it falls on mind

 

雨季が開けて秋の匂いがしてきたのに、気持ちの悪い空気がそれを消し去った。また天候が悪くなってきた。明日はきっと雨が降る。だから、私は引き籠る。



*



部屋に沢山の蝋燭を灯し、机で本を読んでいた。外は雨で、湿気た匂いを誤魔化すためにヒルダちゃんに調合してもらった香水を部屋中に撒いたせいか、さっきから鼻がムズムズする。たまに鼻を押さえながら剣術の指南書を読んでいると、部屋の扉を叩く音がした。
私はそれを無視して本を読み続けていると、今度はドンドンドンと鬼気迫るような扉を叩く音がしてきた。この感じはレオニーかな。

「レオニー……えっ。フェリクスくん?何してるの?」

仕方なく扉を開けると、雨に濡れて髪から水滴を垂らすフェリクスくんがいた。

「何故、約束を破った?」

「あ、ごめんね。レオニーから伝言来てなかった?えっと、濡れてるし拭き布持ってくるね」

棚から布を取り出しフェリクスくんに差す出すけれど、フェリクスくんは受け取ってくれない。

「とりあえず入って」

濡れたフェリクスくんの服の裾を引っ張って部屋の中に入れた。それから騒がしい雨音のする外を遮断するように部屋の扉を閉めた。
背伸びをしてフェリクスくんの頭から布を被せれば、漸くフェリクスくんが濡れた頭髪を拭き始めた。

「何か匂うな、この部屋」

「ヒルダちゃんに貰った香水を撒いたんだ。それより、何でわざわざここに来たの?」

「……ナマエをずっと待っていた。だが、来たのはレオニーでおまえは来ないと言われた。何故来なかった?」

フェリクスくんが不機嫌そうに言う。
今日の朝に一緒に大広間で理学を勉強して、その後は訓練をする予定だった。でも、雨が降ったから部屋から出たくなくなり、レオニーに言伝を預かってもらった訳だ。

「雨の日だから、外に出たくなかったの。ごめんね」

「なんだそれは。レオニーも言っていたが、雨季になると引き籠るらしいな。何故だ?」

フェリクスくんは頭に乗せた布を片手で引っ張り、手に持つ。それから眉間に皺を寄せながら、まとめた髪から無造作に飛び出す前髪を左右にかきわける。
フェリクスくんの質問に答えるのには勇気がいる。彼に問われた時、頭の中で嫌な記憶が呼び覚まされ、不安で苛立つ。それでも、何故かフェリクスくんには答えたいという気持ちが僅かながらあった。

「それは……怖いから」

「何が怖いんだ?」

何が、と特定するような質問に嫌な記憶が鮮明になって来る。霞がかかったような不鮮明な灰色の世界にまるで色が足されていくように、徐々にその時の景色を思い出す。あの日の花の色、森の色……魔獣の色。

「あ、雨が降ると……」

震える声を絞り出した。フェリクスくんは黙って私の言葉の続きを待ってくれている。

「魔獣が出るから……」

「魔獣だと……?」

フェリクスくんは訝しげに聞き返してきた。せっかく勇気を出して話したのに、信じてくれてないように見えて不安になる。

「ほ、本当だよ!雨が降ると森に魔獣が出るの!だから、雨が降りそうなだけでも、私具合悪くなっちゃって」

「落ち着け。魔獣の出現に雨なんて関係ないだろう。それにこんなところに魔獣が来るわけがないのだから、大修道院内なら大丈夫だろう?」

「関係あるよ!森に行ったら、魔獣がいるよ。それに部屋の外まで危険に感じて不安になるの……」

「……雨の中魔獣に遭遇したことがあるのか?」

「そうだよ」

10年以上前のこと。雨足が白くしぶく程激しい雨の中、私は魔獣に襲われかけた。その時は偶々通りがかった騎士様に助けてもらえたけれど、あわや死ぬところだった。未だにあの時のことが忘れられず心に残っている。あれから私は雨が苦手になった。

