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「大変です!お嬢様、起きてください!」

侍女のエルの叫び声で目が覚めた。今日は確かフェリクスくんと朝から稽古の予定だった。寝過ごしたのかと思って飛び起きると、侍女の手には湯浴み用の道具を揃えたワゴンが握られている。

「フェリクスくん、もう起きてるの?」

「フェリクス様は関係ありません!ダールベルク一家がいらっしゃるんです!」

エルは早口で捲し立てるように話す。凄く急いでいるようだけれど、窓から薄く射す光でまだ早朝だとわかる。

「お昼に来るんでしょ?知ってるよ」

「違います!今朝早馬が来て、日が南東に出る頃には着くようです」

「えーと、それまでどのくらいかかるの?」

「湯浴みとお化粧をする時間しかありません!言っておきますが、すごーく時間をかけて準備するように御主人様に申しつけられているのでお急ぎください!足の指先から頭のてっぺんまで整えるんですからね!」

歳が変わらないというのにエルはぴしゃりと私に言いつける。エルの気迫に押されて、仕方なくお水を飲んで浴室に向かって湯浴みをした。それから用意された淡い桃色のフォーマルドレスを着させられ、高い黒色のヒールを履かされた。

「このドレスの色は私には可愛すぎるよ」

「このドレスにお似合いになるお化粧をするので問題ありません。いいですか?見た人が皆お嬢様を好きになるくらい素敵にしてみせます!」

エルは気合の入ったように鼻息荒く言って見せた。昨日のお昼の時はいつも通りの薄化粧しかしてくれなかったのに。これもお父さんに何か言われたんだろうと察しがついて落ち込む。お父さんはやっぱり私とヴィムをくっつけたいんだろう。
エルにされるがままに丁寧で濃い化粧をされている間、もう1人の使用人に手の指の爪に艶のある塗料を塗られ、髪は女性らしくハーフアップにされ、結び目に黒いリボンを付けられた。最後に香水を首元や足元に振りかけられて漸く終わった。これまで相当な時間がかかり、すっかりお腹が空いた。

「エル、お腹空いたよ」

「昼食会までお水以外の飲食は禁止です!そんなことより鏡を見てください」

姿見で全身を確認すると、何よりまず顔に目がいく。瞳に力を入れた化粧で瞳がヒルダちゃんのようにぱっちりとして、鮮やかな色の頬紅と口紅で顔色がよく見える。
ちゃんと化粧をすればこんなにも変われるんだと感動した。この姿でフェリクスくんに会ったら、彼は可愛いって思ってくれるかな。でも、フェリクスくんはそういうのは興味なさそうに思える。洞穴裸体抱擁事件のことが忘れられなくて、ヒルダちゃんにちょっと話してみたら、引き気味にフェリクスくんのことを木石扱いしていたことを思い出した。

「エル、こんなに素敵にしてくれてありがとう。じゃあ、早速フェリクスくんに会ってくるね」

「駄目です。今日は個人的に学友と接することを禁じられております」

「なんで……?」

「ヴィム様のご機嫌を損ねないようにと仰せつかっております」

「でも、ヴィムは来てないじゃない」

「もうすぐいらっしゃる頃です。今はごゆっくりお休みください」

「もう!本当信じらんない!」

お父さんは相当今回の縁談を成立させたいみたいに思える。あれ程ダールベルク家は怪しいって言ったのに。やっぱりお金に目が眩んで娘を売る気なんだ。

「それと……昨夜フェリクス様のお部屋からお嬢様が出てくる所を他の使用人が見つけております」

「えっ」

ぎくりとした。昨夜男の人の部屋から出てくるところを見られてたなんて、なんて言われるか考えるだけで恐ろしくなった。

「フェリクス様のシーツを確認したところ、何もなかったということで御主人様には報告しませんが、今夜は絶対許しませんからね!」

「あ……うっ……」

シーツまで確認されたなんて恥ずかしくて何も言えなくなって、鏡台の前の椅子によろよろと腰掛けた。
結局休む間も無く伝令が来て、ダールベルク男爵がいらっしゃると言う。エルに追い立てられるように高いヒールで転ばないように階下に移動した。
玄関ホールには既に使用人や料理長、小部隊の騎士の人達が集まっていて、列をなして外に出て行く。その後をお祖母様とお祖父様が使用人に案内されて外へ出て行った。
お父さんはフェリクスくんを玄関ホールに残して、何やら硬い表情でフェリクスくんに何かを言っている。変なこと言ってないか不安になりながら2人に近づいた。

