月をなでるような眦

「えっ」

 江戸川コナンは驚愕する。いつものようにポアロに行くと、客や店員である榎本梓の様子がおかしかったのだ。全員の視線の先には、大怪我を負った女性の姿があった。女性は人形のように無感情で、それでいて流行りのファッションに身を包んだ華奢な身体。その姿に見覚えがあった。

「確か、野宮刑事…」
「ボクとどこかで会ったかな?ごめんね、忘れちゃった」

 首を傾げて申し訳なさそうにする野宮だが、コナンはその目が真っ直ぐ自分を見つめていることに気付いていた。忘れちゃったとは言っているが、恐らく明確な意図を持って自分に会いに来たのだろう。
 江戸川コナンは、先日の黒の組織との対峙もあり、かなり警戒をする。もちろん、それを表に出すことはしない。

「クラスメイトの壱原くんのお父さんが入院してたから、千羽鶴を折って一緒に届けに行ったんだ。その時野宮刑事に警察手帳を見せて貰ったから、覚えてたんだ!」
「ああ、あの時の…」
「あの後、犯人は自首したんでしょう?捕まえられなくて残念だね」
「犯人がきちんと罪を償えば、捕まえても自首してもどちらでも良いの。それにしてもボク、まだ小さいのに随分難しい言葉知ってるのね」
「僕は江戸川コナン!上に毛利探偵事務所ってあるでしょう?あそこに住んでて、おじさんと一緒に居るから、知ってるんだ」

 形ばかりの自己紹介を済ませる。野宮は微笑を浮かべて、コナンを自分の席に誘った。コナンも野宮が何故こんな茶番をして探りを入れてくるのか分からず、それに応じる。梓にオレンジジュースを注文すると、コナンは尋ねる。

「その怪我どうしたの?」

 梓を含む店内にいる全員が気になっていたことだった。周囲が耳をそばだてているのを感じてか、野宮は苦い思いをしながら答える。

「刑事だからね。悪い人たちを捕まえるために、時には危ないこともしないといけないのよ」

 コナンは工藤新一であった時も含め、警察官と関わりが深い。みんな正義感が強く、多少の無理は承知で事件解決を目指す者ばかりだ。しかし、野宮恵という刑事は微笑んだりしても、いつも人形や能面を思わせる無機質で無感情な印象を与える。その瞳の奥に底知れない何かを感じて、違和感やほんの少しの恐怖を覚える相手なのだ。そのため、何となく苦手意識を持っていたし、何かあるのではと勘繰ってしまうのだ。
 コナンが怪我の理由や恵の身分を明らかにしたことで、周囲の人の関心は薄れたようで、店内はいつも通りの穏やかな時間が過ぎていた。

「僕も仲の良い刑事さんがいるから、何となく分かるよ。でも本当に大怪我だね」
「心配してくれてありがとう。骨も折れてるから大変だけど、大変な目に遭ったのが江戸川くんや一般の人じゃなくて良かったと思うよ」

 話せば話すほど、野宮恵は真っ当な刑事に思える。何故そんな人に得体の知れない違和感を抱くのか、コナンは非常に興味を持っていた。

「そういえば江戸川くんは、捜査一課の人たちと仲が良いよね。警察内部だから、たまに毛利探偵の話や江戸川くんの名前が挙がってるよ。」
「そうなの?」
「キッドキラーと呼ばれたり、今年の頭には東都タワーを吹っ飛ばす規模の爆弾を解除したとか」
「あ、あれはたまたまだよ。ボク、新一兄ちゃんと仲が良くて、よく事件のこととか聞いたり相談してるから…」

 少年探偵団として事件に興味を持って首を突っ込んできたり、行く先々で事件に鉢合わせたり、そういうことで名前が挙がっているのかと思っていた。ちょっと聡い子、と思われるようなことはしているが、眠りの小五郎しかり、きちんと目立ち過ぎないようにしているつもりだったので、野宮の指摘に少々焦る。きちんと誤魔化さねば、と工藤新一の名を出せば野宮は納得したように頷く。

