麻の推理に沿って、洗い直しと他の犯行との関連、事件の被害者への事情聴取を再度行ってからの、正真正銘の任意同行である。
 スペックホルダーによる犯行は、スペックという特異な能力や事象を扱う以上、立証は困難である。よって、逮捕状は確実に得られず、任意同行で自白を促す他ないのだ。

 三人は大学から借りた空き教室に向かい、事情聴取が始まった。

「貴方が連続男性傷害事件の犯人、レディ・ジャスティスですね」
「親友が被害者の一人に痴漢に遭ってるってだけで私を疑うんですか?他の被害に遭われた方とは何も関わりはないと、以前お話ししたと思うんですけど。それでも呼び出すだけの証拠はあるんですよね」

 手水律という少女は、綺麗な黒髪を整えて、ブラウスやロングスカートなど清楚な装いをしている。周囲への聞き込みでも、非常に真面目で正義感の強い子と回答が集まる、典型的な学級委員長タイプだった。警察官と密室で対話しているが、萎縮した様子はなく全く目を逸らさない。真っ直ぐな瞳と、頬骨のあたりに左右対称であるほくろが印象的だ。

「人間の脳は通常10%程しか機能していません。残り90%が何故存在し、どのような能力が秘められているか。ご存知ですか?」
「何の話ですか?知りません」
「“嘘をついてはいけない”」

 当麻が切り出すが、顔色一つ変えず知らないと返される。しかし、嘘をついてはいけない、と告げると、手水律はピクリと反応を見せた。畳み掛けるように恵が繰り返す。

「“嘘をついてはいけない” ですよね?」
「…はい」
「先程の話に戻りますが、脳の残り90%に秘められた能力、これを私たちは“SPEC”と呼んでいます。そして貴方は、SPECを有する者 “SPEC HOLDER”ですね?私もSPEC HOLDERなんですよ」
「確かに、私はSPEC HOLDERです」

 恵が繰り返し“嘘はついてはいけない”と言うと、手水律の真っ直ぐ過ぎる瞳が揺らめいた。更に聴取を続ければ、しらばっくれるような質問に対しても、手水律はあまりに素直に回答する。まあ、先程より唇を噛み締めて苦々しげな表情になっているが。
 手水律の正面に座る恵に対し、当麻は入り口付近で立っている。手水律の逃亡対策もだが、当麻には手水律のSPECの見極めや恵に不測の事態が起きた際に動いてもらうことになっていた。しかし、聴取を通しての手水律の反応から、当麻の推測が正しいことを二人は確信していた。当麻の慧眼に、恵は舌を巻きつつ背筋がゾクゾクとするほどの薄寒さを感じる。

「貴方のSPECはレディ・ジャスティスの名の通り、テミス像なんですね」

 裁判所などに置かれている目隠しをし、片手には天秤を掲げ、もう片手には剣を携える正義の女神。
 手水律のSPECは天秤と剣。天秤の能力は問答の中にある嘘を見抜く能力。発動条件は質問をするだけ。そして、剣の能力は天秤が嘘と判定した場合、罰を下すことだ。
 単純で強力なSPECであるが、決定的な弱点も存在する。それが、SPEC使用者である手水律自身にもその能力の範囲内であることだ。良くも悪くも平等なSPECが仇となった。SPECの主人だからこそ剣の能力の恐ろしさは分かっているだろう。

「貴方のことを調べる中で、とても友達思いで正義感の強い、優しい方という証言が多く集まりました。このSPECが宿るのも納得です」

 手水律は答えない。このSPECは黙秘は許されている。だって、“嘘はついてはいない”のだから。

「貴方は被害者たちに声をかけ、天秤の能力を駆使して嘘を見抜き、剣の能力を使って罰を与えた。被害者たちが無抵抗に罰を受けたこと、事件のことを話せないことなどは、この天秤と剣の能力を用いた契約による物ですね」

 このSPECは明確な条件を提示した上で問答を行えば、契約が成立するのだろう。この明確な条件というのが恐らく、開示することだ。
 当麻の指示に従い、恵は自身がSPEC HOLDERであることを敢えて隠さなかった。繰り返しになるが、このSPECは良くも悪くも平等なのだ。恵が切り札をリスク承知で開示した分、同様のリスクが対象にもかかり、答えなくてはならない義務が発生する。当然、この場で嘘をつきはぐらかすことも出来た。しかし、その場合のペナルティに何を要求されるか分からない以上、手水律は馬鹿正直に答えるしかなかったのである。

