『色狂いのナマエさーん、不潔だからエルンストくんに近づかないでくださーい!』
桶をひっくり返したであろう量の水が上から降ってきて、女子の高い声と何人かのクスクス笑いが聞こえてきた。上を見上げた。折り返し階段の上階には誰の姿も見えない。下を見ると私の制服はびしょ濡れで、髪やスカートの裾から水が滴り落ちている。これじゃあ講義にでられないよ。
*
「ナマエ?大丈夫か?ナマエ、俺の目を見ろ。ナマエ!」
「は、はい!」
大きな声にハッと気がついた。目の前には殿下がいて、屈んで私の両肩を掴んでいた。その隣にはドゥドゥーくんがいて、いつも通り感情を見せない表情で私を見下ろしている。
視界に映る世界を確認して、冷静になれた。私の制服は濡れていないし、ここは魔道学院の本棟でもない。士官学校の教室の外だ。
「何があったんだ?」
「えっと……」
それ以上言葉が出てこなかった。"色狂い"と書かれたことをこれ以上誰にも知られたくない。いずれ級長である殿下の耳にも入ると思うけど、殿下の私を見る目が変わって欲しくない。もしも殿下がそれを知ってたしまったら、きっと私のことをあの人達と同じ目で見るはずだ。眉を垂らし、同情の色濃い瞳をしながら可哀想とか哀れとか、そういうことを言うと思う。私はそんな目で見られたくないし、同情なんかされたくない。
「教室が騒がしくて皆ナマエを見ていた。何か理由があると思ったが……」
「おい、猪王子」
殿下の言葉を遮るようにフェリクスくんが教室から出て声をかけてきた。
「ナマエが女共の反感を買っているようだ。原因はお前じゃないのか?」
フェリクスくんの言葉にドキリとした。やっぱり、気づかないうちに女の子の反感を買ってしまったんだ。魔道学院時代と同じだ。あの時もそうだった。また、同じ理由で同じ目に合うと思うと胸がズキズキ痛むし、息苦しくなる。
「どういうことだ?」
「ナマエが"色狂い"であると板書されていた」
フェリクスくんが言っちゃった。殿下に知られたくなかったのに。恐る恐る殿下を見上げると、私の方を悲しそうな目をして見てきた。そんな瞳を向けられると、こっちまで悲しくなるし惨めな気持ちになる。
「そうか……ナマエ、級長として、仲間として、俺が必ず犯人を探してナマエに謝らせる。心当たりはあるか?」
殿下の気持ちは凄くありがたい。でも、別に犯人からの謝罪なんていらないし、心当たりと言ってもよくわからない。魔道学院時代は女子に人気のエルンストくんが実技のできない落ちこぼれの私に良くしてくれていたのが原因だった。もし同じ理由で"色狂い"と書かれたなら、この学校で女子に人気の生徒が私に優しくしてくれているということだ。そうすると、間違いなく殿下がその候補に浮上する。殿下は眉目秀麗で優しくて素敵な人だから、殿下を好きな女子生徒がやったのかもしれない。ちょうど昨日から殿下は私に優しくしてくれたから時期が一致する。そうなると殿下に迷惑がかかるかもしれないから、遠ざけなくちゃ。
「犯人はわからないけど、私のせいだから……殿下は私に関わらない方がいいです……私、自分で解決します」
「こいつの言う通りだ。おまえがナマエに関わっているせいだろうからな。ナマエ、とりあえずは教室に戻れ。犯人探しは休み時間にでもやればいい」
フェリクスくんはそう言うけど、私はあの教室に戻りたくない。私は経験があるからわかる。教室に戻れば、皆私を見てまたヒソヒソするんだ。あんなことはもう経験したくない。
「フェリクス、ナマエは具合悪そうにしていたんだぞ。今だってこんなに顔色が悪いじゃないか。ナマエ、医務室に行った方がいい」
「はい……そうします……」
今は教室に行く勇気が無くて、殿下の言う通りにしようと思った。
「俺が連れて行く。ドゥドゥーはハンネマン先生に言伝を頼む」
「わかりました」
「おい、人の話を聞いてなかったのか?猪王子はナマエに関わるな。ナマエ、ひとりで行けるならひとりで行け」
「うん……殿下、私はひとりで行きますので、ご心配には及びません」
殿下はそれなら、とドゥドゥーくんを代わりに付けてくれようとしたけど断った。
ひとりで医務室に行き、修道女に気分が良くなるお茶を作ってもらって、それを飲んでベッドに横になった。
ベッドの中で痛みの取れない胸を押さえながらこれからのことを考えていた。いつから講義に出ようかとか、殿下に近づかなければ、"色狂い"なんて板書されることもないかな、とか。
不安な気持ちを抱えながら頭の中でグルグル考えていると、お昼休みにはアネットとメーチェが会いに来てくれた。
「ナマエ、あれ書いた犯人は絶対あたしとメーチェが見つけるからね!だから安心してね!」
「ナマエは何も考えなくていいのよ〜。わたしとアンで解決するから今日はゆっくり眠ってていいわ」
アンとメーチェが優しくしてくれることに胸を打たれて、思わず泣き出してしまった。
泣きながら前にもこんなことがあったな、と数年前のことを思い出した。魔道学院時代に留学生だったローレンツくんだけが、虐められていた私に優しくしてくれて泣いちゃったんだ。
アンとメーチェと出会う前だったから、あの時は本当に辛かった。最初からアンとメーチェのクラスにいたら、虐めなんて起こらなかったのかな。ああ、でも私が虐められていたからローレンツくんと出会えたんだ。そうだ。あの夏の日に、私が濡れた制服を着替えに階段を下りなければ、柔い光が深く差し込む廊下でローレンツくんとは出会えなかったし、ローレンツくんの手の温かさを知ることもできなかった。