うつくしくも醜くもない幻想

 恵は過去の事件のトラウマから、定期的なカウンセリングと医師の診察を受けている。事件直後から恵のケアに当たってくれた病院と同系列のクリニックで、主治医やカウンセラーが出向しているので、病院と変わらず治療を受ける事ができるのだ
 何年も通っているので、そこで働く医療従事者はほとんどが知り合いだ。恵の担当ではないが、カウンセラーの女性が一人、無断欠勤をしたようだ。勤務態度は真面目で、無断欠勤などするタイプではない。何か事件に巻き込まれてないと良いけど、と呟く担当カウンセラーに頷いて同意を示した。これが一昨日のこと。
 それから恵はSPECを使ってクリニックのカルテを堂々と盗み見る。カウンセラーは 弍科にしなふたば、三十歳。受け持ち患者は十数人いるが、最後の診療録は金曜日の一番最後の枠の泡瀬あわせきよし、五十歳代男性。十代の頃に発症した強迫性障害で通院しているようだ。
 刑事の勘が、この男を張れ、と言っていたので昨日と今日張り込み、そして早速収穫があったというわけだ。

 一番驚いたのは、男がSPEC HOLDERだったことだろう。見たところ泡のようなものを指先から発生させて操っていた。廃ビルの割にやけに綺麗な室内に、これが能力か、と妙に納得する。
 ぶつぶつ呟いて眺めるだけだった男が、急に弍科の股を開かせようとするので、咄嗟に襟首を掴んでタイルの床に滑らせ転がした。本当は蹴っ飛ばしたいところだが、まだ折れた足が本調子ではないのでやめた。

「そこまでだ」

 恵が声を出したことで、SPECが解かれる。
 泡瀬は突然現れて水を差した恵には目もくれず、ただ汚い、汚い、と恵が掴んだ首元周りで手をわなわな振るわせている。

「汚い!!!」

 そう唾を吐き散らしながら叫び、SPECで首回りを綺麗にしていく。綺麗になるのにしばらく時間を要し、その後鋭い眼光を恵に向ける。泡瀬は恵を敵と認識したようだった。

「アンタ、今弍科さんに何しようとした」
「触られて、汚くて、許せなくて、でもふたばさんは良い人だから、洗ってあげようって。でも、ふたばさんが綺麗だったら、何にも問題ないなって」
「日本語通じんのか」

 しばらく泡瀬の支離滅裂な言葉を聞いて、なんとなく恵は意図を察する。
 ようは泡瀬は、弍科に好意を持っているようだ。まあ、今まで強迫性障害のせいで家から出ることも難しく、社会参加が難しかったこの男にとって、辛抱強く辛いことを聞いて同調してくれる弍科は天使だったのだろう。
 カルテにもあったが、泡瀬の経過は比較的良好だったようで、そろそろ信頼できる人間の配慮のもとで、接触を試みても良いタイミングだったようだ。そして恐らく、弍科は配慮のもとで泡瀬にタッチングを行い、そのウブすぎる恋心と逆鱗に触れてしまったようだ。
 それでSPECを使って誘拐、監禁。どうしたら良いのか分からず、ひとまず放置して、今日。眠る彼女を見て、彼女が綺麗(処女)なら触られてもセーフじゃね?ってことになり、股を見て確かめようとした、と。

 まず、セーフじゃねぇよ、既にアウトだわ。チェンジだわ。一発レッドカードだわ。って感じだが、ひとまずそれは置いておく。にしても股を見て何がわかるんだか、この童貞め。ついでに言うと、弍科は職場では色々と気をつかうから隠していたが、普通に婚約者が居て結婚秒読みなので、まあ、綺麗(処女)云々で言えば汚いと思う。ハイ。

「ともかく、アンタのしたことは犯罪。障害者だろうが、出るとこ出て精神鑑定して責任能力問うことになるんで、ひとまず逮捕だ」

 ギラギラと血走った目に、大人しく手錠をかけさせてもらえないことは分かっている。どうするか、どう出るか、と伺っていると、泡瀬が吠えた。

「全部お前のせいだ!!」

 そう言って手のひらを向けられると、小さなシャボン玉が無数に飛び出してきて、咄嗟にかわそうとする。かわしきれないので、腕で目元や口元をガードするが、パチン、と弾けたそれになんとなく気が遠くなる感覚。睡眠作用のある気体を閉じ込めてるのか、と悪態をつきながら、ジャケットの脇に隠している拳銃で太ももを掠めるように打つ。
 チリ、と走る熱感と痛みに目が覚める。泡瀬を撃ちたくても視界が悪いので、走って横移動する。
 今度は反対側の手を床に滑らせるようにされて、タイルがツヤツヤのピカピカ、ワックスかけすぎなくらいにツルツルになり、恵はすっ転ぶ。