「私は性犯罪被害者です」

 恵の告白に、手水律は明らかに動揺する。瞳孔が開き、噛み締めていた唇を開いて、何か言いたげな様子だ。

「正直に言うと、一連の事件に対してメディアが報じたように、私も天誅だ、ザマァと思った側の人間ですよ」
「だったら、なんで…」
「私が刑事だからですよ。刑事だから、傷害事件は見過ごせない。でも、貴方の気持ちが分かるから、同じように罰を受けろと思っているからこそ、私が止めに来たんです」

 恵のSPECは透明化である。自分の姿を他者から認識できなくすることができる。
 このSPECを有効活用するなら、聴取は当麻に任せて、恵は万が一に備えて姿を消した状態で待機するのが望ましい。それをせずに恵が手水律と正面で向き合い、彼女を止めるために奮闘しているのは、恵が刑事であり性犯罪被害者であるからだ。彼女の怒りを唯一、真の意味で理解できる人材だからだ。

「だったら分かるでしょう?痴漢に遭っても、女の子は相手の人相とか見て覚える余裕なんてない。顕微検査だって、ちょっと触られたくらいじゃ結果が出るか分からない。パニックになって、嫌悪と恐怖にただ耐えるしかないの。そんなの間違ってる!」
「女の子たちがわざわざ空いてる電車に乗るために早起きしたり、電車に乗るのが怖くなったり。女の子たちばかり変わるのを強制されて…!そもそも犯罪をする方が悪いのに!なんで被害者が変わらないといけないの!!」
「SNSで見つけた痴漢されたとかセクハラされてるって言ってる人に、事情を聞いたらクズばっか!結婚して子供もいるのに、奥さんと自分の子供がされて嫌なことを、他人にはする!!幼稚園から、道徳とか見直して来いって奴ばっかり。警察が裁けない罪を、私が裁くことにしたの。このSPECがあれば、裁判と同じで全てを詳らかにした上で、正しい罰を与えることができる…!」

「この国の憲法は、私刑それを認めていない」
「でも、だったら誰があいつらに罰を与えるのよ、罪を償わせるのよ。出来てないから泣き寝入りして苦しんでる人がいる…!」
「…貴方は自制心の強い人だと思う。聞き込みで犯人の見当がついていても、まずは事情から聞いてその人に罪があるかどうかを確認してから、貴方は犯行に及んでいた。衝動的に犯行に及んでもおかしくはない。だからこそ、被害者の多くは貴方には非がなくて、自ら罪を認めていたのだと思う」

 恵は被害者との事情聴取の中で、誰も犯人を恐れて、それから逃れるために過去の罪を自白しているのではないことを感じていた。全員が罪の意識を持って、贖罪しょくざいしなければならないと思っていた。人はそう変わらない。きっと良い方向に変えたのは、犯人が彼女だったからだ。
 警察官との面談でも萎縮した様子はなく、真っ直ぐ見つめ返していた手水律。しかし今は、恵と話す中で明らかな動揺が見て取れる。それに恵は安心していた。彼女はちゃんと罪の意識を持っている。
 SPEC HOLDERの多くがその超常の力を有したことに、自分が特別な存在であると認識する。自分は支配者だの神の代行者だのご立派な肩書をつけ、大義名分という名の自己主張を押し付けるだけのワガママなガキと一緒。自分もただの人間であることを忘れてしまう人が多い。
 手水律はまだ人間としての自覚を忘れていない。大切な人のために、無力でちっぽけな存在が、精いっぱいの正義感で立ち向かった優しい人だ。犯罪に走るほど歪ませてしまったのは、警察が犯罪を取りこぼして信頼を失っていたからに他ならない。

「そう、だから私は、正しいことをしたの」
「貴方が罪を認めさせて自首を促したり、証拠持参の上で警察に来てくれれば、良かった。何故そんなことを知り得たのか警察は訝しむだろうけど、自首を強要したり脅したりしなければ貴方は犯罪者ではなかった。でも貴方は人を傷つけてしまった」
「だって、どうせ誰も動いてくれないから、だから私がやるしかなかったのに」
「貴方にそう思わせてしまったことが、私たち大人や警察の罪だと思ってる。だから、ここで止まって欲しい」

