Butterbiscuit


 父さんと母さんが離婚してから、父さんの帰りが遅くなることが以前にも増して多くなった。たまに一日、二日三日置いて帰ってくることもある。
父さんの仕事は電車の運転士で、それが休みだとか定時だとかが不規則な仕事だったので別に不満があるわけではなかった。
 それでも父さんは俺の学校の運動会だとか授業参観の行事にはなんとか参加しようとしてくれていて(そのうちのいくつかはそれでもダメだったけれど。)、授業で習ったネグレクトの類にあたらないことを知っていた。

一人で布団に潜り込むのには慣れたし、学校や塾に行けば友達もいた。母さんが、たまに電話をかけてくることもある。母さんと父さんは聞くところによると、円満に、結婚を終えたのだという。だから電話口で聞く母さんの声は穏やかで生温いままだ。それはわだかまりがないということなのだろうか、逆に、俺のことはもう考えられていないようにも思えて少し寂しかった。
俺の家族はもう父さんだけ。それをありありと分からせてくれるのは、母さんの優しい声で、学校はどう? と聞かれる時だった。

 他にも不満というか嫌だなと思うことがあるのは、母さんと父さんが離婚してから近所に住んでいたお爺さんが、父さんの仕事について、もしくは俺が可哀相だということについて、しきりに話してくることだ。
その話は長くて、多分お爺さんにとっては励ましだったのかもしれないけれど、どうしても気分が落ち込むものだった。なので俺は学校や塾に向かう道を、そのお爺さんの家近くを通る道から大きく迂回できる道へと変えた。


 父さんと母さんが離婚してから何回目かの冬のことだ。その日、俺はなんとなく塾に行きたくない気分で、いつもの道の途中にある公園でサボることを決めた。向かいにあったコンビニで小袋のビスケットを買って、塗装の剥げたパンダの上に座って食べた。新しく買ってもらったマフラーを膝掛け代わりに畳んで置くと、首の辺りに冷たい風が吹き抜けた。
 時計を見るともう午後六時を過ぎていて、辺りはすっかり暗くなっていた。ここであと二時間ほどをぼんやり過ごさなければならない。小学生の時なら今ぐらい暗くなればさっさと家に帰っていた。だんだん人通りの少なくなる通りと、ばちばちと光る電灯に群がる蛾の群れが気持ち悪かったからだ。
 だけど今日は、もしかしたら父さんが早く帰ってくるかもしれない。それは嬉しいことだけど、俺が塾をサボったことがバレてなんとなく気まずい雰囲気になるのは嫌だ。父さんが帰ってきたなら、リビングで一緒に過ごしたい。
 小袋の内側でぴかぴかと光る銀とその油に、ビスケットの粉がついている。それは俺の指にもついていて、舐めるとバターの甘い匂いが鼻を抜けた。胃の中になにかしらが入っているような感覚はあった。少ない感じがするけれどお腹はいっぱいで、パンダの鼻先を滑る蟻が俺が零したビスケットの粉を拾って消えた。

「おい」

 パンダの上に座って二十分ほど経った時、赤い髪の不良っぽい人に話しかけられた。俺はとても驚いて、少し固まる。
「え、」
「もう暗いだろ。こんなところにいると危ないから、そろそろ帰ったほうがいいぞ」
「……あ、はい」
その人は低い声で、だけど穏やかな口調で俺にそう言う。予想外の言葉に握っていたエナメルバッグの紐がずり落ちた。上に載せていたビスケットの空き袋は地面に落ちたので慌てて拾い上げる。乱雑に畳んでポケットの突っ込むと、俺は改めてその人を見上げた。どこかで見たことがある気がした。
「…………」
「どうした?」その人の目が俺を見透かすように虹彩を揺らす。
「…………紅月」それは俺が思い出した記憶のうち、テレビの音楽番組で見たアイドルユニットの名前だったと思う。それを呟くと、その人は少し驚いたように目を丸くした。
「……あー、知ってんのか」
困ったように髪をかき上げるその人は溜息をついた。俺が肩を揺らすと、僅かに眉を下げる。「悪いな、怖がらせるつもりはねえよ」その人は鋭い目で俺を見下ろしていたけど、それは元々のものなのかもしれない。
「あの、俺、まだ、帰れないので。すみません。ありがとうございます」
 俺は完全に萎縮してしまいひとまず謝った。途中でなんで謝ったんだろうと思ってお礼もしてみたけど、この意味も分からない。紅月の人は俺をじっと見下ろしていたかと思うと、急にしゃがみこんで目線が合った。
「もしかして、家の鍵でもなくしたのか?」
「え……そうじゃなくて、父さんが帰ってきたら、こ、困るから、です」緊張でぱちぱちと瞬きをしながらそう伝えた俺に、紅月の人が険しい顔をした。俺はますます小さくなってしまったみたいで、じんわりと目が熱くなる。塾、サボらなきゃ良かったな。
「……そうか」
 ややあって紅月の人はそう呟いて、立ち上がった。良かった、ようやく行ってくれる。そう思って安堵の息をつくと、その人はなぜか、俺の隣にあったゾウに座った。それから彼は自分のバッグから何かを取り出して、俺に差しだした。

