その日、影片はたまたま受けた校内アルバイトのお礼にと桃を四つもらった。賃金は別にしっかりともらっているのだからと遠慮はしたものの、押しの強い事務の女性に渡されるがまま受け取ってしまい、彼は流されやすい自分を少し恨めしく思った。
さて見たところ、やや熟れかかった甘そうな桃だ。あまり日持ちはしそうになく、影片はそれをしばし見つめて「どないしよ」と困ったように呟いた。自身の師である斎宮はそれを好んで食べることはしないだろう。絶対に嫌がりそうだ。だからといって、影片にはそれを分け与える友人はそう多くなく、一人で食べきるには四つは多い。
影片はしばらくうんうんと頭を唸らせていたが、やがて「あ」と声をあげた。制服のポケットから携帯を取りだし、電話をかける。
「……あ、ナマエちゃん? 今ちょっとええ? うん、うん、わかった。すぐ行くわあ」
短い通話を終えて携帯を切った影片はぱっと明るい顔になって、ほっとした雰囲気でもって桃の入った袋をがさりと揺らした。足取りは軽く彼が向かう先は、校内にある生物準備室──そこにいる、ナマエという男子生徒のもとへだ。
◆
「調理実習思い出すわあ」
ぐつぐつと桃が、砂糖、木イチゴと共に煮られている。それを覗きこみながら、影片は感慨深そうに口を開いた。彼の隣で、煮沸殺菌したばかりの瓶を乾かすナマエはそうだねえと頷く。
「ナマエちゃんがおって良かった! おれ料理は苦手やし、助かるわ」
「いいよ。でもさ、ほんとにタダでもらっちゃっていいの?」
「うん。気にしんでええよ。おれ一人じゃ食べきれんもん」
「斎宮さんは?」
「うーん……お師さんはなあ、嫌がるんや……たぶん。食べへん」
「そっか。みか、桃一個残ってるけど、ここで食べてく?」
「うん」
ナマエは目を細め、一つだけ残した桃を手にとった。ナイフを器用に使ってぐるりと切り込みを入れ、半分に分ける。片方の種がついている果肉を四つのくし切りにして、もう片方も同じように切り分けた。軽い手つきで、熟れた果肉から果汁が溢れ落ちることはない。
「器用やね」
「いつもは魚とか解剖してるからね。桃は楽だよ」
等分したそれらの背から皮を剥ぐと、ナマエは半分を皿にとって影片に渡した。台所代わりにしていた黒机の引き出しから爪楊枝を取り出して、それも渡す。
「あまい」
「やわい」
お互いに果肉を一口かじり、それぞれ感想をこぼしたナマエと影片は笑いあった。ちょうど滑らかな感触のそれは留まることなく喉を落ちる。とろりとした甘味が舌先を淑やかに撫で、ぴりりと痺れた。
「贅沢だなあ。テラスとかで食べるべきだったかな?」
「ええんちゃう? おれ、ここ好きやで。かわいい標本とかいっぱいあるもん」
「みかはね。この前きた乙狩は微妙なかんじだったよ」
「アドニスくん来たん? なんで?」
「羽風さんがいると思ったんだって」
へえ、と影片が相づちをうって、桃を咀嚼する。
彼らがいる生物準備室には、ホルマリンと、どこか死の臭いが強く充満していた。普段は用がなければ一日中厚手のカーテンが引かれ、どこか空虚な雰囲気を持った場所だ。影片の背後に並ぶいくつかの標本の生き物たちの目は、常にじっと何かを見ているようでもある。それが今では、黒机に置かれた携帯コンロに桃が入った鍋を煮詰めさせ、甘い湯気を立ち上らせていた。
ナマエは透き通って桃色になった鍋の中身をそれぞれ二つの瓶にあけ、蓋をして逆さに置いた。それから準備室の棚に置かれているラベルを手にとり、"Peach Melba" と丁寧な字で書き込んだ。 不思議そうに首を傾げる影片が、「なあに、それ」と尋ねる。
「桃使ったお菓子の名前」
一回こういうのやってみたかったんだよね、とナマエは楽しそうに言った。彼は空になった鍋に水を張って、作業は終わったとばかりに伸びをした。
「鍋、洗おうか」
「あとでやるから大丈夫。適当に冷めたら一個持って帰ってね」
「悪いなあ」
