デリバリー


「やまないなあ」

 傍らでグウ、と魘されている男を横目に、ナマエは窓の外を見て溜め息をついた。携帯を開きSNSを確認する。一様に台風についてのぼやきが蔓延していた。
台風だろうが明日も仕事があるだとか、交通機関が止まったとかで画面越しに訴えられる悲痛さにナマエは思わず眉を寄せて携帯を置いた。──ナマエ自身にとっては明日は休日だったので、どこかちくりと刺すような罪悪感が気持ちに水を差したからだった。

「うう、」

 ナマエはびくりと肩を震わせた。振り返るとクッションを皺になるほど強く握りしめて魘されていた男の瞼がひらいている。ナマエの姿を視認するや、男は困惑したように顔をしかめた。
「ええと……」
「あ、えッ……ひふみ、じゃ……ない?」
「はい」
 男は血色の悪い顔をしきりに擦って起き上がる。彼はナマエをぱちぱちと見やり、おれは、と呟く。記憶を遡っているらしい。
若干の動揺が目に見えてナマエは口を挟まないようにしたが、男がなにも思い出せないとばかりに頭を抑えると、意を決して口を開いた。

「すみません」

まずは謝罪をした。男が顔を上げる。
「あなたがうちの近くのゴミ捨て場のところで踞っていて、」
「おれが」
「はい。それで、心配だったので声をかけたんですけど、すごく酔っぱらってて」
「…………」
「そしたら雨が振りだしたので流石に放っておけなくて、連れてきました」
「そう、ですか……」

 ナマエは腕をさすりながら男の様子を見る。男はうつむき、考え込んでいるようだった。途中でなにやら呟いている。「くそ、こんな日に飲み会なんてするから……」男はすこぶる調子が悪いといった様子で頭を抱えている。

「大丈夫ですか?」
「あ……! すみませんッ」

 男が頭を下げる。ナマエは驚いていいですよと顔を上げさせた。若干目が潤んでいるし、口は曲がっている。泣き上戸なのだろうか、とぼんやり思いながら立ち上がり、水を取りにいった。

「……どうぞ」
 男に未開封のミネラルウォーターを差し出す。男は逡巡する様子を見せたが、ややあって手を差し出した。受け取られた時に触れあった指先が仄かに湿っていた。
男がキャップを開け、その喉が上下したのを確認してナマエは窓の外を見た。雨はいっそう強く叩きつけ、電線が大きく揺れているのが見える。
「あの……」
 声をかけられる。「なんですか?」聞き返すと、男が申し訳なさそうな様子で眉を下げた。「今、何時くらいでしょう?」
「えっと……もうすぐ0時ですね」
男が肩を落とした。「終電が」と呟く。
「タクシー呼びますか」
ナマエが尋ねると、男はこれまた申し訳なさそうな様子ではい、と頷いた。
 まるで叱られた子供を相手にするようでナマエは途方に暮れた。過労、の言葉が頭を過る。実際どうかはわからないが、ナマエの目の前にいる男は相当に消耗しているのか着ているスーツまでくたくたに見えた。

「すみません、こんな台風の日にお邪魔して。初対面だし、深夜だし、酔っ払ってるし、……はあ……全部、俺のせい……」
「そんな」
「他人の時間を浪費させてしまった……」
「いえ、俺が、勝手にしたことなので」
「でも」
「全然気にしなくていいです! その……おつかれさまです。すごく」

 矢継ぎ早に会話を打ち切り、ナマエは電話をするからと席を立った。男は驚いた様子でナマエを見ていた。
 タクシーは台風にも関わらずきちんと営業している。ナマエが電話をかけると、すぐに来ると伝えられた。
 ナマエが部屋に戻ると男は窓の外を見ていた。すこし落ち着いたようで、ナマエを見るとゆっくりとした動作で頭を下げた。


「かんのんざか、どっぽ、さん….でいいですか?」
「はい。宜しければ今度お礼をしたいので、良ければ連絡先を教えていただければと」
 男はナマエと改めて向き合うと、懐から若干湿気った名刺を取り出した。
一連の動作から会話の手順まで熟練じみたものを感じ、緊張とともにナマエは思わず姿勢を正す。
手繰り寄せた携帯で独歩と連絡先を交換しながら、めずらしい名前だ、と名前は思った。
独歩は連絡先を受けとると、彼はそれを一瞥して再びナマエと視線を合わせた。

