私たちこんなふうに満ちたりたかった

 連れてこられたのは工藤邸の隣、阿笠博士の家だった。髭を蓄えた小太りの男と、やけに大人びた少女に出迎えられる。少女の淹れた人数分のコーヒーで、なんとなく少女もコナンと同じなのだと悟る。

「江戸川くん、彼女は…」
「私は警視庁公安部公安第五課未詳事件特別対策係、通称未詳の刑事の野宮恵」
「公安!?」
「江戸川くん貴方、素性も知らずに連れてきたって言うの!?」

 きちんと配属先まで自己紹介したのは初だったか。かなり驚いた様子のコナンに、恵は予想外のリアクションだったので目を丸くする。今まですっとぼけたり、探りをいなされていたので、新鮮な反応だった。
 事の経緯を踏まえればコナンの事情も分かるが、少女の怒りも尤もだと思ったので、恵はしばらく二人のやりとりを静観する。最終的には阿笠が宥める形で、場が取りもたれた。

「そんで、指紋で俺が工藤新一だってことがバレちまって…。野宮刑事は信頼できるし、色々あって手伝ってもらうことになったんで、説明するためにも連れてきたんだよ」
「飽きれた。でも、これで貴方の無鉄砲がおさまるなら良いかもね」

 通称黒の組織。目的は不明、正確ではないが世界規模の組織。幹部は全身黒ずくめで固めており、酒の名前がコードネーム。分かっていることはそれくらいらしい。
 工藤新一と、灰原哀もとい宮野志保は、APTX4869という毒薬の作用で体が10歳ほど退行した。この毒薬を作ったのが宮野志保で、組織でシェリーとコードネームのつく科学者であったという。本人は毒薬を作っていたつもりはなかったそうだし、まだ実験段階の薬を勝手に使われたり、唯一の家族であるお姉さんが亡くなったりと、不遇な経歴を持つ。現在は解毒薬の開発中だそうだ。

「なるほどね…。それだけ規模が大きくて危険性が高いなら、警察も動いてるかもしれない。しばらくは庁内で情報収集とか手がかりを探してみるよ。コナンくんは、くれぐれも危ないことに首を突っ込まないように。何かあればすぐに連絡・相談。分かった?」
「わぁーってるよ」
「いざ事件ってなったら、嬉々として首を突っ込むでしょうけど」
「おい、灰原、お前、」
「報連相、分かってるよね?」

 深い笑顔で圧をかけると、分かった分かった、と何度も頷くので、これで勘弁してやることにする。



「アイテっ!!」
「それで、私に何をして欲しくて呼び出したの」

 案の定黒の組織に首を突っ込んでいたらしい。認めたくはないが、FBIと協力しているようだったので、気を遣ったのだろうと大目に見て拳骨一発で済ましてやる。あまり怒ると、怒られるのを恐れて頼ってくれなくなるし。まあ、怒ってるが。

「野宮刑事の力って、姿を見えなくする、で合ってるよね?」

 耳元でコナンに問われたそれに、恵は無表情のままコナンを見つめる。コナンが少し慌てて、また小さく付け加える。

「それって、他の人も姿を見えなくできるんだよね?」

 恵の視線の温度が冷えたことを感じたのだろう。コナンが慌てて取り繕っているが、圧をかけるのもバカらしくなって、ため息をひとつこぼす。
 ニノマエの一件の前、ナンシーが死亡した。親友の当麻に請われて、アメリカからわざわざ来て捜査協力の最中のことだった。アメリカ領事館に連絡を入れると、たまたま休暇中のFBI捜査官のグループが日本にいるそうなので、そちらに遺体を引き渡すことになっていた。
 当然、FBIにはアメリカ国籍の女性がなぜ死亡したのか理由を問われたが、SPECのことも捜査のことも言えるわけがなく。守秘義務があるので、と突き通した結果、FBIには貸しを作ることになってしまっていた。
 FBIに協力すれば貸しも返せるし、危険からコナンを避けることにもつながる。手を取りたくないが、取るしかないだろう。