「おはよう、お父さん、フェリクスくん」

「おお、素晴らしい!エルにやってもらったのだな!こんなにべっぴんさんになって!これならヴィム君も満足するだろう!」

お父さんは大喜びで、化粧前の娘を遠回しに下げていることに気づいていない様子だ。まあ、化粧で結構変わったのは事実だからいいけど。
フェリクスくんの方を見ると、フェリクスくんも髪型を昨日と同じように整えられ、ベストとジャケットを着せられている。

「フェリクスくん、今日は色々あると思うけど、終わったら一緒に過ごそうね」

笑顔でフェリクスくんに言うと、お父さんに両肩を掴まれて外へと押された。

「おまえもフェリクス君も外に出なさい」

「……お父さんの意地悪」

「今日は我慢して、私の言うことを聞きなさい」

「ふんっ」

お父さんにそっぽを向いて、屋敷に沿って綺麗に整列した使用人達の間に並んだ。私の左隣にはお祖母様とお祖父様、右隣には父さん、その隣にフェリクスくんと並んだ。
遠くの森の方から馬車が3台程連なって現れた。

「ナマエ、ちゃんと笑顔で挨拶するんだぞ」

お父さんは気が早く、既に笑顔で正面を向きながら、私に言った。

「ナマエは笑顔じゃなくても可愛いからねぇ。馬鹿息子の言うこと聞いて無理しなくていいのよねぇ」

ご自分の息子に厳しく、私には甘々なお祖母様はにっこりと笑う。
馬車はあっという間に近くまで来て止まった。一番手前の馬車からはダールベルク男爵と夫人が下りてきた。御子息のヴィムには10年以上会っていなかったけれど、男爵とは何度か面識があってすぐにわかった。相変わらず男爵はすらっと背が高く、輝く銀髪と明るい青い瞳がお綺麗な素敵な方。夫人は初めて見るけれど、明るい茶色の髪で顔立ちは派手な方ではない。それでも姿勢が良く指の先まで美しい所作で素敵に見える。
ダールベルク夫妻と挨拶を交わしている間、2つ目の馬車からは1人の青年が下りてきた。男爵の生き写しであるかのように背の高く、輝く銀色の髪をしていた。ただ男爵の髪はオールバックな一方で、青年の方は左側の髪を顎下まで伸ばし、右側は肩より長い左右非対称の髪型をしていた。恐らく、彼がヴィムだ。フェリクスくんに事前に聞いていなかったら、わからなかったと思う。それくらい昔とは変わっている。
親子揃って白のシャツに青地に金色の刺繍がされたベストと太腿まで届くほど長いジャケットを羽織っている。ただ、男爵だけは肩に仰々しい肩章を付けている。その肩章を見て、なんとなくお金で領地を買ったというのも事実だろうと納得した。
3つ目の馬車からは従者が2人大きな荷物を持って出てきた。1人は30代程の若い人なのに、頭髪が真っ白で印象的な人だった。
ヴィムは淡い笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。近くで見れば見る程背が高く見える一方で、銀色の髪がダールベルク男爵とは違い、白い毛が多く混じっていることに気がついた。顔は若々しいけれど、髪の所為で年より老けて見える。ヴィムは私よりたった1、2個年上なのに若白髪とは相当苦労しているのかもしれない。

「ミョウジ様、数節振りですね。あの時の商談は本当に私共にとって幸運なことでした」

ヴィムは真っ先にお父様と握手を交わすと、続いて私の手を取った。

「ナマエ、ずっと会いたかったよ。益々綺麗になったね」

ヴィムは微笑んで、私の手の甲にキスを落とす。低い声といい、成長というより突然変異したかのような容姿に戸惑って、なんて言えばわからずにただ笑顔を返した。
ヴィムは私の反応に気にしたそぶりを見せず、お祖母様とお祖父様に挨拶をすませると、フェリクスくんを見て固まった。

「ミョウジ様、彼は……?」

「甥のクラウスだ。海運業の経営関連の一部を学ばせる為に呼び寄せた」

お父さんは事前に示し合わせた通りの紹介をした。今日は男爵一家が帰るまで、フェリクスくんのことはクラウスくんと呼ばなくちゃいけない。フェリクスくんがお父さんにダールベルク家とは知り合いと自白したのがきっかけでこうなってしまったらしい。
叔父さんの子なんてすぐにバレそうな嘘だけど、今が凌げればどうでもいいとお父さんは楽観視している。

