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倫くんの部屋の空調設定温度は少し高い。
夏場にあまりに室温を下げるのはどうかと思うし、適温というのはなかなか難しいものもあり、長袖が必要になるくらいなら半袖のカットソー一枚で過ごせる室温はちょうどいい。それでも倫くんは少し暑いのか、空気の循環をよくするためにつけている扇風機の前で涼んでいた。扇風機と倫くん。なかなかに似合わない組み合わせである。
つい数日前までわざと部屋の設定温度を下げてわたしに自分のパーカーを着せて楽しんでいた男は、今度は何を企んでいるのだろう。
「シャワー浴びて俺のTシャツに着替えなよ。汗でべたべたして気持ち悪いでしょ?」
「うん、ありがとう」
蒸し暑い外から室内に足を踏み入れたわたしに声をかけてくれる。彼はわがままですぐにわたしにあれやってこれやってとたのむけど、こういう気遣いはしてくれるんだよね。メイクの上から使えるリフレッシュシートは洗面台に置いているから、シャワーで軽く汗を流したあとに使って軽くメイクをなおそう。
倫くんのベッドのヘッドボードに置いた小物入れの中からヘアゴムを取り出す。買った覚えのないちいかわのヘアゴムとヘアピンがあったから「これどうしたの?」と聞いたら「飯綱さんがカノジョと行ったデートのお土産って言ってくれた」と返ってきた。コートの上で見る飯綱さんのイメージと違いすぎて聞き間違いかと思ったけど、「ほら」と言って見せてくれたEJPのみんなの写真には見事にちいかわのヘアゴムで髪を結んだりピンで留めたりする姿が写っていて、大の大人が揃いも揃って何をしているんだと呆れるほかない。……倫くん似合っててかわいいけど。
小物入れの中に一緒に入れられたなんの飾りもない黒いヘアゴムを手にするわたしに「使えばいいのに、ちいかわ」と半笑いで促してくるけど使わない。だからそのスマホ下ろして。絶対カメラ向けてるでしょ。
スマホを下ろしたタイミングで髪を高い位置でゆるくひとまとめにする。せっかくヘアセットしてきたのに、シャワーで濡れてとれたら嫌だなぁ。でも、ここに来るまでにもう汗かいてるし、まだ鏡を見てないけどある程度は取れちゃってるんだろうな。せっかくかわいくして来たのに。
「ねー、もっかいそれやって」
「えー、やだ」
倫くんの言う「それ」は髪の毛を結ぶことだろう。一度結んだものをほどいてもう一度結び直すのは面倒だし、そもそもなんでそんなことしなきゃなんないの。
なんて思うけど、
「お願い。だめ?」
「……仕方ないなぁ。もう一回だけだよ?」
倫くんの「だめ?」に弱いわたしはすぐに言うことを聞いてしまう。なんで倫くんってこんなにあまえるのが上手なんだろう。
一度ほどいてもう一度束ねる。その様子をそばでじーっと見られるのは、何も恥ずかしいことをしていないのにしている気にさせられる。
「ナマエちゃんやらしーい」
「倫くんがそういう目で見てるだけだよ」
「ううん。お前がやらしいの」
「なんで!?」
前に倫くんの触り方がやらしいと言ったときもわたしがやらしいと言われたし、理不尽だ。
もういい! シャワー浴びてくる! と言うわたしにTシャツはとタオルを渡してくれるから、それを受け取る。わたしの普段使っている柔軟剤の匂いがした。一緒に日用品を買いに行ったときに「ナマエいー匂いするからおんなじのにする」と言って同じ柔軟剤を手に取ったことがまだ記憶に新しい。
シャワーを浴びてリフレッシュシートで顔を拭き、軽くメイクをなおす。部屋に戻ると倫くんはベッドに横になってスマホでゲームをしていた。さっき小物入れの中から見つけたちいかわのヘアピンで髪を留めている。……かわいい。あざといって倫くんみたいな人のことを言うんだ。
倫くんから借りたTシャツはわたしのおしりまですっぽりと覆い隠すけど、このままの格好で過ごすには少し心もとない丈だった。
「倫くんハーフパンツ貸して」
「えー、やだ」