「こ、ンのクソ野郎…!」

 そんな悪態と共に、恵はSPECを使って姿を消す。泡瀬のような衝動的な犯行は、ニノマエの足元にも及ばない。恵はまだ経験の浅い刑事だが、この程度の犯人なら確保は容易い。
 堂々と泡瀬の背後に回り、銃で首を殴って気絶させる。SPECを解除して泡瀬に手錠をかけた時、ドアの外にコナンの姿を見つける。どうやら泡瀬を尾行していたのは恵だけじゃなかったらしい。

「出てきたら?江戸川コナン、いや、工藤新一くん?」
「…どうして僕を新一兄ちゃんだと思うの?」
「警視庁に残っていた工藤新一の指紋と、この前君が拾ってくれたスマホカバーの指紋、一致したよ」
「今の、何?」

 コナンは真剣な瞳で恵を見つめる。指紋が一致したことを告げれば、重くため息をついた。
 そして、コナンは話を変えた。その目は信じられない物を見て、それでも信じるしかないと書いてあった。恵はコナンが年齢操作のSPECを持っていると考えていたが、どうやら本当に違うらしい。
 それならば、余計な危険に巻き込むことはない。

「君がそちら側の人間なら、教えられないね」
「脳の10%神話。野宮刑事は、残り90%に秘められたもの、知ってるんだね」

 恵はたとえ沈黙が答えになるとしても、答えるわけにはいかなかった。彼が持つのは確証ではなく、予想でなくてはならない。
 コナンを探るために、脳の10%神話の話をしたのは失敗だったか、と恵は相変わらずの無表情のまま思考した。

「君はこちら側の人間だと思ったけど、どうやら違うようだから、ひとつ忠告」
「忠告?」
「これ以上こちらに踏み込んではいけない。この男は小物だけど、この程度では済まないからね。私のあの怪我を見て、どうか踏みとどまって欲しい」
「…でも、」
「でももだってもない。君はまだ未成年で、大人に守られる側だ。ここから先は、大人の、刑事の仕事。捜査権もないただの未成年が悪戯に首を突っ込んで良い問題じゃない。分かるね?」

 少し語気を強めて、諭すように言えば、彼は黙るしかない。

「今度は私の番」

 恵はコナンに近寄り、しゃがんで目線を合わせる。

「君は、どうしてそんな姿をしているの」
「…言えないよ」
「新一くん、君は未成年なんだよ。そんな大きな問題は、一人で抱え込める物ではないよ。大人に頼りなさい。私は刑事だし、口は堅いよ」
「本当に危ないんだ。野宮刑事を巻き込めないよ」
「頑固だねぇ。巻き込め、って言ってるの」

 ぐに、とコナンの頬を摘む。大して力は入れてないので、痛くはないだろう。
 コナンの目はいつもより更に真剣だ。恵を巻き込むのを恐れる、優しい子だ。

「本当に、危ないんだ」
「君が言うなら本当にやばいんだろうね」
「簡単に人を、殺してしまう」
「それは刑事として見過ごせないな」
「規模も、目的もまだ分からないんだ」
「諜報なら任せて。さっきの見たなら分かるよね?」
「……場所を、移したい」
「分かった。そうしたら私はこの場を仲間に預けるから、それまで待ってほしい。時間はある?」
「うん、大丈夫」

 コナンからその言葉を聞き、恵は満足する。立ち上がって電話で、野々村を呼び出し、救急車を要請するよう依頼する。こんな時、当麻が居れば来てくれるのだが、あいにくまだ入院中だ。野々村が係長を呼びつけるとは何事だ、とは言わない人で良かった。
 救急車に弍科を任せ、野々村に泡瀬を引き渡す。応援で野々村の元部下の捜査一課弍係も駆り出されたようで、彼らに軽く引き継ぎをして恵はビルから出る。

「さて、どこに行こうか」

 恵のSPECで隠していたコナンに話しかけ、SPECの解けた彼と一緒に場所を移した。

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