「なるほど……クラウスさん、よろしくお願いします。ミョウジ様の弟さんが確か北海でご活躍されてるようですね。その御子息と会えるとは是非お話しを聞きたいです」

ヴィムは戸惑った様子で、ちらちらとフェリクスくんを見つつお父さんと言葉を交わす。もしかしたら、フェリクスくんに見覚えがあるのかもしれない。

「まあ、積もる話は後だ。まずは部屋を案内しよう」

お父さんはダールベルク一家を連れて、屋敷の中へと入っていった。私がすかさずフェリクスくんの横に行こうとすると、使用人のエルが現れて遮られた。

「ナマエお嬢様は、お化粧が崩れてきているので直しましょう」

「もう!フェリクスくん、後で話そうね!」

エルに手を引っ張られて足をもつれさせながら、フェリクスくんに手を振った。



*



昼食会は和やかな雰囲気で始まった。北側の席は空席にして、右側から順にお父さん、私、お祖母様、お祖父様、そしてフェリクスくんが端に座った。左側はダールベルク男爵、夫人、ヴィムと座っていて人数差があるので、なんとかヴィムが私の目の前に来るように椅子が置かれている。
会話の殆どが、北海の交易や海賊退治についてだった。私はフォドラの外での交易に興味がないから、話半分で頷くくらいしか出来なかった。時折、ヴィムの顔をちょっと見ては、違和感を感じて首を捻った。昔の丸々とした顔からは肉が削げ落ち、頬に丸みが全くない。

「ナマエさんは今の海上警備の体制をどう思いますか?」

突然ヴィムがこちらを向いて、驚いて肩がびくりと震えた。見れば見るほど、私の知っているヴィムじゃない上に質問内容が興味のなかった話で戸惑ってしまう。

「私は警備はまだまだ不十分だと思います……えっと、無理のない交易にして、今はまだ脆い同盟領内に騎士団の配置をした方がいいかな……なんて思ったり……」

この前ヒルダちゃんが騎士団不足についてちらりと言っていたのを思い出して答えた。

「実の娘にこう言われちゃあ、何も言えないですな!」

お父さんは明るく笑ってみせたけど、金の亡者なのできっと内心は嘆いていると思う。
ヴィムは私の目を見てにっこりと微笑んだ。その落ち着きように元々あった違和感がさらに強くなる。

「なるほど。騎士団不足ですね。ミョウジ様にはこちらから騎士団を紹介しておりますが、やはりそれでも足りないんですね……こちらの国では4年前の件で害賊が蔓延り、なかなか支援出来ない状態です。努力はしておりますが、申し訳ありません」

「いやいや、そちらの御国事情は理解しているつもりです。それにしても、男爵の御子息はしっかりしておりますなぁ。こちらとしても御子息に婿養子になって貰えれば将来安泰です」

ガシャンと音を立てて、フォークを取り落としてしまった。婿養子なんて具体的に話が進んでそうな内容に戸惑った。そんなこと聞いてなかった。お父さんなら、その手続きを既に始めていてもおかしくはない。
執事が新しいフォークを持ってきたのを手に取るけれど、その手も震えてしまうのでフォークを置いて手を膝の上に置いた。

「ええ。特にうちの子は北海の進出に興味を持っています。王国情勢が落ち着き次第、騎士団の増隊も叶いますよ」

男爵は和やかに言う。この両家の目的が分かり始めた。ヴィムは私なんか好きじゃない。北海の交易の利権目当てだ。
お父さんもお父さんで、ヴィムと結婚させる気満々の様子だ。不安で苛立ちが募る。この様子だと、私を懐柔しようと皆必死になってくるだろう。
その後の食事は気分が悪くて食べられなく、殆ど残してしまった。ダールベルク一家や身内に酷く心配されたけど、皆のことを信じられなくてなんとも思わなかった。唯一味方なのはフェリクスくんだけとしか思えなかった。
昼食の後はまたお化粧を整えてヴィムと2人で庭をお散歩することになった。ヴィムと一緒に外に出ると、空が灰色で今にも雨が降りそうだった。少し不安になりながら、屋敷の後ろに作られた小さなバラ園の中を歩いた。