「できるよ」
「!!それなら!」
「ただし、一つ聞かせて。その人は一人?そして、口が堅くて信用できる人なんだね?」
「うん、大丈夫」

 コナンが真っ直ぐ強い瞳で返すので、恵は仕方ないと肩をすくめた。
 そして紹介されたのが赤井秀一という男だった。彼はFBIの捜査官として二年前まで黒の組織に潜入し、ライというコードネームを賜ったそうだが、とあるミスにより正体が露見してしまったらしい。以降、組織、特にジンという男に目をつけられているそうだ。
 更にアナウンサーの水無怜奈が組織構成員のキールであること、そしてその正体がCIAの諜報員であることを突き止める。組織は血眼になってキールを探しているため、これ以上隠し通すのは不可能。
 そこで、彼女をあえて組織に戻し、組織に戻って信頼を取り戻させるために、赤井秀一を殺す、という計画が持ち上がった。もちろん、赤井秀一の死は偽装で、しばらく顔と名前を変えて隠遁生活を送るらしい。

「ホォー、君がボウヤの隠し玉か。俺は赤井秀一、よろしく」
「日本警察の野宮恵。これからあなたに国家機密級の秘密を明かす訳だけど、コナンくんに免じたくらいじゃ足りないわね」
「作戦の成功のためだ。俺に出来ることなら要求に応じよう」
「そうね…。それなら貴方のことを教えてもらおうかしら。名前と肩書しか知らない男に、女の秘密は明かさないわ」

 赤井はハハ、と笑い、これに応じた。聞けば、随分と不器用な男らしい。聞けば聞くほど、組織潜入のためにハニートラップをしたなんて、信じられない。こんなに向かない男だからこそ、だったのかもしれないが。

「それじゃあそのバカな女に誓ってもらいましょうか。いかなる場合でも、秘密を他言しない、と」
「これは一本取られたな。誓うよ」

 誓いを立てるだけなんて、信用は置けない。それでも、この男臭くて義理堅い男には、効果があったようだ。

「人間の脳は約10%しか使われていない。そして、残りの90%に秘められている能力を、私たちはSPECと呼称している」
「SPEC……」
「このSPECを有する人間、SPEC HOLDERは世界中で確認されている。そして、私もその一人。私は透明人間になれる」
「僕も見て実際に透明にしてもらったけど、本当だよ」
「厳密には認識阻害、って表現の方が正しいかな。人間の目、意識すればカメラやその他の機器から、私や対象を認識できなくする能力」
「今回の計画で、楠田の遺体を隠したりすり替えて準備したり、その後の赤井さんを隠すのに協力してくれるよ」
「にわかには信じられないが、そうなんだろうな。よろしく頼む」

 先ほどの自己紹介では、恵は形式的にも応じなかったそれ。わざとらしく握手を求められたそれに、恵は鼻をフンと鳴らして応じた。

「分かってると思うけど、SPECやSPEC HOLDERの存在を明らかにすれば、どうなるかは分かってるのよね」
「うん…」
「包摂か排除か。どちらにせよ争いは起こる。無闇なことはしないさ」

 SPEC HOLDERは単独で大規模テロが可能な戦力を持つ。恵の透明化も、悪用すれば大量虐殺も完全犯罪も容易だ。包丁と同じ、使い方次第で便利な道具にも他人を傷つける凶器にもなる。
 そして、そんな強力な力を有する人間に対して、ヒトは囲うあるいは排除に出る。ようは、味方として戦力になってもらうか、敵として淘汰するか、ということだ。マイノリティはいつも苦境に立たされる。
 恵がいう国家規模、というのも納得だ。SPEC HOLDERが兵器として機能する。持つ者と持たざる者だけでないく、国と国の戦争に発展しかねない。事の重大さに、コナンは背筋に嫌な汗が伝った。

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