神様赦してください


 雪虫の尾についた綿を、遊び半分で千切ったことのある人間はいないだろうか。あるいは日に当たって虹色にゆらめく、トンボや蝉などの透明な羽を。そうでなくとも、少しの好奇心で自分よりも力の弱いものを殺す興奮ぐらいは知っているはずだ。
 おれも昔にそんなことをした覚えがあるのでそれに関してなにか言うことがあるわけじゃないが、今となると少しばかりゾッとする思い出である。
 あるところの研究者によると虫の類に痛覚はないそうだが、記憶を掘り返せば決まって羽をもいだ虫などはキーキー鳴いて体をばたつかせていたので、もしや、人間の罪悪を消すための嘘に過ぎないのかもしれないと思う。



 おれがふとしたきっかけでとある男と運命的な出会いをしたのはおおよそ五年前のことで、更にそこから四年と六カ月、彼と過ごした。
 更にその二カ月前におれはとんでもなく不味い実を食べていて、それがムシムシの実、モデルはトンボ──要するに悪魔の実だったということはおれの人生を狂わせた一手であったことに間違いはない。
おれはその能力の恩恵でデカいトンボになることができた以外に、普段ぼうっと突っ立っているだけでも透明な羽が露出するようになった。それがうっかり悪い人間の目に止まり、捕まえられてしまったのが運の尽き。おれはヒューマンショップで競りにかけられ、ドフラミンゴに買われた。
 おれのなにが良かったのか──この能力か、あるいは金持ちの道楽というやつだったのか、ドフラミンゴは大金を出して、ご機嫌な様子でおれを連れて帰った。

 最初の一日目は、正直、天国だったと思う。
おれは一応奴隷という身分で海楼石の首輪さえあったけどきっちり食事も衣服も与えられ、彼のファミリーの人間に紹介もされた。その頃おれは能力の弊害でよく耳鳴りや目の冴える感覚に悩まされていたが、彼はその度におれを気遣うような素振りを見せた。
「ゾオン系の能力者は、体が丈夫なんだよなァ」
 二日目の夜のこと。ドフラミンゴが不意にそんなことを言って、おれの背中にある羽に手をかけた。嫌な予感がして背中の皮膚がぐっと突っ張るのにおれはガタガタと震えた。
おい待ってそんなことはやめてくれがあああッ──そんな感じの悲鳴と共におれの背中には激痛が走り、嫌な音がした。
ふとおれは、子供のころ羽をもいだ虫もこんな痛みを感じたのだろうかとぼんやり思った。もしかするとこの仕打ちはその罰なのかとさえ思った。
 気づけばドフラミンゴの手には透明な羽が握られており、またそれには雑草の根っこみたいな赤いのがぺちゃりとぶら下がっていて非常に奇妙だった。
「生えてないとただ気持ち悪ィだけだなァ……」
 フフフ! とドフラミンゴは笑い、羽を破く。おれはとんでもないやつのところに来てしまったのだと思った。
 あとから見ると羽をもがれた背中には縦に赤い筋が走っており、そこからどくどくと出血していた。殻になった蛹のような、ひどく空しい感じがした。
 おれを手当てしてくれた子供は、この羽の根は背中にある筋繊維に絡み付くように生えていて、またそれは神経のようなものだから激痛を伴うのは当たり前なのだと呆れたように言った。どうりで背中の片側が痺れているような感じがするのだ。
「あんた、きっと今にあいつに飽きられるだろうな。おれにはわかる。でも、そのほうがいいだろうから、きをらくにしていろ」
 遠回しにおれの死がすぐそこまで来ていることを教えてくれた子供は、ふんと鼻を鳴らして治療を終えた。おれはお礼を言うでもなく真っ先に「死にたくない」と言った。子供は呆れて、「なら、こびるでもなんでもしてあいつに気に入られるか、つっぱねてにげるくらいの力をつけるべきだな」と大人びた忠告をくれた。


