床タイル
これはほんの少しだけ、昔の話。カオは覚えていないだろう。
「にゃん」
人間の口から、猫の鳴き声がする。
言葉の発し方が『なにぬねの』しかできないらしい。
ことの発端は、怪しい呪い師の軍団、宗教団体、もといホーキンスの船に接触したこと。
物静かに喧嘩を売ったホーキンスに怒ったキッド。同盟相手と戦うわけにもいかず、静かにさせるため、何か術をかけさせるようホーキンスは船員に指示を出した。
怪しい船に怪しい術あり。
キッドもキッドで、当然術を交わすところはさすがであるが、やはり事件は起きるもの。
お茶を持って来ただけのカオに術がかかってしまったのだ。
猫だと思い込むとんでもない暗示をかけられたカオは、四つ脚で座っている。
「おまえ!うちのに何しやがる!」
「これは予想外…」
そんな事件から泡吹いて倒れたキラーが目覚めたのは、ホーキンス一同が帰った後であった。
「悪い夢を見た…カオが、猫のつもりで…後脚で首を掻いてた…」
「夢じゃないぞ、まだ猫だ」
キラーのベッド縁に座っていたキッドが目を覚ましたばかりのキラーに現実を叩きつける。
「悪夢だ…」
「今は机の上で寝てるぞ。高いところにすぐ登ろうとするから気をつけろ」
キラーは頭を抱えた。見た目はカオなのに、すっかり自分のことを猫だと思い込んだカオを見ていられない。
キッドは一戦交えたようで、少し汚い。
ホーキンスから聞き出したところ、一日経てば元に戻るらしい。
落ち着くために水を飲もうとキラーは炊事場へ向かうと、本当に机の上で寝ているカオを見つけた。人間の身体の限界まで丸まって寝ている。信じられない姿だ。
「カオ、降りないか」
揺さぶり声をかけると、ピクピクと顔が動いてカオはキラーの指先の匂いを嗅ぐ。
すると目を覚まし、勢いよくキラーに飛び込んで来た。
「にゃん!」
首をがっちりホールドされたキラーは自然にカオをお落とさないように姫様抱っこする。ゴロゴロと喉を鳴らしているつもりなのか、甘えたような生き物の音がする。すり、すり、と頬や鼻を擦り付けてくる。カオがだらしない顔をしているのは貴重だと思った。
「な、カオ…」
名前を呼べば嬉しいようで、ますますだらしない顔をした。
好きな女にギュー!とされるのは、その、なんとも、嬉しい。だらしない顔のレアなカオにこんなに好き好きとされるなら悪くはない、なんて。デレ。
「いや、良くない。カオの尊厳に関わる。降りなさいカオ」
自分で考え自分で我に帰るキラー。キラーは言い聞かせて、カオを降ろそうとすると、イヤイヤとますますギュー!としてくる。デレ。
「飯にしよう、皿から直接は食わせないぞ。ほら、離れ…」
素早く床へ降りると、カオは背中にまわった。ジャンプして飛び付くとまた首に手を回し、キラーがカオをおんぶするような形になってしまった。まあこれで動けるし、手は使えるのだが。
「柔らかい…」
柔らかいものがいつになく押し付けられて、拷問を受けているようだった。煩悩、頼むから消えてくれ。さすがにこんな猫状態のカオに手を出す、なんてできない。そんなことをしたら他の奴らに何を言われるか…所構わずヤってしまう発情期マスクとかあだ名をつけられてしまうに違いない。
「にゃん!」
「あー動かないでくれ、息をかけるな、離れてくれ…」
おんぶしたまま甲板へ出れば、やはり目立つ。
副船長にあんなにベッタリしている姿は、やはり船員たちにも珍しかった。
「カオさん…すっかり人が変わってしまった…」
「あれはあれでかわいいだろ!」
「キラーの旦那、カオちゃん貸してください。撫でたい」
わらわらと寄ってくる船員たちにひと睨み。悪い虫たちに猫カオを近寄らせてはいけない。またお母さんをしているなんて陰口を言われながら、キラーはカオを部屋へ運んだ。人目につく所に居ては良いオモチャになるばかりだからだ。
「はあ」
息をつきながらベッドに座れば、自然とカオは背中から離れてキラーの横に座った。もっと離れて座ればいいものを、ピッタリとくっついて座っている。キラーはマスクを取ると、またひとつため息をついた。
「キッドがこうならなくて良かったと思うべきなのか…キッドが猫だなんて、ボス猫に決まってる。近寄れないだろうな…」
ぼやきながらカオの頭を撫でると、膝に上半身を乗せてきた。膝に乗っているつもりなのだろうか。言ってはなんだが、股間にカオがいるのは大変、とてつもなく、良くない。ゾワゾワした。手を出してはいけない、反応してはいけないと悟りを開いて自身に言い聞かせる。
そのまま後ろに倒れ込むようにベッドに吸い込まれると、キラーはウトウトと眠りこけてしまった。横にあたたかいカオが丸まっている。ありがとうホーキンス。
コツン。
鼻に何かが当たり、覚醒する。
目を薄っすら開けてみれば、カオの顔が目の前にあった。当たったのはカオの鼻らしい。またコツンと鼻と鼻が当たった。衝撃的な目の前の光景に、キラーは石になって動けない。猫の鼻と鼻を合わせることは何かの要求や、挨拶だと聞く。
ゆっくりとまばたきをすると、少し勢いよくカオは鼻を当ててきた。
すると、トン、とカオの口がキラーの唇に当たった。
衝撃で目を見開いたキラーを見て『起こせた』と満足したのか、カオは離れてさっさと部屋を出て行ってしまう。残されたキラーは、気持ちの整理でいっぱいいっぱい。事故ながらも、この日この時に初めてカオにキスされたのだ。
カオは元に戻るとなにひとつ猫の暗示にかかっていた時のことを覚えていなかった。
キラーはしばらくモンモンとして、まともにカオと顔を合わせられなかった。