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倫くんの部屋の空調設定温度はいつも低い。
「ねー、寒い」
「俺のパーカーでも着ときなよ」
「言われなくても着るけど」
「着るんかーい」
ケラケラと笑う彼に、だって寒いもんと返しながら、クローゼットの前に掛けられたハンガーからパーカーを外す。彼は高校三年間を関西で過ごした影響か、ときどき関西弁にしては変なイントネーションで、でも関西っぽいツッコミをする。
これだけ地球温暖化だの省エネだの言うのに、彼の部屋の空調設定温度はいつも低い。外は暑いから服装は夏仕様で短めのトップスなのだけど、彼の部屋に入ると何か羽織らないと風邪をひいてしまう。彼はTシャツ一枚で平気な顔をしているから、きっとわたしが寒がってるだけなのだろうけど。
パーカーを着てそのままじゃ手全体も袖に覆われてしまうから引っ張り上げる。裾はお尻も覆い隠したけれど、これはどうすることもできないからそのままにしよう。パーカーから倫くんの匂いがして、反射的にスン、と匂いを嗅ぐ。
「へんたい」
「なに急に」
「パーカーの匂い嗅いだでしょ」
「嗅いでないし」
彼は目ざとい。以前そのことを口にしたら「ミドルブロッカーだから?」とかなんとかよくわからないことを言われた。バレーボールにおいて相手の動きを見るのは大切だろうけど、こんなところで発揮するものでもない。
「ていうか、そのパーカー、俺よりナマエのほうが着てるんだけど」
「仕方ないじゃん。一番借りやすいのがこれなんだもん」
いつもそこのハンガーに掛かってるから、借りるのにわざわざクローゼットの中を開けるのもおかしいし。ていうか彼がこんなに空調温度を下げなかったらそもそもパーカー着なくて済むんだけど。
短めのトップスにデニムのワイドパンツ。シンプルだけどかわいい格好をしてきたつもりなのに、パーカーを着たら自分が考えてきたコーディネートの形が崩れた。倫くんはというと、大きめの黒のTシャツにダボッとしたグレーのスウェットパンツを穿いてダル着に細フレームの丸メガネ姿なのに随分とサマになっている。これが素材の差というやつか。
ゲーミングチェアを後ろ向きに座っても、長い長い脚は床に着いている。
「楽にしていいよ」
「ありがとう。脱いでくるね」
「ん゛っ。い、ってらっしゃい」
「なに? 変な声出して」
「……べつに」
変な倫くん。なんて思いながら脱衣所でデニムのワイドパンツを脱ぐ。
当たり前だけど、こっちは暑いなぁ。鉄筋コンクリートだから外よりは随分涼しいけど、やっぱり、部屋の空調温度が低すぎる。脱いだデニムパンツを畳んで手に持ち部屋に戻ると、やっぱり温度差がすごい。
寒くてパーカーは欲しいけど、デニムパンツは脱いでも平気なんて、女子高生のころに散々ミニスカートを穿いたおかげで太ももから下は寒さに対する耐性ができているのかもしれない。……いや、やっぱり寒いからあとでブランケット借りようかな。
彼はゲーミングチェアからソファに移動し、スマホを触っている。指の動きから絶対ゲームをしてる。ていうか、あのダル着に丸メガネで格好いいのはずるすぎると思う。なんでそんな真剣な顔でゲームしてんの。そこはせめてバレーボールの映像見ててよ。やなんだけど、ゲームしてるだけなのにかっこいいと思っちゃうの。
あ、目が一瞬だけこっち向いた。なのに別に見てませんよ、興味ないですよ、って顔をしてスマホの画面に視線を戻すけど、またチラチラと立ったままのわたしを見ている。それでいいのかミドルブロッカー。視線で読まれてるよ。
「このパーカー珍しいよね」
「うん? 別に限定のやつじゃないよ」
「そういう意味じゃなくて。倫くんが持ってるの珍しいね、って意味」
そこでようやくスマホから顔を上げ、わたしを正面から見る。
「倫くん、こういう、ブランドが強調されたやつ好きじゃなくない?」
彼はオシャレが好きなのでブランドものもいくつか持ってるけど、ブランドロゴはワンポイントだったりと見えにくいものが多い。なのにわたしがよく借りているパーカーはライン状にブランドのロゴが入っている。