「ナマエは雰囲気が変わったね」

2人きりなので、ヴィムは再会した時のような砕けた口調で言う。

「そう?ヴィムこそ、見た目も性格も変わったね。特に身長が高くて首が疲れちゃう」

「18の時にはもうこの身長だったからね。その時から身長が止まってさ、もっと伸びそうだったんだけど残念だな」

「それ以上伸びなくていいよ」

冗談っぽく言うヴィムが可笑しくて、笑って返した。

「ナマエは僕とここのバラ園で遊んだことを覚えてるかい?」

「あんまり記憶にないかな」

「そうか。僕はずっと覚えていたけど、この薔薇の香りも色も……ナマエの顔も」

ヴィムは私の方に向いて、私の方に手を伸ばしてきた。手を振り払いたい気持ちを抑えて、それを受け入れた。ヴィムが私の髪に触れ、優しげに微笑む。本当にダールベルク男爵のようにヴィムはかっこよくなったけど、私の好きな人ではないからなんとも思わない。

「ヴィム……悪いけど、私はあなたと結婚する気はないの」

「どうして?僕に何か不満があるの?僕はナマエのことが好きだよ」

「嘘言わないで。家の利権とお金目当ての癖に」

ヴィムは眉尻を落として、微笑んだ。その表情にヴィムが傷ついた気持ちを感じてしまい、自分で自分が嫌になる。率直に言い過ぎたかもしれない。

「本音を言うと、僕の親はそうだよ。でも、僕は違うことをわかって欲しい。僕はずっと前から……最後に会ったあの日からナマエのことがずっと好きだったんだ」

「あの魔獣に襲われた日のこと……?」

最後に会った日と言われ、嫌な記憶を思い出して不安になった。あの時私はヴィムと森を抜けた先にある野原で遊んでいた。その帰りに魔獣に遭遇し、ヴィムの手を引いて逃げ続けた地獄のような記憶がある。

「そうだよ。あの時ナマエは僕のことを一生懸命守ろうとしてくれたね。僕は泣いてばかりいて、何も出来なかった……逃げるのも遅かったし、魔獣に追いつかれた時には……ナマエの後ろにいて動けないでいた。その時くらいかな。ナマエを守りたいと意識するようになったのは。それで、あの騎士によって命が助かった後、僕は親に連れられてすぐに帰ることになった。その時ナマエが僕に強くなってと言って、大人用の剣を贈ってくれたよね?重たい剣を受け取った僕はナマエの為に生きようと思ったんだ。だから今日までここには来なかった。ナマエとの約束を果たせるまで会うつもりはなかったから」

ヴィムが自身の弱さを認め、私が忘れてしまったことさえずっと覚えててくれたことに心が揺さぶられた。強くなってね、と言ったことも約束したことも覚えてなかった。

「じゃあ、強くなったの……?」

「王国で師範をつけて訓練したんだ。それなりに強くなったよ。だから、あの日みたいにナマエに守られる僕じゃなくなった。今度は僕がナマエを守るよ。だから……僕と結婚して欲しい」

ヴィムは私の両手を掴んで言う。こんなに一生懸命に言われたら、本当に困る。
私はフェリクスくんのことが好きだけど、それは殆ど叶わないこと。こんなに私を好いてくれる人がいるなら、と思う一方でまだ諦めきれない気持ちがある。それ程私はフェリクスくんのことが好きだし、彼のお陰で一歩踏み出せたことがあり、彼には私の側にずっといて欲しいと思っている。そう。私はフェリクスくんのことが大好きなんだ。

「ヴィム、あなたが私の為に頑張ってくれたのは嬉しいけど……私は結婚したくないの」

ヴィムから逃げるように手を下ろそうとすれば、両手を離してくれた。

「何故なんだい?僕に悪いところがあれば直すよ」

「ヴィムに悪いところなんて無いよ。私、好きな人がいて、その人と一緒になりたいの」

「好きな人って誰?士官学校の人?」

「……そうだよ。私ね、あの時の記憶がトラウマになって、雨が降ると引きこもるようになっちゃったの。だって、雨の日に魔獣が現れたでしょう?でも、その人が雨が降っても魔獣は出ないって説得してくれようとしてね……私のことを守ると言って私を森へ連れ出したの。それで結局、魔獣は出なかった。まだちょっとは怖いけど、雨の日がそれ程嫌じゃなくなったの」