「雨が駄目では生活に不便が生じるだろう。現に俺との約束を破り、雨季には訓練を3週も休んだのだからな。既に実害が生じている」

「でも、生活できてるよ」

「本気でそんなこと言っているのか……?」

「うん」

「はあ……待ってろ」

フェリクスくんは私に布を押し付けると、部屋から出て行ってしまった。暫くすると、フェリクスくんは頭巾付きの外套を持って戻ってきた。

「これを着ろ。レオニーから借りてきた。猟師用だから使い勝手は良い」

フェリクスくんと同じ型の頭巾付きの外套を肩にかけられた。凄く嫌な予感がする。

「私を外に出す気……?」

「ああ」

フェリクスくんに外套が脱げないようにしっかりと着せられ、頭巾を目深く被せられた。私は目が見えないことをいいことにフェリクスくんの薄く整った唇辺りを見つめた。フェリクスくんと目を合わせるのにまだ慣れていなかった。

「私、やだよ。外出たくない」

「雨が降っても魔獣が出るわけではないことを証明する。もし、出たとしても課題で倒したことがあるのだろう?」

「私は魔法で後方支援だったし、ベレト先生とか皆が守ってくれたから……」

「万が一にも魔獣が出たら、俺が守るから安心しろ」

フェリクスくんは腰に佩いた剣に触れた。フェリクスくんの実力はよく知っているけれど、不安なことには変わりない。

「怖いよ……」

「大丈夫だ。俺を信じろ」

フェリクスくんは私の両肩に手を置く。こんな風に触られるのは初めてでびっくりした。けど、こんな風に側にいてくれるなら私も安心できるかもしれない。私を助けてくれようとするフェリクスくんの姿勢に応えたくて、少し勇気を出してみようかなと思う。

「私、フェリクスくんを信じるよ」

「なら、行くぞ」

フェリクスくんに手を引かれて外に出た。雨は地面が濡れる程度の量だった。手を繋ぐなんてさっきから積極的なフェリクスくんにドキドキした。



*



ガルグ=マクから少し離れたところに森がある。雨の中、裏門から外に出て歩いて険しい勾配を上り、森の入口まで来た。雨はそれ程強くないけれど、外套の下の制服まですっかり濡れてしまった。
草木の生い茂る森を見上げると、急に世界が小さくなったように空が狭い。同盟領にある森を思い出し、雨の中魔獣に襲われた時の記憶がはっきりと頭の中に広がっていく。
両手で体を掻き抱き立ち竦んでいると、フェリクスくんは私の背中を叩き、行くぞと言う。私が体を抱いていた手を離せば、フェリクスくんがその手を取ってくれた。雨に濡れて手が滑りそうだけど、フェリクスくんは指を絡めて、ギュッとしっかり握ってくれた。ドキドキしながら、フェリクスくんを見上げると、真っ直ぐ前を向いている。
そうだ。今はフェリクスくんがいる。フェリクスくんが私を守ってくれると信じて森に入ってみよう。それでこの目で魔獣がいないことを確認しよう。

「今のところ気配も鳴き声も聞こえない。魔獣はいないだろうが、暫く森の中を歩くぞ」

「うん」

フェリクスくんに手を引かれて、どんどん森の奥へと入っていく。
耳を澄ませば、枝を踏みしめる音や微かな鳥の鳴き声、か細い雨音しか聞こえない。それでも、魔獣が出るかもしれないという不安からなのか額に汗が滲み、胸の鼓動が激しくなる。喉は乾くし、指先が痺れた感覚がする。

「大丈夫か?」

「うん」

時折フェリクスくんが頭巾を浅く被り直しながら、私を見下ろして様子を確認してくれた。フェリクスくんの優しさに安心しては、僅かな雑音を割って魔獣の鳴き声が聞こえるのではないかと想像してしまう。
暫く歩いていると、フェリクスくんが木の葉の密集する木の下に行くと立ち止まって握っていた手を解いた。