「そんなことないよ」
ナマエは準備室の窓を開けて熱気を外に促した。西にある陽光が射し込み、室内を三角に照らす。鴉の鳴く声が遠く聞こえれば、一層この生物準備室は生活と程遠いような感覚に陥ると三年性の誰かが言っていた。ナマエにそれを言ったのは、青い髪の生徒だったか、金髪の生徒だったかは定かではない。「ナマエちゃんはいつもここにおるけど、」不意に影片が口を開いた。
「寂しくないん?」どこか羨望と期待の混じる言葉。ナマエは首を横に振った。
「ここにいると楽しいんだ」
「どうして?」
「外のほうが楽しくないからかな……」影片は目を瞬かせた。「ナマエちゃん、変なこと言うんやね」
「いい意味じゃないヘン?」
「どうやろ。でもバカにしたんとちゃうで。ただ、ここでもあんまり笑ったりせえへんから」
ナマエは目を丸くし、「そういうこともあるか」と一人納得したように呟いた。
「ちょっとは寂しいよ」
「ん、ああ、やっぱり? おれも気持ちわかるで」
「みかも?」
「なんや、そう見えんの」
「アルバイトとかしてるし、社交的かと」
「それはなあ……必要だからしてるだけやで。ほんとは──、」
言いかけて、影片は口をつぐんだ。ナマエはそれをじっと見、首を横に振った。何度か彼は言い篭もり、せわしなく視線を彷徨わせた。そして、「そろそろ帰ろうか」と言った。急な提案に影片は笑った。
「ナマエちゃんは不器用さんやなあ」
「…………」困ったようにナマエは口をへの字に曲げる。影片は慌てて両手を振った。
「ああ、怒らんといて! ええの、別に」
今さら傷つかんもん。そう言った影片の表情は晴れやかで、ナマエは思わずその横顔に目を留めた。異なる虹彩の彼の目がいくぶんか拙く見えたのだ。それにナマエは見惚れ、どきどきと胸が鳴った。影片はそれに気づかず、少し温くなった瓶を大切そうに手に取った。人懐っこい笑みを浮かべ、ナマエに片手を振る。
「これ、ありがとう。バイバイ、また明日ぁ」
影片が出て行った生物準備室で、ナマエはじっと彼が出て行った扉を見つめ続けていた。砂糖の焦げる香り。桃の柔らかさ。ホルマリン漬けにされたトカゲの視線。いまここに満ちる、暖かさのすべてだった。
◆
ナマエが作ったジャムは、スプーン一杯ぶんをトーストに敷くとちょうどいい塩梅になった。そう考えているのは影片のみであり、対面して食事をとっている斎宮は静かにクロワッサンを囓っている。
「それは?」
クロワッサンの欠片を飲み込んだ斎宮がなんてことのない調子で問いかけたので、影片は一瞬気づかずトーストを頬張った。そのまま答え出しかねない様子の彼に斎宮は眉を寄せつつ片手で制す。「どちらかにしたまえ」頷いた影片に斎宮は溜息をつきながら、瓶のラベルを見ている。そしてつまらなさそうに口を開いた。
「お前にメルバの名を冠すとは皮肉なものだよ。それを贈った人間はよほど悪意に満ちているか、さて、気狂いのどちらかか」
「んぐ、お師さん、なんか知ってるん?」
「落ち着いて食べたまえ。……ピーチ・メルバは、メルバという名の歌姫に贈られた菓子の名だ」
最もそれはただの甘ったるいジャムだがね。すげなく吐き捨てた斎宮をよそに、影片はぽかんとしていた。ナマエが悪意に満ちているとはまずないとして、何を思ってこのラベルを貼ったのか──少し考え、影片は顔を赤くさせた。
「ありえへん」
「ほう?」
すこし驚いた様子の斎宮が影片に目をやった。彼は赤い顔のまま、ゆっくりと食していたトーストを口に押し込んでいた。斎宮は汚いな、と顔をひどくしかめる。「パンの屑でも零したら承知しないぞ」言いつつ、彼は自身の皿を引き離した。
それに対して影片はというと、それどころではなかった。ぷちぷちと感じるラズベリーの種を噛みつつも、早急にこの食事を終える必要があった。彼は、この甘ったるい優しい食べ物を作った生物準備室の友人に、問い詰めたいことが多くあったので。▲|BACK|▼