「そうなんだ。ナマエは僕を守ってくれようとしたのに、あの時のことがずっとトラウマだったんだね。それを助けようとしてくれた人を好きになる気持ちは僕も理解できるよ」

本当はその前からフェリクスくんのことが好きだったけど、私はあえて何も言わなかった。

「僕がナマエを守れるくらい強かったら、僕にも望みはある?」

「悪いけど、ないよ」

「そう……そうだ。あのクラウスさんについて教えてよ。僕が話しかけようとしても、皆がわざと遮るように話を振ってくるんだ」

確かに食事中、ダールベルク一家がフェリクスくんと話さないようにお父さんやお祖母様、お祖父様がその場を上手くコントロールしていた。それでも、ヴィムにはお見通しだったようで、不審がっている。

「クラウスくんは、そうだね……一見冷めたように見えて優しくて気の遣える人だよ。叔父さんと容姿も性格も似てないよ。皆が会話を遮ったのはクラウスくんは人見知りだから」

ヴィムの記憶にあるフラルダリウス家の嫡子と合致しそうな表現を避けて説明した。

「へえ。商人が人見知りか……そういう人もいるけどね。仲はいいのかい?」

「どうかな……まあ、それなりにかな」

「そっか……あ、雨だ」

ぽつりと頬を打った雨粒を拭うようにヴィムは頬の上に手を滑らせた。
空を見上げると雨が一筋、二筋と降り始めた。無意識に森の方に目を向けて、耳をそばだてた。魔獣の咆哮も気配も特に感じないけど、フェリクスくんが隣にいないと不安で落ち着かなくなった。両手で自分の体を抱いて震えると、ヴィムが私の肩を抱いて身を寄せてきた。

「雨が苦手なんだよね?早く戻ろうか」

「うん……」

ヴィムと一緒に屋敷の正面口まで行くと、フェリクスくんとその後ろから侍女のエルが急ぎ足で出てきた。

「フェ……クラウスくん!」

私が声を掛けたのに、フェリクスくんは眉根を寄せると踵を返して屋敷の奥へ行ってしまった。もしかして、私のこと心配して来てくれたのかな。だとしたら、凄く嬉しいのに。フェリクスくんは行っちゃった。

「お嬢様!大丈夫ですか!」

エルが慌てた様子で駆け寄ってきた。そういえば、屋敷の皆はフェリクスくんのお陰で私が以前程雨が苦手でなくなったことを知らない。
私はヴィムから離れて、エルに手を突っぱねるようにして距離をとった。

「大丈夫だから」

「でも、顔色が悪く見えます」

「私、用事思い出したから、ヴィムを拭いてあげて」

「あ、お嬢様!」

フェリクスくんを追いかけるように中央の階段を駆け上がり、廊下に出た。フェリクスくんの姿は見えないけど、おそらく部屋にいる。
急ぎ足でフェリクスくんの部屋に行くと、フェリクスくんはモーニング用の服から士官学校の制服に着替えていた。制服のベストは着ずに上はシャツ一枚で一見、制服には見えないけど、ダールベルク一家からしたら不思議に見える格好だ。もしかしたら、制服と気づくかもしれない。

「いつも勝手に入ってくるな」

「急いでたからごめんね。フェリクスくん、帰っちゃうの?」

「いや、鍛錬に行くだけだ」

「鍛錬?あのね、この後皆でお茶会するの。といっても、お茶飲みながらお話するから、昨日みたいにソファでゆっくりするだけなんだけど」

「その茶会でまたあいつと2人でおまえは話すのだろう。前にも言ったが、俺には堪えられん。悪いが今は話しかけるな」

フェリクスくんはいつもと打って変わって冷たい。フェリクスくんはいつも私のことを見て話し、私が目を逸らしているのに、今は私がフェリクスくんを見て、フェリクスくんが目を逸らしている。
フェリクスくんが以前私が他の男といるのを見ると嫌な気分になると言ったのを思い出したけど、それは一体どういう意味なのか今この場で確かめたくなった。

「フェリクスくんは私のことをどう思ってそんなこと言うの?」

「おまえのことなど知らん。俺は鍛錬に行く」

フェリクスくんは、私の横を通り抜けて出て行ってしまった。フェリクスくんの冷たい反応に心にズンと重りがのしかかったように苦しくなった。
今は雨が降ってきて不安になっている時なのに。私のこと守るって言ってくれたのに。悲しくて仕方なくなった。



*



談話室でお茶会をしている間、ずっとフェリクスくんのことばかり考えて、ヴィムとの会話がおろそかになっていた。
急遽雨を理由にダールベルク家が帰らないことになったけれど、恐らく私を説得したいがためだろうと邪推してしまう。