「どうしたの?」

「靴の紐が解けた。待っていろ」

「私が結び直してあげるよ」

フェリクスくんの足元にしゃがみ込んで、解けた靴の紐を手に取った。その時、高く鋭い生き物の鳴き声が空間を裂くように響いた。

「きゃああああ!」

「おい!ナマエ!」

死んじゃう。殺されちゃう。逃げなくちゃ。
ばっと立ち上がり、どこか隠れる場所を探して死にものぐるいで走った。木々の合間を縫うように通り抜け、幅の狭い川を飛び越えると、地面がぬかるんでいて踏ん張れずに地面に伏してしまった。このままじゃ追いつかれちゃう。力を振り絞って跳ね起きてまた走り続けると、洞穴を見つけて中に飛び込んだ。洞穴の入口付近の大きな岩の後ろの陰に隠れた。
耳を澄まし、岩の上から顔を出して外の様子を覗き見た。特に魔獣がいるような様子はない。
鼓動が絶え間なく打ち鳴らされ、破裂しそう。なんとか鼓動を落ち付けようと深く呼吸を繰り返して行くうちに段々落ち着いて来て、足の痛みに気づいた。さっき転んだ時に捻ってしまったようだ。
それから、フェリクスくんを置いて来てしまったことに気がついた。途端にフェリクスくんのことが心配になった。彼が魔獣に襲われちゃったらどうしよう。
不安に押しつぶされそうになりながらも、長い間物陰から外を見ていた。そのうち、微かに人の声が聞こえてきた。フェリクスくんかも。
捻った片足を引きずって洞穴の中から顔を出して、外を見ると木々の間にフェリクスくんが遠目に見えた。外套の頭巾を取り、左右を見渡している。

「フェリクスくん!」

フェリクスくんに向かって大きく手を振った。フェリクスくんが私に気づくと、こちらへ走り寄ってくる。

「ナマエ!どうして逃げ出した!」

「魔獣の鳴き声が怖くて……私、パニックになっちゃって……逃げ出してごめんなさい」

「さっきのは鳥の鳴き声だ。だから魔獣はいないと理解しろ」

「確かに姿は見てないけど……もっと雨が強くなったら出るかも」

「そんなことはない。いいか?雨と魔獣には関係性はない。だが、雨が強くなれば怪我のリスクが高まって帰れなくなるぞ。それに大分深くまで来たから、日が落ちたら方向がわからなくなる」

「あ、私、足挫いちゃって……歩くの時間かかっちゃう」

「足の腫れを確認する。見せろ」

膝丈くらいの岩の上に腰掛けて、挫いた左の足首をフェリクスくんに見せた。洞窟の入口の方といえど、雨のせいで辺りが暗いせいか、じっくりと足を見られて恥ずかしくなった。

「この程度なら肩を貸せば歩けるだろう。雨が酷くなる前に帰るぞ」

「うん」

靴を履き直していざ洞穴を出ようとすると、急に辺りが暗くなり、桶をひっくり返したような雨が降り始めた。これは予兆だと、本能的に感じ取り身震いした。湿気た不気味な匂いを感じる。魔獣の匂いだ。

「魔獣が出る……」

「出ないから安心しろ。しかし、これだと帰れんな」

「これからどうなるの……?」

「このまま雨が強く降り続ければ野宿になるだろうな」

「魔獣が出たらどうしよう……」

「魔獣は出ん。出たとしても俺が守るから問題ない。何度もそう怯えるな。そんなに俺が信じられないのか?」

「ご、ごめんなさい!私、今冷静じゃなくて……」

いつも優しいフェリクスくんが苛ついたように言うので、はっと自分の所為で帰れなくなったことを思い出して謝った。

「……いや、俺が無理に連れ出したのが悪かったな」

「ううん……いいの……ふぇっっっくしゅんっ!あ、くしゃみ出ちゃった……」

フェリクスくんの前でくしゃみが出てしまい、恥ずかしくなって口元を隠した。するならもっと可愛くしたかったのに、耐えきれずに出したようなくしゃみだった。

「風邪か?体温はどうだ?」

「えーと……自分じゃわからないよ。熱いかなぁ」

額に手をやると手も額も熱を持っている気がした。そんな私を見兼ねてか、フェリクスくんは私の額に手をやるので時が止まったように動けなくなった。好きな人に額を触られてドキドキしない訳がなかった。それは魔獣による恐怖とは違う、高揚感を伴ったものだ。

