クオリアはゆがむ


 ミョウジナマエは不気味な男だ。とは、影片のいるクラスでは暗黙の了解となっていた。
 中学校というのは、狭い世界だ。ある一定の興味や嗜好は全体と統一されたものであり、そうでなければ異物や、あるいは空気のようなものだと見なされ、たびたび排他的なものになる。
 例えばナマエが五月の半ば、校舎裏の青い綺麗な蝶々を潰したことは、彼の指についた鱗粉、また、その指で猫の首を絞めたことなど、どこからが本当でどこからがうそなのか分からない噂が広まった時、彼の居場所は小さなものとなってしまった。
 ナマエはそうでなかったとしてもあまり人と関わらなかったし、時々思い出したように教室の天井を見上げるその動作は彼のクラスメイトにとって不気味に映ったことだろう。

 移動教室の際、ナマエは誰よりも早く教室を出て階段を上がる。人気のない三階フロアの理科室の前でぼんやりと柱にもたれ掛かって、窓の外を見ているのか、廊下の端にある埃を見ているのかは、影片も知らない。
 ただナマエの次にやってきた彼が、不意にナマエと目が合い、うっかり視線を逸らしてしまったことは事実である。
 授業の時間になってナマエが鍵の開けられた理科室へ入っていく背中を眺めながら、影片は溜息をついた。
 近くにいた女子生徒が、「影片くん、入らないの」と尋ねてきたので、「あ、うん。お先どうぞ」と彼は答えた。それからふと、どうしてこんな風に答えたんだろう、と首を傾げた。



 夏休み前、六月の終わり頃。今年に入って最初となる台風がやってきた。
 この頃ナマエは学校をよく休むようになっていて、彼のいない席──窓際の後ろから二番目。の窓は不自然に閉められたまま、残りの窓から吹いた風がカーテンを激しく巻きあげていた。影片はナマエのいた場所だけ静かだったのが妙に気になり、閉められたままの窓を開けに椅子から立ち上がった。

 二限目の時点で風に雨が混じり初めて、その終わり頃に担任が今日の授業はこれで終わりだから速やかに下校するように、と告げた。
 影片は早々に騒がしい教室を出て、下駄箱で靴を履き替える。傘立てに挿した傘を引き抜いて学校を出た。

 影片は帰路を急ぐにつれ、雨は土砂降りへと変わり始めた。不意に強風が影片の傘を攫い、握っていた彼の手が解ける。振り向くと傘は傍にあった電柱にぶつかって骨組が酷く折れていた。おまけに布部分が破れている。
 影片はぽかんと呆けながらも急いで傘へと駆けより、それを拾い上げた。
「ひどいなあ」
 守るもののなくなった彼に飛沫がびしゃびしゃとぶつかる。家まではまだまだ距離があり、彼はなんだか気が遠くなった。
 影片が立ち呆けていると、不意に足元に何かがぶつかった。続いて、鼻から抜けたような高い鳴き声が聞こえた。視線を下ろすと、彼の靴の上には猫がいる。強風に飛ばされてきたのか、ころりと転げていた。
「なんや、こんな風強い日に、外出たんか……」
 かわいそうになあ、と影片は呟き、猫を雨から守るように両腕でしっかりと抱き上げた。人馴れしているのか、その猫は影片の手を舐める。
「飼い猫? うーん……おれんち連れてくわけにもいかんしなあ……」
 どこか雨を凌げる場所に、と顔を上げた影片の目に、人影が映った。
 赤いレインコート。裾をばたばたと暴れさせながら、その人がこちらへとやってくる。片手でフードを押さえていたその人が、俯き気味だった顔を上げた。
 フードが倒れ、その瞬間露出した黒髪が後ろへと流れる。──ナマエだった。
 影片を見て首を傾げ、こんなところで何をやっているんだと言いたげに影片を見ていた。

「……あのさ!」

 ナマエは少しして、はっとしたように声を上げる。影片はびくりと肩を揺らした。
「それ、うちの猫なんだ。拾ってくれたんだよね? ありがとう!」
「んあ、ああ……」
「影片くんでしょ?」
 影片は、ナマエが自分の名前を知っていたことに少なからず驚いた。なんとなく気まずくて、視線を下げる。
「さっき学校から緊急メールあって。外出るの危ないって」
「あ……おれ、学校早く出たんや、」
「え? ごめん、聞こえない」
 ナマエは影片にじっと目を向けると、彼の手に握られた傘の残骸をちらりと一瞥した。
「影片くん、ここ、危ないからさ、うちおいでよ」
「な、なんで?」
「なんでって……猫だけ返してもらうのもなんかダメだと思う」
 別にええよ、と影片が言う前に、ナマエは踵を返して歩き出していた。影片が立ち止まったままでいると、ナマエが振り向く。彼は不思議そうに影片の姿を眺めた。
それがなんとなく気まずくて、影片がその後をようやくついてくる。彼の腕に抱かれたままの猫は、ぼんやりと空を見上げているようだった。