「あんまりエアコンの風当たるとよくないし」
「だからちゃんとお前が来る前に風量は弱にしてるし設定温度も上げてるよ?」
倫くんの基本的な二人称は「あんた」だけどわたしに対してはよく「お前」と言う。その言い方に最初はカチンと来ることもあったのだけど、距離が誰よりも近いのだと思うようになれば、嬉しくなった。我ながら単純だと思う。
相変わらずベッドに横になりながらだけど、チラ、と視線をスマホからわたしに移動させる。顔を見たと思えば視線を下に向けて、また順に上に向ける。何その視線の動かし方。やらしいなぁ。
わたしがそんなことを思うのと同時に、倫くんはニヤリと口角を上げた。
「肩紐見せてるのやらしー」
「見せてるんじゃないの、肩が落ちちゃうだけ。見えないようにしたら胸元見えちゃうし」
「見せてくれてもいーよ」
「やだ」
スマホをぽいとベッドの上に放り投げてわたしの腕を掴み、次の瞬間には倫くんの腕の中へ。膝の上に座らされて、至近距離で目が合う。
襟ぐりの狭いTシャツをたくさん持っているくせに、わたしに選ばせずにわざわざ広いものを渡してきたのだ。こうして肩が落ちてしまってブラの肩紐が見えてしまうことなんて、わたしがこのTシャツに袖を通す前からわかりきっていたことだろう。
つぅ、っと長い人差し指がブラの肩紐を撫でる。満足げに口角を上げる彼がやらしい人間でなくてなんと呼ぶのだ。
好きにさせていると人差し指をブラの肩紐と鎖骨のあいだに滑り込ませ、そのまま引っ張ろうとする。
「こら」
「ちぇっ」
ぺちんとその手を叩くとつまらなそうに唇を尖らせた。
図体の大きい男がちいかわのヘアゴムをつけて唇を尖らせる。こんなの、倫くんだから許される。いや、許すわたしがいけないのかもしれない。
「ねー、襟ぐり狭いTシャツ貸してよ」
「やだ」
「じゃあ今度から自分のTシャツ持ってくるもん」
「だめ」
やだとかだめとかそればっか。なんで倫くんってこんなにもわがままなんだろう。付き合いたてのときはもう少しマシだった気がするけど──って、やっぱりわたしがあまやかしているせいか。
お泊まり用のパジャマを買おうとしたときも「俺の服着るからいらないでしょ」と言ってすぐに元の場所に戻され、絶対にジェラートピケのパジャマじゃないと嫌だと、本当はそんなこだわりがないのに言えば、渋々と言った形で買ってくれた。……お揃いのメンズの同じサイズを。倫くんと同じサイズのボトムスなんてぶかぶかで穿けるはずもなく、いつもトップスだけを着るはめになる。結局は倫くんのしたいようにされるのだ。
肩口に顔を埋めて、すり、とふとももを撫でる倫くんの手をまたぺちんと叩くけど、今度はすぐにその手を掴まれた。
「悪いことする手はこーしないとね?」
「倫くんの手が悪いことしてるのに……」
「俺はナマエに触ってるだけ。ナマエは俺を叩いてるじゃん」
ちゅ、と鎖骨のすぐ下に口づけられる。自由を奪われた手では抵抗できない代わりに、こら、と自由な口で咎めるけれど「あとつけないからいーでしょ?」と悪びれもない声が返ってくる。だめだ。一度倫くんのペースになったら戻せない。
別に、倫くんがこのままえっちなことをしたいわけではないことはわかっている。これも彼にとってはただのスキンシップの一種なのだ。もちろん誰彼構わずするわけではないのはわかっている。わたしにだけちょっと、いやだいぶ過剰なだけだ。
「さっきまでしてたゲームの続きしなくていいの?」
「ずっとゲームしてたら拗ねるくせに」
興味をそらそうとしても無駄で、それどころかその狙いがわかっているかのように話題をわたしへとずらしてくる。
彼はわたしと一緒にいるときもゲームをしていることが多々あるけど、引き際をよくわかっている。わたしが拗ねたり不機嫌になったりする一方手前でやめて、抱きしめてくる。倫くんがあまえてくる図式になるけど、本当は、待てをされた犬が飼い主に撫でられて喜んでいるのと変わらないのかも、と思うときがある。