「体温が上がっているな……マヌエラ先生に見せんとわからんが、風邪かもしれん」

「どうしよう……」

「とにかく今は動けん。体を冷やさない為にも濡れた外套は脱げ」

「それが……私、中までぐしょぐしょで……」

両手で外套の内側の服に触れると、湿っていて体にまとわりついている。

「……濡れたものは全て脱げ。身につける方が体が冷える」

「うん……」

確かにフェリクスくんの言う通りだ。まずは外套を脱いで、乾かすように外套を大きな岩の上に広げて置いた。フェリクスくんも外套と制服のベストを脱ぎ、同じようにした。それからフェリクスくんが靴を脱ぎ始めた。

「靴も脱いだ方がいいかな?」

「濡れているなら」

私は膝丈の岩に腰掛けて、靴と太腿丈の靴下を脱いで靴は岩に立てかけ、靴下は岩の上に干すように置いた。
外套と靴と靴下を脱いだら、あとはシャツとスカートだけになった。いざ脱ぐとなると、凄く勇気がいる。
フェリクスくんの方を見ると、シャツを脱ぎ始めていて、慌てて目をそらした。

「急に脱がないでよ」

「男の裸など大したものじゃないだろうが」

「だ、だって……」

ちょっと気になってちらりと見れば、フェリクスくんの露出した上半身は筋肉で鍛えられ肥大していて、細いと思っていただけに脱いだ時との落差に驚いた。
フェリクスくんはまとめていた髪を解いて無造作にかきあげた。初めて髪を下ろしているところを見るけど、凄くかっこいい。濡れた青灰色の髪が黒く見え、昔私を助けてくれた騎士様を思い出した。

「見てないで、早く脱げ」

「み、見てないもん!フェリクスくんだって、こっち見ないでよ」

フェリクスくんはフンと鼻を鳴らすと洞穴の外の方へ向いてくれたので、私は後ろでシャツとスカートを脱いで下着だけになった。見ないようにしてくれているとはいえ、フェリクスくんの前で下着姿になる日が来るなんて思いもよらなかった。凄く緊張するし、恥ずかしい。

「脱いだよ」

「足を痛めないよう座っとけ」

「うん」

地面に膝を抱えて座った。服を着ていない所為でお尻が痛いし、体が寒く、顔が熱い。この状態で魔獣が現れたらどうしようと不安が募り、体が怠くなる。
フェリクスくんはベルトと剣を繋ぐ佩環から、剣を抜き取ると地面に置いて座った。

「体調が悪化しそうならちゃんと言え」

フェリクスくんは背を向けたまま、優しく言ってくれた。

「うん……ちょっと怠いかも」

「寒さは?」

「寒い……頭は熱いんだけど、体が寒くて……」

「外套が乾いたらそれを羽織れ。我慢出来ないなら……来い」

「来いって……?」

「女は筋肉が少ないから体が冷えやすい。それに足を痛めた今、動けない分体が冷えていく一方だ。体を寄せれば少しはマシになる」

「それって、私がフェリクスくんとくっつくってこと?」

「そうだ」

想像しただけで、魂が抜けてしまいそうな思いになる。それにこんな露出した肌同士をくっつけるなんて、もう一生お嫁にいけなくなるし、大変なことになる。お父さんが聞いたら怒るだろうし、傷物扱いされそう。

「そんなことしたら、お嫁にいけなくなるよ……」

こんなこと言うのも恥ずかしくて、抱いた膝に顔を埋めた。

「嫌ならいい。無理強いはしていない。寒さに耐えられるならそれに越したことはない」

「うん……ふぇっっっっくしゅんっ!」

またくしゃみがでてしまった。身が震え、悪寒までする。
フェリクスくんは舌打ちをすると、立ち上がりこちらを振り向いた。

「み、見ないで!」

「見ないから安心しろ」

びくびくしながら近づいてくるフェリクスくんの顔を見ると、ちゃんと目を逸らしてくれていて気遣っているのがわかった。それからフェリクスくんが私の後ろに回ると、後ろから腕を回され抱きしめられた。フェリクスくんの顔が首元に来て、心臓が今にも爆発しそうなくらいドキドキするし、魂が抜けてしまいそう。
露出した肌同士のくっつきに、フェリクスくんの熱を感じた。フェリクスくんがこんなに体温が高いことにびっくりする。