「ミョウジさん。では、後日改めてご連絡を──」
「す、すみません」
「はい?」
「俺、そういう、しっかりした話し方馴れてなくて……もっとくだけた感じがいいです」

 独歩が目を丸くし、それから分かりました、と告げる。ナマエがほっと息をつくと、独歩がそれを見て微笑み、それからはっとした様子で表情を引き締めた。

 タクシーは電話してからほんの二十分程度で到着した。ナマエはエントランスまで独歩を見送り、自動ドア越しに見えるタクシーランプを見つめた。

「本当ごめ……違うな、ありがとう。また二日後くらいに連絡するよ」
「わかりました。気をつけて、おやすみなさい」
「……おやすみなさい」

 独歩がタクシーに乗り込んだのを確認し、ナマエは踵を返した。雨音に混じるエンジン音は、すぐに街の方へと消えていった。



 台風が過ぎ去れば、途端に熱波がやってくる。ナマエは車から出た途端にじわりと体を蝕む暑さに溜め息をついた。
荷台から荷物を降ろし、台車に乗せてマンションのエントランスをくぐる。
 伝票に記入された部屋番号に従いインターフォンを押すと、すぐに通された。
 エレベーターに乗り込んでぼんやりと目的の階に到達するのを待つ。あの日から二日以上が経ったが、独歩からの連絡はなかった。
 世間は連休に突入しているがナマエは仕事がある。ポーチに押し込まれた不在票は既に何枚かが消費されていた。

「あついな……」

 マンションの廊下にガラガラとキャスターを引きずる音が響いた。蝉の鳴き声と相まって活力を削ぐのには十分だ。
目的の部屋の前で立ち止まり、ナマエは深呼吸してインターホンを押した。
 ドア越しに誰かがやり取りをしている声が聞こえ、ややあって扉が開かれる。

「あ」
「えっ」

 声が重なりあうのは同時だった。ナマエの目の前には、独歩──ただしスーツではなくスウェットだった──が立っており、彼は目を丸くしてナマエを見ていた。

「観音坂さん……?」
 ナマエは首を傾げて荷物を確認する。観音坂という名はない。伊弉冉一二三、読めた試しはないが、とにかく独歩のものではないようだ。
「ええと、間違えました……?」
「いや合ってるよ、大丈夫。それ、うちの同居してるやつの名前」
「ああ、そうなんですか」
 改めて名前を確認する。読めない。ナマエが困っていると、頭上で少し独歩が笑った。
「いざなみひふみって読むんだ、それ」
「あ、すみません」
 ナマエが気恥ずかしさに顔を赤くする。独歩は首を横に振り、「サインでいいか?」と尋ねた。ナマエは了承してペンを手渡す。
 独歩が丁寧な字で名前を書き込む間、ナマエはちらと彼の様子を伺った。あの日感じた暗い印象よりも明るい雰囲気で、ナマエはひそかに安堵した。

「連絡できてなくてごめん……その、どう送ればいいのか分からなかった」
「大丈夫ですよ。今日はお休みですか?」
「あ、うん。また明日から仕事だけど……」
 言いながら独歩の顔が曇ったのを見て、ナマエは慌てて「じゃあ、今日はたくさん休んでくださいね」と付け足した。独歩がああ、と頷く。

「ナマエくんは?」
「俺……は、今週いっぱいは仕事です」
「そっか……」
「来週の日曜は大丈夫ですよ」

 独歩がペンを返した。伝票をめくり、ナマエは荷物を手渡す。

「どうだろう、来週ってなると……」
「あの、お礼とか全然いいですよ。観音坂さんも忙しいと思いますし」
「……現金とかにしとく?」
「はい? な、なんでそうなるんですか」
「いや冗談だけど……ごめん……」

 独歩の様子にナマエは苦笑し、また連絡してください、と答えた。独歩はナマエをじっと見てそれから少しだけ満足そうにした。

「分かった。じゃあまた今度。暑いから無理しないようにね」
「はい。ありがとうございました」

 ナマエがキャスターを手押して来た道を戻る。背後で独歩と誰かの声がして、振り向くと金髪の青年が独歩と話しているようだった。
 あれが恐らく伊弉冉さんなのだろう、と考えていると、二人と目が合う。
独歩は片手を小さく振っていた。それを見た金髪の青年もつられるように手を大きく振った。全くの初対面だ。けれどもナマエにとって彼らはどこか親しみに溢れていた。軽く会釈し、ナマエは前を向き直す。

 外に出ると陽光は燦々と降り注いでいた。それでも僅かに、涼しい風が吹いていた。


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