倫くんは格好いいし背が高いからなんでも似合っちゃうからもちろんこのパーカーも似合うのだけど、彼にしては珍しいチョイスだ。
「あー……、気分だよ。一枚くらい持っててもいいかなって」
「ふーん?」
それにしては変な間が空いたけど、まあ、彼のお金で何を買おうと彼の自由だ。珍しいねってだけで変なものを買ってるわけでもないし。ただ、うっかりこのパーカーの値段を目にしたことがあるけど、わたしが頻繁に借りるのは申し訳ないほど高いものだったため、わたしがこんなにも着ていいのかと気になるところではある。なんて言えば「えー、着ないほうがもったいなくない?」なんて言うのだろう。
さっきまで真剣に見ていたスマホを雑にソファの端に置き、開いた脚のあいだを叩く。
「おいで」
彼の部屋のソファはふたりでもゆったり座れる広さがある。詰めれば三人だって可能だ。なのに、彼はそのど真ん中を陣取り、その長い長い脚を開き、右にも左にも座れるスペースがない。
消去法で、必然的に、彼の脚のあいだに座るしかできないのだ。
「こっち向いて」
「やだ」
「ケチ」
倫くんは片方の脚に座り体を横にするか、跨って向き合う座り方を望むけど、わたしはいつも背中を預ける座り方をする。そんなわたしに拗ねたような声を出し、そのままわたしの肩に顎を乗せる。
「倫くん重い」
「えー?」
するり、とわたしの手の甲から指にかけて彼は指がすべった。そのままゆっくり手の甲に重ねるようにして、指の側面をなぞるように触れたあと、指を絡められる。
倫くんの指は細くて長いと思っていたけど、こうするとゴツゴツしていて、わたしと比べると指も細くない。骨張った手の甲。倫くんの指は、いつも、なめらかだ。爪もいつも一定の長さで整えられていて、手がかさついていたり爪が伸びていたりするとプレーに影響が出るのだと、いつしか語っていたことを思い出す。
屋内にいることが多く、肌が白く、女性の手みたいだね、と笑ったことがあるけれど、こうして重ね合わせてみると全然違った。
「なんでつま先立ちしてんの?」
「……ふともも太くなっちゃうから」
「かわいーじゃん」
ふともも裏がソファに接触すると広がって太くなる。デニムのパンツを穿いているときはそんなに強調されないけど、あらわになっているのだ。こうして彼に見下ろされているのに、太いと思われたくなくて必死につま先立ちしてふとももを浮かせている。
そんなわたしの苦労など知らず、彼はおかしそうに笑い、指を絡めたままふとももをつつく。
「こら」
「かわいーのに」
何がかわいいというのだろうか。
「倫くんってさぁ、暑がりなのにベタベタするの好きだよね」
「それはそれ、これはこれでしょ」
「んっ、こら!」
つついていた指先は、そのまま膝側から脚の付け根に向かってつつつっとふとももをなぞるから、逆の手でその手を軽く叩く。大して痛くもないくせに「いったぁい」と訴え、ふとももを触るのはやめたけど、わたしの親指の側面を彼の親指が撫でた。
「いちいち触り方がやらしい」
「えー? それはお前がそう思ってるだけじゃない?」
絶対そうじゃない。
右手は彼に拘束されたまま、左手はサブスクの映画を見ようとリモコンに手を伸ばす。すると、空いている彼の手がわたしの髪に触れ、右から左へひとまとめにして前に下ろされた。今度は何をして遊ぶつもりなのだろうかと思いながらリモコンを操作していると、右から左へ、ゆっくり、ネックレスのチェーンをなぞるように彼のくちびるが触れる。
「り、んくんっ!」
「んー?」
「だからっ、いちいちやらしい!」
「お前がね」
「何が?」
「お前がやらしーの」
「何が!?」
答えが全然答えになってない。わたしの二度目の「何が」は無視して、うなじにちゅっと口づける。はいはい、倫くんはいつもこうですよ。マイペースに好き勝手わたしの体を触って遊んでるんだ。
いちいち戸惑って反応して相手して、そんなことをしていたら身が持たないと、契約しているサブスクをつける。こないだ自宅でつけてたときに、倫くんと観たいなって思った映画があったんだよね。
「俺さぁ」
「んー?」
「お前が俺のパーカー着て、生脚で部屋にいるの見るの好きなんだよね」
「ん゛っ」
「なぁに? 変な声出して」
「……べつに」
だから、それをやらしいと言うのでは?
