これのきっかけの話
「……ナマエ、ナマエ?」
自分の名前を呼ぶ声に、ぼんやりと微睡んでいた意識が一気に覚醒する。一瞬で目が覚めて声の方を見遣れば、スティーブが俺をその青い瞳で見つめていた。
「…っな、何、スティーブ?」
「一瞬寝てただろ」
「え、あ、…そうかも…」
瞼がくっついてたよ、と笑みを交えながらそう言うスティーブはするりと俺の持っていた酒の入ったコップを取り上げる。零すといけないからとテーブルにコップを置いてくれたスティーブにお礼を言って、俺は目を覚ますために両頬をぱちんと叩いた。
俺はいま、仕事終わりの夜にスティーブとサシ飲み中である。事の発端は今日の昼。何を思ったのか、スタークさんとアベンジャーズタワーでばったり会った時に「折角だから年寄りの恋人と一緒に飲むといい」なんて言われてワインをもらったのだ。「年寄りの恋人」というのは、最近そういう関係になったばかりのスティーブ・ロジャースのこと。スティーブのことを「年寄りの」恋人なんて言われたことは少し心外だったけれど、スタークさんからの贈り物ということはかなり上等なものなのだろう。ワインの銘柄に詳しくない俺でもそれくらいは判断できる。だから「折角の」上等なワインを無下にするわけにはいかないと、その日のうちにスタークさんの言う通りスティーブを誘って、彼は勿論と笑顔で快諾してくれ、今に至る。ワインを飲み慣れてはいないのでこれが美味しいのか不味いのかよく分からなかったけれど、それでもスティーブと久しぶりに一緒の時間を過ごせることは嬉しかった。
問題なのは、
「眠くなってきた?」
「ちょっと、…でもまだ大丈夫」
スティーブにそう返したが、気を抜いたら夢の向こうに意識をやってしまいそうだ。ああくそ、飲み過ぎてしまった。やって来る眠気を追い払おうと首を振る俺に、スティーブのふ、と柔らかく微笑った声が聞こえる。
そう、問題なのは俺の酒癖だ。
どうやら俺は酒を飲むと眠くなってしまう酒癖のようで。それを自覚したのは数年前のクリスマスパーティーの時だ。クリスマスパーティーで度数の弱い酒を少し飲んだだけで酔った挙句、その後寝落ちしたことをしばらくネタにされたということが起きた。「クリスマスパーティーなのにナマエは金髪の神様と添い寝だもんな」なんてニヤニヤ顔でスタークさんに何度もからかわれれば自分の酒癖くらい嫌でも把握してしまう。それから何とかならないかと思ってはいたものの、生憎俺にはお酒を飲む習慣がない。飲むとしてもパーティーのような祝い事や特別な機会の時くらいなので酒に慣れようがなく、毎度毎度酒を飲む度に眠気と戦うのが常になっている。そして今回も例に漏れず、というところだ。
「眠いなら寝ても平気だよ、僕はトニーみたいに揶揄わないから」
「いや…寝ない、大丈夫、寝ないよ」
スティーブの優しい言葉にゆるりとかぶりを振る。俺から誘ったのに寝るわけにはいかないし、久しぶりのスティーブと2人きりの時間なのだ。だからここで寝るわけにはいかない。襲い来る眠気に対してもう一度頬をぱちんと叩いて、気持ちを踏ん張らせた。
「…ナマエ?無理に飲まなくていい、また別の時に飲もう」
「ん………」
そう言いながらナマエの頬を撫でれば、彼は心地好さそうに僕の手に頬を擦り寄せる。酒に酔ってずっと眠気と戦っていたナマエだが、ついに酒に負けて今は僕の肩に頭を預けて半分夢の世界に旅立とうとしていた。
「一緒にお酒飲まない?」とナマエが自分を誘ってくれたのが数時間前。恋人という関係になってから、ナマエが初めて自分を何かに誘ってくれたことが素直に嬉しくて僕は即座に頷いたのだ。
優しくナマエの頬に触れていると、不意にナマエの言葉を思い出して自然と笑みが漏れる。ナマエが普段酒を飲まないことは知っていたので、手に持っていた上等そうなワインをどうしたのかと聞けば「スタークさんが、恋人と飲めって言うから」と、頬を赤らめながら答えたナマエが愛しくて、思わず抱きしめてしまった。スタークが何を思ったのかは知らないが、後でお礼を言っておこう。