 恵が真っ直ぐに手水律を見つめる。彼女は泣いてしまいそうだった。

「どうして…?」
「ん?」
「私は友達が痴漢されて、物凄く悔しくて、ムカついた。復讐できれば、友達みたいに苦しんでる人を減らせるし、罪を償わせられるのにって思ってたら、このSPECが生まれた。復讐の手段も出来て、止まれなかった。貴方はどうして、友達と同じように被害者なのに、あの人たちを守れるの?」
「私も貴方や貴方のお友達のように、怖くて辛くて苦しくて、のうのうと生きれる犯人が憎くて死ねばいいのにって思ってた。今も思ってない訳ではないよ。でも、あの頃の私は消えたくてしょうがなくて、犯人に復讐するなんて考えられなかった。そんな私の代わりに、幼馴染のお姉さんが警察になって、戦ってくれたの。あの人のお陰で今の私がある」
「貴方は、恵まれてる」
「そうだね。恵まれてる自覚はあるよ。恵まれてるなら、恵まれない人に手を貸さないとね」

 恵が微笑んで手水律に手を差し伸べる。手水律は、その手を震える両手で握りしめ、縋り付くように泣いた。嗚咽の合間に、自首します、ごめんなさい、と聞こえる。恵は当麻と自然と目があい、二人で良かった、と目を細めた。



 泣き止んだ手水律を、警察署まで送ると申し出て、三人で車に乗り込む。普段あまり運転をしない恵だが、今日ばかりは運転手を買って出た。密閉空間の車内に、当麻が近くにいると確実に気分が悪くなるからだ。後部座席に乗った時、手水律も「くさっ!!」と思わず声に出す程だ。

「ねぇ、野宮さん」

 手水律はなぜかかなり恵に懐いていた。

「私、前科がつきます。それでも野宮さんみたいに警察官になれますか?」
「当麻さん、確か司法試験受かってましたよね。どうなんですか?」
「結論、なれる。ただし、傷害罪は十五年以下の懲役、又は五十万円以下の罰金刑。初犯でも実刑判決を受ける場合がある。ただ、貴方はまだ未成年で情状酌量の余地はある。その辺は裁判で決まるんで、その罪を償ってからなら受験資格は復活」

 ホッとした様子を見せる手水律。だが当麻は外を眺めながら、付け加える。

「ただし、犯罪歴は死ぬまでデータとして残ります。警察官になるとき身辺調査が行われるので、直接的な不合格の理由になり得なくても、心象はマイナスだし、ずっと付き纏うことになる。警察官も人間なんで、いくら前科の有無で不当な評価はされないと明記されてても、実際のところはその人次第。ストレートの人に比べて、過酷な道に違いはない」
「まあ、そうですよね」
「警察官じゃなくても、この世には色々な職業がある。無理に警察官になるって絞って辛い思いをするくらいなら、やりたいことのできる仕事を探すってのも一つの手だと思うよ。何にしろ、私は手水さんが罪を償って、前向きに生きてくれればそれで十分だし」
「まだどうなるか分からないですけど、罪を償ったら必ず、今度こそ誰かを守れる人になります。野宮さんのお陰です」

 SPECによる犯罪は立証できない。取り調べに対しても、黙秘するしかないこともあるだろう。それによる心象の悪化が不安だが、この真っ直ぐな正義感の強い少女なら何とかなったりしないかな、と思ったり。
 大学から車を走らせて、近くの所轄までやってきた。恵たち未詳は公安警察であり、今回の事件も独自に捜査していたに過ぎず、逮捕してしまうと方々に角が立つ。別に逮捕実績をあげたいわけではないので、自首に協力する形になった。まあ、自首の方が心象が良くなるというのもあるが。

「私たちが出来るのはここまで。もしまた、どうしようもないことがあれば、頼って良いからね」
「はい」

 車から出た手水律は、ようやく当麻の悪臭から逃れられた、とホッとしている。
 でも、彼女はまだ十代で、人生これからだ。この事件をきっかけに、きっと普通の人より困難にぶつかることも多いだろう。その時にまた道を踏み外さないよう、見守っていく必要がある。
 その気持ちを込めて恵が言えば、手水律も心得たと素直に肯定する。

「そう言えば、野宮さんは幼馴染のお姉さんと同じ警察官になったんですよね?お姉さん、喜んでたんじゃないですか?」
「多分ね。まだ直接報告が出来てないけど、きっと喜んでると思うよ」
「ですよね!私もそれに続きたいので、行きますね」
「…待ってるよ」

 手水律は入り口に向かう。その背中を見つめながら、“嘘はついていない”と内心思う。
 “あの人”はもう死んでしまっているので、直接報告はできていない。墓前で報告をしたが、優しい“あの人”のことだ。きっと泣いて喜んでるだろうと思う。

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