「ナマエ、僕との会話楽しくないのかい?」

「えっ?うん……そんなことないよ」

「でも、ぼーっとしてる。ちょっと僕と抜け出さない?」

「どこに?」

「どこでもいいよ。こんな政治や仕事の話ばかりしてる所からは逃げよう」

ヴィムの提案はとっても素敵に思えた。こんな息の詰まるところにいたくない。
私は頷いて、ヴィムと一緒に立ち上がって部屋の外へ出た。勿論部屋にいる皆は気づいていたと思うけど、あえて何も言わなかったのはきっとヴィムが私を説得してくれるとかなんとか思ってるんだろう。
ヴィムがお父さんの刀剣コレクションが見たいと言うので仕方なく、刀剣部屋の鍵を取りにお父さんの書室に移動した。
書室で鍵を探していると、ヴィムは窓の方へ行き、視界の濁った窓の外を眺めている。
刀剣部屋の鍵は棚の上に飾ってある一番高い交易品の下にあった。お父さんの隠しそうな場所はいつも簡単にわかる。

「鍵、見つけたよ」

「ナマエ、見てよ」

ヴィムは私の肩を抱くと、窓の外を見るように誘導してきた。雨粒が足されては消えて行く窓の向こうには緑が鬱蒼と生い茂った森が見える。

「今夜は魔獣が出そうだね。あの時みたいに……」

「なんでそんな怖いこと言うの?」

ヴィムの言葉に体がまた震える。ヴィムと一緒にいても落ち着かないし、不安になる一方だ。
フェリクスくんに会いたい。さっきフェリクスくんは私なんか知らないと言った。会うのは怖いけど、前みたいに一時的に冷たくなっただけかもしれない。少し時間を置いたら会いに行こう。

「そんなに怖がる必要はないからだよ。だって、僕がナマエを守るから」

「私、士官学校で訓練してるの。魔獣だって課題活動で倒したことあるし……自分の身は自分で守るよ」

「ああ、そうだ。君の父上が心配していたよ。エピタフの資格を取ったとしても、交易は任せられない。ナマエには無理かもしれないって」

「お父さん、そんなこと言ってたの……?」

正直傷ついた。お父さんが私のいないところでそんなことを言ってたなんて。エピタフの資格を取ろうとしたのだって、お父さんに心配かけない為もあるのに、信用されてなくて悲しい。

「残念ながら。ファーガスでの取引の時に言ってたよ。野外で雨に降られたらパニックになる病気が治らないと無理だって」

「別に病気じゃないけど……でも、今は多分平気だよ」

この前の課題活動で移動中の森の中で雨が降ったけれど、フェリクスくんが側にいてくれたお陰で例のパニックは起こらなかった。雨が降り出してすぐに先生と金鹿の皆が私に駆け寄って心配してくれたのもあるかもしれないけど。

「強がらなくていいよ。僕はナマエを守れるようになる為に鍛えてきたから」

「でも、ヴィムったらヒョロヒョロしてるじゃない」

「……僕の体は決して健康的ではないよ。でも毎日鍛えているし、剣技も練習してきた。魔獣だって、ナマエが想像できないくらい倒してきた」

「魔獣を倒す……?どうしてヴィムがそんなこと……」

「全部ナマエの為だよ。ナマエが強くなってと言ったから。それにナマエがあの時のことがトラウマだと知ったから、どうしてもナマエのことを守れるようになりたかった」

「……ありがとう」

私の為にヴィムが鍛え続けたことを考えると、複雑な気持ちになった。私にはその気持ちに応えられない分御礼を言った。

「ナマエ、好きだよ」

「ヴィム、やめて。好きって言わないで」

「なんで?同盟領では本心を言ってはいけないの?」

「そんなことないよ。でも、私はヴィムのこと好きじゃないの」

「ああ。そのことなら、大丈夫だよ。ナマエはさっき僕に悪いところは無いって言ってたからね。それならナマエはきっと、僕のことを好きになるから」

どこにそんな自信があるのか、ヴィムはにこりと笑った。

「私は絶対ヴィムと結婚しないから」

「ナマエのその意思はきっと曲がるよ」

「……やっぱり、刀剣の部屋はお預けだよ。私、一人になりたいからここで解散!」

ヴィムがまるで私がヴィムのことを好きになって婚姻したがるかのように言うから苛立って、ヴィムを置いて部屋を出た。そのまま真っ直ぐ屋内の鍛錬場に移動した。フェリクスくんはそこでうちの騎士団員に混ざって剣を振るっていた。
私が中に入ると、騎士団の団長さんが一人寄ってきた。団長さんは見上げるばかりの偉丈夫で、髭もじゃの凄く強そうな人だ。圧迫感は感じるけど、とても優しくて気さくなので威圧感は感じない。