「……ずるい」
「素直でかわいーね」
頭をぽんぽん、と撫でたあと、ちゅぅ、と効果音がつきそうなキスをする。ふとももを撫でられてビクリと反応するわたしに、彼は喉の奥で笑った。
「ほんと、ナマエはしてほしい反応をしてくれるよね」
「倫くんの触り方がやらしいんでしょ。もういい。クローゼット開けて勝手にハーフパンツ借りるもん」
「だーめ」
ついでにTシャツだって着替えてやる。今日着てきた服でもいいし、この部屋にいくつか自分の服も置いてあるんだから。
立ち上がろうとしても腰を引かれて彼の膝の上から動けない。またからかうような目で見ているのだろうと睨みつけたけど、その表情に一気に毒気が抜かれてしまった。
「ぶかぶかの俺の服着てるのがかわいーからだめ」
とびきりあまい声で、あまい言葉を、わたしのことが大好きって顔で言うから。そんなふうに言われたら、倫くんの言うとおりにしてしまう。
だって、別に嫌じゃない。恥ずかしいだけで、嫌ではないのだ。
好きな人の服を着て嫌な思いになる人なんてきっといない。ただ、肩が落ちてしまうのとか、ダイエット成功してないのに脚をさらけ出しているのとか、そういうのが恥ずかしいだけ。だって、倫くんのSNSのフォロワーにかわいくて細い人がたくさんいたし。
でも、そういう人もいるのに、倫くんはわたしを選んでくれている。
「ほんと倫くんってわがまま」
「うん。でもそんな俺が好きなんでしょ?」
好きだ。大好きだ。だって、倫くんがこんなふうにあまえて、わがままを言うのもわたしだけだってわかってるから。
「ハハッ、図星だ」
素直に好きだと言うのが癪で黙るわたしに、こういうときはやらしさも企みもない無邪気な顔で笑う。
顔を背けて「スマブラがしたい」と言うと「ナマエもゲームしたいんじゃん」と呆れたように言いながら、Switchをモニターに繋いで準備してくれる。こういうのはわたしにやってとは言わず、自分でやってくれるんだよね。
勝ったり負けたりを繰り返して、そのあいだ倫くんはわたしに触れない。勝敗が決まって次の勝負までのあいだに触ってほしいなとチラチラ視線を向けても知らんぷり。絶対わかってて無視してる。
ゲームを終えて夕飯を食べ終えてもそれは変わらずで、サブスクで映画を見ている途中にいよいよ不満が募り始めたころ、倫くんは笑うようなシーンじゃないところで突然吹き出した。
「わがままって、ナマエのほうじゃない?」
そう言って、倫くんは、あまいあまいキスを落として、少ししかないベッドまでの距離をお姫様だっこしてわたしを連れていく。
互いを求め合い、あつい、と呟けば、倫くんは「はいはい」と言ってエアコンのリモコンに手を伸ばし、部屋の空調設定温度を下げる。
翌朝には設定温度は戻されていて、襟ぐりの広いTシャツから覗いた痕に「つけないって言ったじゃん」文句をこぼせば「俺にしか見えない場所だからいいじゃん」と悪びれもなく言うので部屋の空調設定温度を下げる。それから勝手にクローゼットを開けてパーカーとハーフパンツを穿くと、明らかに不満ですという顔を向けられた。
「パーカーは着ていいからハーフパンツは脱いで」
「やだ」
「あっそ」
そう言ってリモコンに触れ──電源を落とす。
「汗かいてえろいナマエ見るからいーし」
「やだ! エアコンつけて!」
「いやですー」
「わがまま!」
「お前がね」
彼の手からリモコンを奪おうとするも高く上げられ、それを追うように腕を伸ばすとバランスを崩して彼の上に倒れ込む形になってしまった。
「ナマエちゃんのえっちー」
「り、倫くんがっ!」
「もっかいする?」
パーカーの上から腰を撫でられビクリと体が反応する。しない、と言いたいのに裾から中に手を入れて肌に触れるその手を拒めない。
「かーわい」
エアコンの電源を入れてくれたけど、結局「汗をかくわたし」は倫くんに見せることになり、結局すべてこの男の手のひらの上なのだと思うと悔しいけれど、そのことを特に嫌だとも思っていないことがさらに悔しい。