「フェリクスくんの体凄く熱い」

「おまえの体は冷た過ぎるし、柔い。もっと鍛えろ」

「そうだよね。エピタフになるには筋肉ちゃんとつけないとね……」

「……」

「……」

暫く沈黙が続き、気まずくなった。爆音を奏でる心音に気づかれてしまうのが怖くて何か話さなくちゃと思う。

「魔獣を何故そこまで怖がるんだ……?」

先に沈黙を破ったのはフェリクスくんで、恐る恐ると言った語調で聞いてきた。
確かにフェリクスくんにはちゃんと話していなかった。私がこうも怖がるのには理由がある。

「10年以上前の話なんだけど、森の中で遊んでたら、雨が酷く降ってきたの。普段は魔獣なんて出ない森だったのに、急に魔獣が現れて襲われたの」

「襲われても今は生きているだろう」

「そうだけど、当時はすっごく怖かったんだよ!その時はまだ子供で、何も出来なくて……魔道が得意だったのに何もできなかった……」

昔を思い出して身震いすれば、フェリクスくんが私を抱く腕に力が込められるのを感じた。

「雨と魔獣は関係ない。雨じゃなくとも魔獣は出るだろう?」

「でも、でもっ……死にそうになった経験があるから怖いものは怖いんだよ!雨が降ったら、体が、頭が、思い出すの!心臓がキュッと掴まれたように痛むし、喉はカラカラに乾くし、指先とか腿の辺りが痺れるの!」

「俺にはその感覚はわからん。だが……魔獣が出れば、俺が必ずナマエを守る。だから、怖がらなくていい」

「……絶対守ってくれるの?」

「ああ」

「ありがとう……」

私の体に回すフェリクスくんの腕に両手を置いた。
そうだ。あの時は誰も助けてくれるような人はいなかった。死に物狂いで逃げてもう駄目だと思った時、たまたま騎士様がいて助けてくれただけ。あの方がいなければ死んでいた。でも、今はフェリクスくんがいる。フェリクスくん程強ければ大丈夫。怖い思いをしながら逃げ続ける必要も死を感じる必要もない。だから、落ち着かなくちゃ。
信じよう信じようと思っても、それは難しくて、心がざわつくばかり。でも、いつかきっと克服できる。フェリクスくんがいれば、きっと。



*



陽が西南東へ近づいているのか、洞穴の中が少しずつ暗くなっていく。一方で外の雨は次第に弱くなっていき、気づいた時には雨音がしなくなっていた。
フェリクスくんは外に出て様子を一望した後、中に戻ってきた。

「今なら野宿をせずに帰れそうだ」

「本当?じゃあ、服着るね」

「ああ」

フェリクスくんが腕を組んで無心でこっちを見ているから、下着姿の私は立ち上がれない。困って、フェリクスくんを見上げた。

「……」

「……」

「こ、こっち見てないでフェリクスくんも服着て……」

いい加減、察しの悪いフェリクスくんに耐えきれずに指摘すれば、フェリクスくんは顔に血を巡らせてプイッと顔を逸らして、自身のシャツを岩の上から拾い上げた。
何も考えずに私を見てたのはわかってたけど、気づいた後の反応にこっちまで照れてしまう。
痛む左足を引きずりながら、膝丈の岩に腰掛け、広げて置いた濡れたシャツとスカートを身につけた。それから腿丈の靴下とブーツを履いた。最後に外套を羽織って、フェリクスくんの方を見れば、フェリクスくんはとっくに服を着替え終え、下ろした髪をまた纏めていた。下ろしていた方が好きだからちょっと勿体ない気がした。

「フェリクスくん、準備できたよ」

「ああ」

フェリクスくんの背に乗せてもらい洞穴を出ると、空が赤く染まり、厚い雲の切れ間に真っ赤な陽が顔を出している。今までの不安や嘘のようにすっかりと消え、体の怠さだけが残った。