「お嬢様、何か御用でしょうか?」

「フェリクスくんと話したいの。あと、この事は騎士団以外には口外しないでね」

唇に人差し指を持って行き、黙っておくようにと手真似をして、団長さんにお願いした。団長さんは困ったような笑みを浮かべると、わかりましたとフェリクスくんを連れてきてくれた。

「茶会はどうした?」

フェリクスくんは変わらず機嫌の悪い様子で、眼つきがいつも以上に悪い。

「フェリクスくんに会いたくて抜けてきたの」

「俺にか……?」

「とにかく、客室に行こう」

フェリクスくんを連れてこそこそと空いている客室へ移動した。
3人掛けのソファを手で示し、どうぞと言うけどフェリクスくんは座ろうとしない。

「俺とこんなところにいていいのか?」

「いいの。それより、私はヴィムとは何があっても結婚しないから。それをフェリクスくんに言いたかったの」

「……ダールベルク家は結局泊まっていくのだろう」

「うん」

「この様子だと無理にでも婚姻させられるだろう。おまえは今から覚悟をすべきだ」

「えっ?なんで……?」

「ナマエの父上やダールベルク男爵の様子だと諦める気はないだろう。それに息子のヴィルヘルムスもおまえにぞっこんだ」

「べ、別にぞっこんじゃないよ!でも、確かに互いの利害が一致してるからダールベルク家は必死になってると思う。でも、ヴィムと結婚するくらいなら私、この家を出る」

お父さんに家出をしてやると脅したのに、結局結婚させられそうになった。お父さんの裏切りは私が家出をしてもいいということだと解釈をして私は家を出て行く。

「家を出てどこにいく気だ?」

その先のことはあまり考えてなかった。言われてみればどうしようかと考えてみた。

「……それはレア様に頼んで大修道院に置いてもらうか……フラルダリウス家に置いてもらう」

勢いに任せて告白めいたことを言ってみた。これで通じる相手じゃないのがわかっていたから、そこまで勇気は必要なかった。
フェリクスくんは眉をぴくりと跳ね上げさせると、

「それはつまり……友人として置いてくれということか?」

と、戸惑った様子で片手で頭を抱えて視線を外したまま聞いてきた。
いつも他の人の目を見て話さない癖に私の目は見てくるフェリクスくんは今日は全然私のことを見てくれなかった。でもそのお陰で今なら私は言える。見つめ合ったまま告白なんて私には難しいから。


「違うよ……フェリクスくんのこと好きだから。妻としてフェリクスくんの家に置いて欲しいの」

「………………は?」

「えっ?」

フェリクスくんの間の抜けた反応にこちらも疑問で返さずにはいられなかった。そして、このタイミングで初めてちゃんと視線が絡み合った。フェリクスくんの淡い赤銅色の瞳が大きく見開かれている。

「おまえは他に好きな奴がいるんじゃなかったのか……?」

「違うよ。フェリクスくんのことが好きだったの。あの日レオニーに誘われて初めて一緒に食事をした時よりも前からずっと気になってたの」

「なら、ツィリルに言っていたアレはなんだったんだ……?」

恐らくツィリルくんがフェリクスくんの前で私の好きな人が彼であるか聞いた時のことだ。そういえば、あの時私は本人が目の前にいるから全力で否定していた。

「そんな好きな人の前で好きなんて言えないから……」

「そうか……気づかなかった……」

「それで返事はどうなの?」

「それは……俺も……が……だ」

「えっ?なに?」

小さくごにょごにょと言われてよく聞き取れなかった。

「俺もナマエのことが好きだ!これで聞こえたか?もうこれ以上言わんぞ!」

フェリクスくんは耳まで真っ赤に染め上げて、後ろを向いてしまった。
フェリクスくんも私と同じ気持ちと知れて、本当に本当に嬉しい。

「じゃあ、私が婚姻を無理やりされそうになったら、私を連れさって」

「本当にそれでいいのか?」

フェリクスくんは後ろを向いたまま、少しだけ顔をこちらに向けて言う。

「うん。ミョウジ家には、まだ叔父さんと従兄弟が何人もいるから安泰だよ。お父さんを置いていくのは可哀想だけど、お父さんが金儲けに夢中なのが悪いんだもの」

「……そう簡単に割り切れればいいが、とりあえずは今日を乗り越えろ」

「うん。ねえ、私、フェリクスくんのこと抱きしめていい?」

フェリクスくんは後ろを向いたままピクリと動いたのが可愛く思えて、返事を聞く前にフェリクスくんに後ろから抱きついた。凄くドキドキするけど、幸福な気持ちで胸がいっぱいになってずっとこうしていたい。