「ナマエ、ほら、」
「ん…」
とはいえ、楽しい時間はもう終わりのようだ。もう少し話していたかったけれど、流石に恋人をソファで寝かせるわけにもいかない。ナマエを部屋まで送っていかなければ。僕たちの場合部屋が向かい同士だし、こういう時にお互いの部屋が近いと便利だ。半分寝ているナマエの腕を僕の首に回させてから背中と膝裏に手を差し入れ、ナマエを抱えて立ち上がる。すると衝撃に意識が浮上したのか、ナマエはその重そうな瞼を薄っすらと開けた。
「スティーブ、?」
「ん?」
「…おれ、ねてないよ…」
さっきまで僕の肩に頭を預けて寝ていたのに、それでも寝ぼけ眼で寝てないと言い張るナマエに頬が緩む。寝惚けていて自分が抱えられていることには気付いていないようだ。
足を進めてナマエを抱えながら玄関へと向かう。途中振動からどこかに向かっていることを感じ取ったのか、ナマエはどこか不安げな表情で僕を見上げた。
「…スティーブ、帰るの?」
「いや、君を部屋に送って行くんだよ」
「それ、…帰るってことだろ?」
その言葉と不意に見せたナマエの表情に足が止まる。悲しそうに眉を下げて、その丸い瞳は心なしか潤んでいるように見えた。更に酒のせいでいつもよりも色付いた頬や唇が艶やかで思わず息を呑む。普段彼はそんな雰囲気を微塵も感じさせないから余計だ。
僕が何も答えなかったのを肯定と捉えたのか、ナマエはくしゃりと顔を歪ませて、僕の首に抱き付いて。
「いやだ、俺、もっとスティーブと一緒にいたい…」
「………、」
駄々をこねる子供のように、甘えるように、少し舌ったらずに出された言葉。いつも控えめな恋人のささやかな我儘に心臓がぎゅう、と締め付けられた。余りの愛おしさに寧ろぐう、と変な声さえ出た気がする。
「…分かった、」
ああ、そんなことを言われてしまったら、君を部屋へ送ってやれないじゃないか。
「ほんと?」
「ああ、一緒にいるよ」
「ん…」
僕の言葉にナマエは嬉しそうにありがとう、とへにゃりと笑った。僕はナマエの笑顔が好きだ。その笑顔が見れるなら何でもしてやりたい。そう思いながら体を翻して玄関とは反対方向へと歩き始めると、再びナマエが僕を見上げる。
「どこ行くの?」
「寝室だよ、ナマエ、お酒を飲んだから眠いだろ?」
僕の答えにナマエは微睡んだ瞳をゆるりと瞬きさせる。少しの沈黙、そして惑うような視線。やがて揺れた視線が僕へと戻ると、ナマエは小さく口を開いた。
「…なあ、おれ、スティーブと一緒に寝てもいい?」
「ああ、…勿論」
…この恋人は、どれだけ僕の心臓を鷲掴みにしたら気が済むのだろうか。思わず溜め息が出そうになる。
ナマエは控えめだ。付き合い始めてまだ少ししか経っていないけれど、ナマエから何かをお願いされたり、誘われたりすることは殆どない。友人から恋人という関係に発展したせいもあるのかもしれないが、キスやハグも大体は僕からで、ましてやこんな可愛らしいお願いはされたことがなかった。受け身ばかりのナマエに、本当は僕のことが好きじゃないんじゃないか、付き合わせてしまっているんじゃないかと不安に思ったこともあったけれど、そんなことはないみたいだと安堵した。現に、こうして自分が求められている。アルコールのせいで理性のタガが外れて、いつもよりもずっと素直になって、思っていることを口にできているのだろう。この時ばかりは酒に酔えない自分に感謝した。素面の状態ならばしっかりとナマエの酔った姿を頭に残しておける、とそこまで考えて、自分も相当ナマエに参っているなと自嘲した。
「ほらナマエ、着いたよ」
寝室に入り、ナマエを抱えたままベッドの毛布をはいで、ゆっくりと彼をシーツの上に横たわらせる。ナマエは眠そうな目をぱちくりとさせて、ゆるりと僕を見遣った。
「スティーブのベッド?」
「そうだよ、僕の家だからね」
「…スティーブのにおいがする」
「……僕のベッドだからね」
幸せそうな笑顔と共にすん、と枕に鼻を埋めるナマエの行動に思わず顔を覆いたくなる。