重ねていないほうの手が再びわたしのふとももを撫でる。スベスベで気持ちいい、なんて言うけれど、そのスベスベさを手に入れるためにスクラブしたり毎日保湿をしたりと、どれだけ地道にやってると思ってるんだ。
「触りすぎ」
「触るでしょ。かわいー彼女がこんな格好で素直に抱きすくめられてくれてるんだから」
素直にって、抵抗したってわたしがここに座って抱きしめられないとそうするまでごねるくせに。
「倫くん、ブランケット欲しい」
「だーめ。脚見られなくなっちゃうじゃん」
「……そういうフェチだったっけ」
「お前にそうさせられたのかもね?」
今振り返ったらきっと余裕たっぷりの微笑みを携えた彼がいるのだろう。恥ずかしいことをしてきてるのは倫くんなのに、どうして恥ずかしい思いをするのはわたしなのだろうか。
「ねえ、ナマエ」
ほんの少しだけいつもより低い声で、耳元でわたしの名前を囁く。ビクッと素直に反応してしまうのが悔しい。バレーボールをしている倫くんはかっこよくて、してなくてもかっこよくて、そのうえ声までかっこいいなんて、いったいどうなってるんだ。
「さっきからずっと耳もうなじも真っ赤なの、気づいてないの?」
「ん゛っ!」
「ふはっ、かーわい」
きっと顔が赤くなっているだろうとは思っていた。だから彼のほうへ顔を向けなかったし、かたくなにモニターを見つめていた。なのに、耳やうなじまで赤いなんて、そんなのわかるわけない。
顔も赤いんでしょ? 見せてよ。と、わたしのうなじを左の指先でなぞりながら言う。恥ずかしいからいやだ。いやなのに。
「ね、だめ?」
あまい声で囁かれたら、それを無視することはできない。
恥ずかしさに目を潤ませて倫くんのほうに向くと、目が合って「かわいー」と笑った。なんでわたしはこんなにも恥ずかしいのに、倫くんは余裕そうに笑ってるんだ。
左の人差し指にパーカーの紐をくるくると巻きつける。いまだ右手は解放してくれない。わたしの顔から、胸元、脚、とゆっくり視線を向けたあと、再びゆっくり同じ道をたどって顔に戻ってきて、目が合う。だから、その視線の向け方もやらしいんだって。
「これ着たナマエかわいーし、買って正解だったな」
「……まさか、わたしに着せるためだけに買ったの?」
それだけのためにこんな高いパーカーを?
わかりやすくブランドのロゴが入った服は彼の趣味じゃない。なのに持っていて、お気に入りみたいに部屋に掛けてあるから不思議だとは思っていた。
だってかわいーんだもん。と笑う彼に、呆れのため息が出る。
「自分では着ないの?」
「いや、着るよ。俺の匂いついてるでしょ? ナマエが着たあとに着てんの」
「んん゛っ!」
「アハッ、変な声」
そりゃあ変な声も出るでしょうよ。
倫くんはそのままわたしの鎖骨にくちびるを寄せ、左の指先はふとももを撫でた。ほんとやらしい。なのに当の本人はそういう気を起こしているわけでもなく、ただ触りたいから触っているのだという。
ふとももから手を離し、パーカーのジッパーを下ろし、おへそのところで止める。するりと手を伸ばし、短めのトップスを着てきたせいであらわになったお腹に手を伸ばした。こんなことなら、短めのトップスなんて着てこなきゃよかった。お腹に力を入れると、つうっとお腹からおへそまで人差し指でなぞってきて背中がゾクゾクと震え、抑えるようにギュッと彼のシャツを握ったらふっと笑われた。
「んっ、りんくん、映画観たい」
「観ていーよ。俺、ナマエのこと触ってるし」
「集中できない……っ!」
「えー? なんで?」
わかってるくせに。
倫くんはわたしに触れ、反応を見て楽しんでる。ひどい。意地悪だ。睨みつけても「こわくなーい」と笑みを返されるだけ。
「りんくんと観たいのに……」
顔が熱い。体も熱い。この部屋は十分すぎるほど空調がきいていて寒かったはずなのに。
「だめ?」
「……もー、そんなかわいいおねだりの仕方どこで覚えてきたの」
どの口が言うの。ついさっきだってあまえた声で「だめ?」と聞いてきたのは誰だと思ってるの。
ちゅ、とわたしのくちびるに倫くんはくちびるを落とし、パーカーのジッパーを上げ、前を向かせたあと、どれ見るの? とわたしの肩に顎を乗せた。右の指は絡められたままだけど、左腕はお腹に回り、それから映画が終わるまで彼のいたずらはなかった。
倫くんの部屋の空調設定温度はいつも低い。
だからいつもパーカーを借りていたのだけど、ある日ワンピースを着ていけば「皺になるから」と襟ぐりの広いTシャツを渡されて着替えると、体格差に左肩がずり下がり、どうしてもブラの肩紐が見えた状態になるわたしに「やばぁ。Tシャツもアリじゃん」と部屋の設定温度を上げるのを見て、彼の部屋の空調温度がいつも低い理由を察してバカじゃないかと頭を抱えた。