「おい!まだいいとは言っとらんぞ!」

「フェリクスくん、好き。大好き。本当に好き。ずっと好き」

ずっと言いたかった言葉だから、繰り返し言いたくなって呪文のように言い続けた。

「っ……そんなに言うな!」

「言い足りないくらい好きなの。ずっと一緒にいたいの。かっこよくて、優しくて、男らしくて、努力家なところが好き。剣と訓練のことばっかり考えてるところも好き。大好き」

「そうつらつらと話し続けると口を塞ぐぞ!」

「何で塞ぐの?」

フェリクスくんのことだから、どうせ手で塞ぐのだろうけど、つい意地悪したくて言ってみた。

「全くこいつは……!」

フェリクスくんは私の両腕を解いて、私の方へ向き直ると、私の両肩を勢いよく掴んだ。顔が近づいてきたからキスされると思ってドキドキしながら瞳を閉じた。
その時、扉を叩く音にびっくりして慌ててフェリクスくんと離れた。

「誰かな……ちょっと出てくる」

「ああ……」

凄く気まずい中、扉を開ければヴィムがいた。何故この部屋にいることがバレたのか不安になった。もしかして、つけられてたのかな。

「良かった。ナマエか」

「どうしてこんなところにいるの?」

「ナマエこそ。僕はどうやって談話室に戻るかわからなくて全ての部屋を回ってたところだよ」

「あ、ごめんね。ヴィムはこっちに来るのは10年振りだよね」

「10年振りとまではいかないけど……あれ?クラウスさん?」

ヴィムは半開きの扉を大きく開けると、中に入ってこようとするのでヴィムの胸を押して通せんぼした。

「ナマエ、何で従兄弟といるの?」

「クラウスくんも迷子になっててたまたま見つけたの!じゃあ、皆で部屋に戻ろっか」

「おい、俺は行かんぞ」

フェリクスくんは苛ついた様子であからさまに怒っているように見える。フェリクスくんのこういう態度が嫉妬だとわかった今、それが微笑ましくて嬉しいけれど、今は喜んでる場合じゃない。

「僕は是非ともクラウスさんと話したいんだけどな」

「えっと、クラウスくんはさっき言った通り極度の人見知りで、今虫の居所が悪いみたいだから置いていこう」

「それは残念だな。じゃあ、クラウスさん、晩餐会で」

ヴィムはフェリクスくんに頭を下げると漸く部屋を出て行ってくれた。フェリクスくんには悪いけど、今はヴィムを談話室に戻すしかない。
フェリクスくんと想いが通じ合っていた喜びを噛みしめる余裕もなく、ヴィムと一緒に談話室に戻り、何事もなかったかのように過ごした。
それからまた晩餐会の為に着替えてお化粧を直してもらっている間、フェリクスくんとまた会えると思うとわくわくして胸が高鳴っていた。

「お嬢様、ご機嫌ですね」

「えへへ……ちょっとねー」

ヴィムと結婚されそうになって心配したいたけれど、今はフェリクスくんとこの先どうやって幸せになっていくか考えるだけで楽しかった。



*



晩餐会で食事を終えると、談話室でまたヴィムとお話して、本当に疲れた。長い一日だった。今日はずっとヴィムと話してばかりだ。早くフェリクスくんと2人になりたいのに、なれそうもない。寝る準備を終えて、一人お布団の中に縮こまりながら、どうにかこうにかフェリクスくんにこっそり会いに行く方法を考えているうちに瞼が重くなってきてしまった。そういえば、部屋の中から薄らと甘い香りがする。この匂いを嗅いでると、心地良くてぐっすり眠れそう。
薄れる意識の中、黒い影が私を覆うように存在しているのをなんとなく瞼越しに感じた。

「ナマエ、お散歩に行こう」

頬に滑らかな布が擦れる感触がして、飛び起きようとしても体が動かなかった。瞼がくっついたまま目が開けず、まるで落ちていくような感覚に襲われた。

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