「スティーブ、きて」
「…ああ」
そう言って薄く笑うナマエの唇の色がやけに色付いて見えた。衝動のままその小さな唇を塞ぎそうになったけれど、それは必死に我慢する。参った。手を伸ばして僕の指を握るその仕草も、僕を見る闇に溶ける真っ黒な丸い瞳も、全てが僕の心をどうしようもなく高鳴らせる。ナマエのいつもの無防備さに磨きがかかって、更に煽情的ときた。頭がくらくらしそうだ。酔ったら眠くなるだけかとずっと思っていたのに、まさか、こんな風になるなんて。
「ふふ、」
「幸せかい?」
「うん、幸せ」
弱々しく手を握られ、ナマエに求められるがままにベッドに横になる。すると猫のように擦り寄ってきた。僕の胸に顔を埋めるナマエの後頭部を撫でると、嬉しそうなくぐもった笑い声が聞こえてくる。心拍数が上がっていることがナマエに分からないようにと願った。
「スティーブ、俺さ、」
「うん?」
そうしてしばらく僕の胸に顔を埋めたり撫でたりと堪能していたナマエだったが、不意に僕を見上げてぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「さいきん、スティーブと一緒にいれなかったから、」
「ああ」
「だから、久しぶりに2人でいれるのが嬉しくて、…ああ、スタークさんにありがとうって、言わなきゃ」
「うん、そうだね」
「スティーブ、おれ、」
じ、と真っ黒な瞳が僕を見つめる。
「おれ、スティーブのことだいすきだよ」
「……ああ、…」
心底幸せそうな笑みを浮かべて、僕に抱きついてそう僕に言った後、ナマエの規則正しい穏やかな寝息が聞こえてくる。幸か不幸か、理性が正常に働いて。その時の僕は、目の前の眠りに落ちた愛おしい恋人をそっと抱きしめた。そしてそのまま、長い眠れない夜を悶々と1人過ごしたのだった。
「で、"大好きだよ"って言われて?」
「…それで、抱きしめて、一緒に寝た」
「抱きしめて」
「一緒に寝た」
スティーブの言葉を一言ずつ反芻するのは彼のサイドキックであるバッキーとサムだ。
「…スティーブ、お前馬鹿なのか?そこまでされてキスの1つもしなかったのか?」
マジかよ、と信じられないような表情で長年の親友を見遣るバッキーにスティーブはうるさい、と溜息を交えながら返す。
「酔ってるナマエにそんなことできないだろ」
「ああ…いや、まあそうだけどさ…うん…、」
納得いくようないかないような、微妙な表情を浮かべるバッキーに続いて、今度はサムが溜息を交えながら口を開く。
「なあ、いつになったらおままごとの付き合いから恋人の付き合いに進展するんだ?聞いてるこっちの身にもなってくれ、いい加減やきもきするぞ」
「それは君が勝手にやきもきしてるだけだろ?僕は別にやきもきなんかしてないよ」
「………」
平然とした顔であしらったスティーブだが、果たしてそうだろうか、と2人は思った。スティーブの言う通りのことを、そんな可愛らしいことを恋人に言われたら襲ってしまってもおかしくはないし(少なくとも2人にとっては)、付き合い始めて未だに数ヶ月しか経っていないものの、それでも恋人としての行為がハグと触れるだけのキスというのは、男としては些か物足りないのではないか。
「…なあスティーブ、」
「今度は何だよバッキー」
「お前だって男だろ?ナマエとエロいことしたいと思わないのかよ」
「は、」
不意のバッキーからの言葉にスティーブは一瞬固まる。それを見てサムがバッキーの言葉の先を続けた。
「ナマエのことそういう意味で好きなんだろ?だったらそういう……キス以上のことしたいとか考えたりしないのか?」
「……………それは、……」
「………(したいんだ)」
「………(エロいことしたいんだな)」
言い淀むスティーブを見てそう確信した2人は顔を合わせて頷いた。友人として、相棒として彼を後押ししなくてどうするのかと。
かくしてバッキーとサムの「スティーブとナマエを先に進ませよう」大作戦が開始されるのであった。
20181218