「食うか?」

 それは、シンプルな透明の袋に入ったビスケットだった。俺はさきほど食べたばかりの小さなビスケットを思い出し、どう答えようか迷った。しばらく考え、断るとなにか怖い目にあうかなと思ってそれを受け取った。赤いリボンが丁寧に蝶結びしてある。「気にしないで開けて食っていいぞ」そう言われて、リボンの片方の尾をつまんだ。
 アイドルだと言うくらいだからか、ファンからの贈り物だろうか。淡いきつね色の焼き目に、なんだかさっき食べたばかりのビスケットが急に安っぽく思える。食べてみると、そのビスケットはすごく美味しかった。
「……おいしい」
「そうか」紅月の人は優しく笑い、俺を見つめていた。怖くて気恥ずかしくて、顔が熱くなった。俯いて袋の中を見ると、丸いビスケットは綺麗に連なるようにして詰められている。俺が一枚引き抜いたので少しばかり空いた空間には、やっぱりビスケットの粉と欠片が残っていた。赤いリボンは、マフラーの上に置かれている。
「それ、良かったら全部もらってくれねえか」
「いいんですか?」
「ああ。少し作りすぎてな、まだいくらか残ってるんだ。家に持って帰っても食べきるには時間がかかるだろうから」
 その言葉の引っかかりに、俺はこのビスケットを作ったのがこの人であることに気づいた。残ったビスケットを摘まもうとした手が止まる。「お菓子、作ったりするんですね」紅月の人は頷いた。「ああ、楽しいからな」それを聞いたら、なんだか紅月の言葉が遠くへと消える。

「なまえ、聞いてもいいですか?」
「あ? ああ、いいぜ。鬼龍紅郎、だ」
「鬼龍さん」
「……お前の名前は?」
「ミョウジナマエです」
「分かった。ナマエな」
「はい。あの、ビスケット、ありがとうございます」
「ん、いいんだ。俺が勝手に押しつけたようなもんだからな」
 ありがとな、と鬼龍さんは言って、俺の頭を軽く撫でた。彼の手は暖かくはなかったけど、髪を押さえられる感覚は、とても久しぶりのことだった。



 あの後三十分ほど鬼龍さんと話し、俺はだんだん塾をサボったことよりもこの寒い中公園でぼんやり座り続けなければならないことが気になり始めた。
「そろそろ帰ろうと思います」
 鬼龍さんとの会話を切ってパンダから立ち上がり、そう告げると、鬼龍さんは俺を見上げて首を傾げた。
「……お前の親父さんは大丈夫なのか?」
「父さん?」もういいんです、多分。俺がそう言うと鬼龍さんは眉を寄せてそうか、と頷く。それから立ち上がった。「途中まで送る」「でも、悪いし」「心配だからな。ただのお節介だよ」どうしてもダメならやめておく。と鬼龍さんは苦笑いを浮かべた。
「いえ、その、お願いします」
 塾が終わるまでにはまだ一時間ほどあった。父さんは帰ってきているだろうか。でも、早く帰った方が良い気がした。

 鬼龍さんには妹がいるらしい。俺には兄弟というものはいなかったしいまいち両親以外の家族というのが分からなかったが、多分いいものなんだろうと思う。
俺の母さんと父さんが離婚した話をしたら、鬼龍さんの母親は昔に亡くなっているのだと聞いた。「ナマエは偉いな」鬼龍さんはそう言って優しく笑った。父さんが優しいから、と言うと鬼龍さんは面食らったような顔になったが、ややあって、息をついた。
「よかった」
 不思議に思って俺が鬼龍さんを見ると、鬼龍さんは「いや、なんでもねえよ」と言って目線を俺から外す。ふと、俺に兄さんがいたならこんな人がいいな、と思った。料理ができて、優しい。かっこよくて、アイドル。でもなんとなく、それは別世界のようでもあって若干気後れもした。しばらくして気づくと、俺の家の近くまで来ていた。

「ここのマンション、俺の家です」
「そうか。気いつけて帰れよ」
「ありがとう。鬼龍さんも、その、あったかくして帰ってくださいね」
「ん、ああ」

 鬼龍さんに手を振って、俺はマンションのエントランスに向かった。振り返ると、鬼龍さんは来た道を引き返している。やっぱり、ここ、帰り道じゃなかったんだな。
エレベーターのボタンを押して三階のフロアにつくと、強い風が吹いていた。通路の一番奥にあるのがうちの家だ。玄関の鍵を開けると、自分のものでない大きな革靴が置いてあって、あちゃーと思った。

「──ナマエ?」

 リビングに通じるドアが開いて、驚いた顔の父さんが顔を出す。「ただいま。ごめん、塾、サボっちゃった」ついコートのポケットに手を突っ込んでしまう。ビスケットの小袋ががさりと小さな音を立てた。
俺の言ったことに目を丸くしていた父さんが、少しして笑う。

「そうなのか。いいさ、たまには……」


BACK