「夕焼け綺麗だね」

「能天気な女だな」

「ごめんね。やっぱり重い?」

「それなりに重いが鍛錬だと思えば大したことではない」

「ショックだけど、明らかな嘘言われるよりいいかな……ふぇっっっっくしゅんっ!」

「おい。人の頭に唾を飛ばすな」

「ご、ごめんなさい!急にでちゃって」

「それになんだそのくしゃみは。ずっと気になっていたが、もう少し静かにできないのか」

「うっ。可愛いくしゃみじゃなくてごめんね。クロードくんは豪快で好きって言ってくれるんだけど、ローレンツくんにはよく注意されるからこれでも練習してるんだ。これがなかなか難しくて……可愛くやるからちょっと待ってて」

「……いや、いい。あの級長はそんなことを言っていたのか?」

「そうだよ。豪快な方が気持ちいいねぇって。クロードくんって変わってるよね。まあ、ローレンツくんがうるさいし、フェリクスくんも、その……静かな方がいいみたいだから次からくしゃみする時に気をつけるね」

「……好きにしろ」

静かにしろと言ったのに結局好きにしろ、なんだ。聞いてる限りは、フェリクスくんの好みは静かなくしゃみだと思うからヒルダちゃんに頼んで可愛いくしゃみを教えてもらおうと思った。



*


ガルグ=マクには陽が落ちる前に着いた。着いて直ぐにお風呂に入って着替えた。部屋の前で会ったレオニーには遅くまでどこにいたか聞かれたけれど、お散歩と言って誤魔化した。今日の出来事は色々と私には刺激が強過ぎて話せない。それからレオニーには外套を洗って返すと謝って、部屋に戻った。その日はご飯を食べる気力も無く直ぐに寝てしまった。
翌朝起きるとまた雨だった。小雨で、風邪で詰まった鼻から薄く湿った匂いがする。ヒルダちゃんの香水の匂いは消えていた。講義のある日は嫌々外に出ていたけど、今日はいつも程雨が嫌ではなかった。ただ、それでもちょっとは不安で、フェリクスくんが守ってくれると自分に言い聞かせて気持ちを落ち着けた。
昨日の一件ですっかり風邪を引いてしまった私はまだ痛む足を引きづりながら、ふらふらと教室に行くとフェリクスくんがいつもの後ろの方の席にいて、コホコホと咳をしていた。
昨日の出来事は、ベッドの上で何度も思い出しては転げ回るほど恥ずかしかったけど、話しかけない訳にはいかない。

「フェリクスくん、おはよ。昨日はありがとね」

「ああ」

「咳してたけど、風邪?」

「恐らくな。おまえは大丈夫なのか?鼻声だぞ」

「何か鼻が詰まってるんだよね。私が巻き込んじゃった所為でフェリクスくんまで風邪引いちゃったね。ごめんね」

「いちいち気にするな」

フェリクスくんはそうは言ってくれるけど、私の所為で無理をさせちゃったことが気がかりだ。
落ち込んだ気持ちを抱えながら、定位置である左側の前の方にあるレオニーの隣の席まで行くと、ヒルダちゃんがツカツカと小気味の良い靴の音を立てて私の席の前まで来た。