 おれの羽が再び生まれ、以前のように大きくなるまでには二カ月かかった。
その間ドフラミンゴは残ったおれの羽をもぐようなことはしなかったが、たまに思いついたように「お前を標本にしたら高く売れそうだ」とか趣味の悪い冗談を飛ばすことがあった。おれは「そんな変態が?」と困惑した。ドフラミンゴは「世界は広い。探せばごまんといるだろうなァ。もっともその一人は、おれだ」と笑った。
 次に羽をもがれたのは最初にもがれた羽が立派に再生した頃だ。
「今度は丁寧に取ってやる」
 そう言われておれはひくりと顔を引き攣らせた。ただただ恐怖だった。怯えて目を閉じるとぱしゅん、と音が鳴って、今度はドフラミンゴが手を出す間もなく羽がぱらりと床に落ちた。痛みは引き抜かれるのに比べればそう大きくはなかったが、その後が大変だった。
 第一におれの羽が生えかわるには根っこごと抜けなければならないらしく、結局その後ロー(子供の名だ)に麻酔をかけてわざわざ抜いてもらったのだ。施術中はそうでもなかったが麻酔が抜けた後にじくじくと痛みがあったのでなにが良かったということはない。


 また、ドフラミンゴは気まぐれに優しくなることがあった。寂しいだろうとおれを抱いて眠るのだ。体格的には、おれの二、三倍もあるあいつが。そのくせ優しい力で抱きしめられ、ただそれは、おれの羽をもぐ手でもあったので頭を掻き毟りたくなった。
 背中の羽が抜かれた後の傷回り、かさぶたになっているところをそっと撫でられておれは吐きそうにもなった。
 次の日になればきっとこの男はまたおれの羽を子供のイタズラみたいにもぐに違いない。傷口に爪を立てて、ときに筋繊維に指を潜り込ませて、ときに二枚同時に、ときに生えかけの小さな羽も。
 その痛みは、おれが今まで与えた虫たちと通算して、とっくの昔に超えていたようなものだ。ならばなぜ。なぜこんな罰を。なぜ。なぜ。明日も明後日も三日後も──。



 ここまで話した時におれと話していた海兵がひくりと顔を引き攣らせた。おれはなんとなく正気に戻り、それから舌打ちした。
「あいつ、妙にパターンをつけてきておれの羽をもぐんだ。最低だ」
「あー、その、悪かった……」
「いや……もうずっと拘置場にいたいな。あんなやつにまた捕まったらいよいよ狂っちまうよ」
 四年と六カ月目。おれはあの地獄から脱出することを決意した。というのも、ドフラミンゴがおれに首輪をつけるのをやめたためである。やつは日課のようにおれの羽を一枚もいだ後に、ふと首輪を外して言ったのだ。「もう、飽きちまったな」と。おれは見上げて見下ろされ、はっとして虫の姿になった。その時一番クリアに目が冴えた。おれを見上げるドフラミンゴは気味の悪い笑みを浮かべていて。
それが決定打だ。三枚羽ではろくなはばたきもできなかったが屋敷を出て、島を出て、海を渡り──、途中で力尽きて海軍の船に落っこちたけれど。
 目が覚めて事情を聞かれ、ドフラミンゴの名前を出したところ捕まってここまできた。
 今の今まで事情聴取を受けていたおれはついでにと海兵に背中の羽をもがれた痕を見せると「うわッ」と露骨な反応を示されたので少し悲しい。
 シャツを戻しながらぶつぶつと呟いた。

「もう、監獄にでもなんでもぶち込んでくれ……遊びで羽をもがれるのは絶対にいやだ」

 おれがそう言うと海兵は苦い顔をして「お前の話が本当なら釈放が関の山だ」と答えた。でもおれが逃げた時、ドフラミンゴは「フーン、まだ面白ェところがあるんだな」なんて。それは確かに言っていたから外に安全圏があるとはとても思えない。こんな羽なんていらない。飽きられて殺されるほうがずっといい。
頼む、どうか助けてくれ。


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