「新一兄ちゃん…。ああ、高校生探偵の工藤新一ね。一時期は飽きるほどメディアに取り上げられたけど、そういえば最近は見かけないわね」
「事件を追って、いろんな所に行ったり忙しいみたい」
「そうなんだ。そう言えば、毛利探偵には高校生のお嬢さんが居たね。その繋がりで、工藤新一とも仲が良いのかな?」
「そ、そうだよ」

 江戸川コナンは、自分が探りを入れられている状況にたらりと背筋に嫌な汗が伝っていた。
 野宮は警視庁内の話をあげていることから、江戸川コナンの周辺をある程度調べてから、ここへ来ているはずだ。自分が普通の小学生と思えない、という違和感で探りに来ているなら、まだ分かるし誤魔化せる。
 先程コナンが工藤新一の名前を出してから、江戸川コナンの周辺まで探りを入れられており、嫌な予感がする。コナンの脳裏に、先日対峙したベルモットをはじめとする黒の組織や、何より大切な蘭の姿がよぎる。

「ねぇ、江戸川くん」
「なぁに?野宮刑事」

 不意に呼びかける野宮に、コナンは努めて冷静を装って返事をする。

「人間の脳って、10%しか使われてないんだって。君は残りの10%がどうしてあって、そこにどんなスペックがあるのか。どう思う?」
「えっ?」

 本日二度目の驚愕だった。
 野宮の問いかけは、脳の10%神話というものだろう。以前はかなり医学系の学術雑誌などで話題となり、そのキャッチーさから広告などでもしばしば使われている。しかし研究が進み、この説は否定的な意見が多くなり、文字通り“神話”扱いされているのである。

「んー、ボク難しくて分かんないや」

 まあ、10%神話がどうとか、違和感を持たれている相手に、これ以上違和感を与えるようなことは言うまい。当たり障りなく誤魔化す。
 その回答に満足したのか、「そう」とだけ答えると野宮は伝票を持って立ち上がる。傷に障るのか慎重に立ち上がり、松葉杖をついてレジまで行こうとして。後で使うためか、カバンのファスナーの上に乗せられていたスマートフォンが落下する。
 白のボディに、水色の花のシンプルなケースがかけられており、ケースの縁がラバー製で衝撃を吸収したのか、傷はなかった。コナンが拾って渡すと、礼を言って伝票と一緒くたにして受け取った。
 そのまま店を後にした野宮の華奢な姿を見て、コナンは思考する。彼女は何が目的で探りに来たのか。そして、彼女は黒の組織と関わりはないのか。万が一、黒の組織の構成員だった場合、キャリアの刑事として警察に居る理由はスパイ行為。危険が伴う上に、より慎重にならなければならないようだ。




「子供だから分からない、ね」

 江戸川コナンの知能は小学校一年生のレベルではない。読める漢字やその思考力。恵の身近にも一歳の頃から“何故世界は人間を産み出したのか”なんてことを考えてた魚顔の同期刑事がいる。そういう者のように、単に天才なのではと考えたこともある。考えすぎなのではと思ったこともある。
 だが、調べると工藤新一が世間から姿を消して高校を休学した時期と、江戸川コナンが毛利探偵事務所へやってきて小学校に転入した時期はほぼ一致する。工藤新一の両親が著名人なのもあり、彼の幼少期の記録は少ないが残っていないわけでなはい。その人相はかなり似ていた。
 もし、彼が“年齢操作”ができるとしたら。そんなSPEC HOLDERだとしたら。そうしたら早急に彼を保護しなければならないだろう。
 恵はわざと落としてコナンに拾わせた、スマートホンからケースを外してビニールへ移す。クリア素材のそれを掲げて、ほんの少し目を細めた。

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