「おはよー。ねえ、ねえ。ナマエちゃんも昨日から風邪引いてるんでしょー?フェリクスくんと同じ時期に風邪なんて怪しいわよねー」

ヒルダちゃんは桃色の瞳を爛々と輝かせる。早速ヒルダちゃんに気づかれたみたいだ。ヒルダちゃんって本当に鋭い。

「ナマエはフェリクスと散歩に出てたからだよ。全く、雨の中外に出るから風邪引くんだぞ」

「全くもってその通りです……」

レオニーの言葉にしゅんとして頷いた。

「でもまあ、雨季と雨の日のナマエは引きこもりになるから、その点ナマエを連れ出せたフェリクスって凄い奴だよな」

「恋する乙女は好きな人の言うことは聞いちゃうのよねー」

レオニーとヒルダちゃんに突っ込んだ事を言われタジタジになって何も言えなかった。2人して教室で言う事無いのにと思う。

「でも、外に出て大丈夫だったのか?ほら、前に課題活動の帰りに雨に降られてさ、ナマエが驚いて急に走り出してその辺の木にぶつかって気絶したよな?」

「あー、あれには皆びっくりしてたわよねー」

「それはもう忘れてよーっ!今回はフェリクスくんのお陰でなんとかなったから大丈夫だったしさ!」

私の気絶事件はフェリクスくんが金鹿の学級に移動してくる前にあったことだった。その時は課題活動で疲弊してたこともあり、周りが見えなくなっていた。だから不可抗力だ。クロードくんも定期的にそれを持ち出してからかってくるからタチが悪い。

「あららー。またローレンツくんがフェリクスくんに絡んでるよー」

ヒルダちゃんの視線の先を振り返って見ると、ローレンツくんがフェリクスくんに何か言っていて、フェリクスくんが怪訝な顔をしているのがわかった。

「またフラルダリウス家の嫡子がーとかなんとか言ってるんだろうよ」

「案外ナマエちゃんの話だったりしてー」

「え?なんで私の話?」

「ほら、グロスタール家って最近騎士不足で苦労しているみたいじゃない?だから、ナマエちゃん家が雇ってる騎士団狙ってるんじゃないかなーって。それでナマエちゃんと仲のいいフェリクスくんに一言言いに行ったとかー?」

「ヒルダちゃん、それは邪推だよ」

確かに私の家は豪商で有難いことに潤っている。そのお陰で希少な騎士団を数多く雇うことができ、開拓中の海運業の為に騎士団で構成された海上警備隊を派遣して強力なコネを作ったり、謝礼を貰ったりしている。
だけど私の家は貴族ではないし、当然紋章持ちもいない。とてもローレンツくんのお眼鏡に適うとは思えない。

「そうかなー。でも、ローレンツくんってナマエちゃんを晩餐に誘ったりしてるでしょ?」

「そうだけど、別に口説かれてないよ」

「それは私とフェリクスもついていったからな。私とフェリクスの目があるうちはローレンツも手が出せないよ」

「ええ?それどういうこと?」

確かにローレンツくんに誘われて、ついでにレオニーとフェリクスくんも連れていった覚えがある。けど、2人がいるから口説かないなんて、ローレンツくんはそんなこと気にしないと思うけど。だって、ローレンツくんが皆の前でマリアンヌちゃんとかリシテアちゃんをお茶に誘ってるの何度か見てるし。

「どうもこうも、ローレンツの嫁探しの対象にナマエを入れるなって牽制をしてるんだ。だって、ナマエが好きなのはフェリクスだろう」

最近レオニーは私がフェリクスくんのことを好きであることを知っていて、応援してくれている。だから晩餐会について来てくれたのだと合点がいった。

「そうだけど、片想いだし、相手は王国の人だから……私の恋愛って現実的じゃないの」

「そっかー。片想いかどうかは置いといて、ナマエちゃんのところは1人娘だから余計に難しいわよねー」

「商人ってのも大変だな」

「うん。しかもお父さん事業広げてて……一応叔父さんに手伝ってもらってる分野もあるんだけど、殆ど私と将来の夫に継いで欲しいみたいで……」

「いっそフェリクスを婿養子にしたらどうだ?」

「そんな夢みたいなことあったらいいな。でも、彼の領民が不安になっちゃうだろうし、そんなことできないよ」

とは言ったものの、フェリクスくんはフラルダリウス家を継ぐ意思がないことを本人から何度か聞いている。彼の親と領民には申し訳ないけれど、本当に婿養子になってくれたら素敵だと思う。
私が士官学校に入ったのはエピタフの資格を取る為で、そのエピタフの資格も自分の家の為でもあった。こうして将来の準備をしていても、婚姻というものを現実的に考えたことは無かった。お家の為に必死になっているローレンツくんを見ていると、私も婚姻についてよく考えた方がいいのかなと心配になってきた。
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