 ナマエの家は、猫のいた場所からそう離れていなかった。白い一軒家で、ナマエが玄関先でレインコートを脱ぐ。その背中が学校で制服を着ていた時よりも大きく見え、影片は、ナマエが自分よりも背の高いことを初めて知った。

「傘、そこに置いていいよ」

 ナマエは影片より先に家に上がると、タオルを持って戻ってきた。びしょ濡れの影片にそれを渡し、猫を受け取る。ナマエはもう一つのタオルで猫を拭いてやっていた。
「着替え貸すから、風呂入ってきたら」
「でも、悪いし」
「そのまんまにしちゃう方がなんか悪いよ。上がって上がって」
 影片は素直に頷き、ナマエに案内されながら浴室のある方へと足を向けた。ナマエが着替えもって来るね、と言い残し、脱衣所を出る。影片は濡れた制服を脱ぎながら首を傾げる。「えらいことになったなあ」そうぼやきながらも、彼は浴室へのドアを開けた。



 風呂から上がった影片は浴室を出て脱衣所に用意されていた服に着がえると、ナマエを探した。
 ナマエの家はどこも清潔に、静かに保たれている。影片が暗い廊下を歩いていると、前方のドアが開いていた。
 ここにいるだろうか、と影片がその部屋を覗き込む。
「あ……」
 その部屋に人影はなかった。電気はついていないように見えたが、青みがかった間接照明が設置されている。影片が目を奪われたのは、その部屋にあった物たちだ。
 部屋には、虫の標本、魚、何かの生き物の骨格標本、写真、──が、雑多に置かれていた。どれもこれも鈍い照明の光で艶めかしく輝いている。思わず影片が足を踏み入れると、いよいよそれらが大きく見えた。
 影片はナマエが青い蝶々を潰したという噂を思い出す。恐らく、彼が青い蝶々を殺したことには間違いがないのだろう──しかし、潰したということではないのだ。更に言えば、猫の首を絞めたということにも。
 部屋の左奥には机があり、その上には作りかけらしい蝶々の標本が置かれていた。丁寧に開かれた羽が、ピンで留められている。その横には細かいメモがあって、それは図鑑の上に置かれていた。

「なにしてんの?」
「おわッ!?」

 背後から無機質な声がかけられ、影片が大げさに驚く。振り向くと、ナマエがきょとんとした表情で立っていた。影片が慌てて弁明する。
「あー、あの、堪忍な! 別にこっそり探ろうなんてせえへんよ! ドア開いてたんで、気になって……」
「え? 別に気にしないよ。風呂場の方にいなかったから見に来ただけだし」
「そうなんか……悪かったなあ」
「ううん。俺もいる場所教えといたら良かったね」
 ナマエはひととおり部屋を見回すと、そっと目を細めた。「あんま良くないね。出よっか」影片は「ごめんなあ」と眉を下げる。ナマエは違う違う、と笑って、「見てて気持ちのいいものでもないから」と影片に対しての配慮だということを暗に言った。

「そんなことないで! おれ、こーいうの可愛くて好きやねん」
「かわいい?」
「うん、この骨のやつとかええなあ思って。赤いの、不思議やなあ。どういうお魚さんなんやろ」 
 影片の言葉にナマエがくすくすと笑う。
「それ、もともとは普通の魚なんだ。薬に浸けるとそういう色になるんだよ」
「へえ……そうなん?」
 うん、とナマエが頷いて、それから嬉しそうに笑った。少なくとも、影片にはそう見えた。彼はそれから、そうそう、と思い出したように口を開く。

「影片くん、家に電話した方がいいんじゃない?」
「あ! 忘れとったわ」
「うん、じゃあそろそろ戻ろっか」

 ナマエが部屋を出て行って、影片はその後に続く。ドアを閉めると、廊下にいたナマエがいつの間にかやってきた猫を撫でていた。
「影片くん」
「ん?」
「こいつ、助けてくれてありがとね」
 影片は目をぱちぱちと瞬かせて、それから恥ずかしそうに笑った。
「別にええよ。当たり前のことやもん。……ナマエくんも、お風呂おおきに」
 いいんだ、とナマエも笑う。改めてみると、影片が彼の人間味のある表情を見るのは初めてのことだった。


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