碧瞳、森のごとし


 ヨコハマの海はたくさんの泡が流れている。橋の欄干から身を乗り出してぼんやりとそれを眺めていたナマエは、溜息をついて手の中の空き缶を握りつぶした。浮かんでいた結露が伝い、指の腱を伝って手首に落ちる。
「会いたくねー……」
 思わず、と言った様子でナマエはぼやいた。それを咎めるかのように潮風が軽く整えただけのナマエの髪をぼさぼさに崩していく。彼は鬱陶しそうに頭を振った。
 ここ一時間の間、ナマエはずっとこの橋の上で立ち往生している。視線はほぼ直下の水面に向かったままであり、そこに白い亀裂が浮かび上がろうとも彼は俯いたままだった。観光客向けの水上ボートが橋の下を通過していくのはこれで二度目だ。一時間前と同じガイドが船首に立っていた。ボートは泡だった軌跡を残し、沖へと進んで行く。ナマエはそれを見送ってから、ようやく姿勢を元に戻した。

 彼は橋向こうの高台へと顔を向け、眩そうに目を細める。大きく深呼吸をした。背中に回したボディバッグをぽん、と後ろ手に叩き「よし」と呟く。それでもどこか後ろ髪引かれる思いで、ナマエは橋を後にした。



「くそっ」

 ナマエは悪態をついた。というのも今現在彼の体は宙づりの状態で、ろくに身動きができなかったからだ。加えて場所が森の真っ直中ということもあり、遠くから聞こえる鳥の声が余計に緊張を煽った。

 事の始まりはナマエがかつての仕事場──今はなき海軍、ひいては元上司からの一報を受けたことから遡る。彼に任されたのは、かつての同僚が残していった私物の返還だった。当初ナマエはそんなに大切なものではないだろうから処分すればいいだろうとそれを渋ったが、どうやら返還というのは建前で、実際はその同僚の身元確認のためであると上司から伝えられた。
 数年前に武力による抗争は禁止されたのだからそんなことに今更なんの意味が、とナマエは思ったが、体に身についた縦社会の性根がそれを封じ込んだ。また単純に、かつての海軍で運命を共にした同僚がどんな生活を送っているのか、興味が湧いたこともあった。──同僚の現住所がヨコハマの森にあると知ったときは、くらりと目眩がして断ろうと思ったが。後悔先に立たず。既に渡されていた同僚の私物を黙って処分するわけにもいかなかった。

 永らく手入れをされていなかったらしいそこは薄暗く、密集した木々が進路を阻んでいた。
ポケットライトを片手に地図を確認したナマエは足下に気を配りながら慎重に森を進んで行く。「こんなとこに住むとか、仙人かアイツは」ふと、目に入った地面の色が僅かに周囲を違うことに気づいたのは、足が柔らかい地面を踏み抜いてからだった。

「おわぁ!?」

 ずるッ、と片足を掬われ手からライトが落ちた。頭上で大きくしなる枝が大量の葉とカミキリムシをナマエの体にぱらぱらと落とした。そして、冒頭に至る。
しばらく放心していたナマエは、ややあって我に返った。
腹筋の要領で体を折り曲げて片足を拘束している物体を確認する。それはワイヤーのようで、結び目には締め付けを防止するための金具がついている。となれば恐らく誰かが仕掛けた狩猟罠の類だろう。ナマエは嫌な予感がした。また、具体的に言えばそれは既視感のあるものだった。
 バッグを腹側に回して中を探る。ナイフなどは当然持ち合わせていないものの、携帯はあった。しかし点灯した画面の表示を見てナマエは呻いた。圏外だった。電池残量を見て、諦めて携帯をバッグにしまう。
ナマエの脳内で悪い予想がぐるぐると渦巻いた。もしこのままの体勢で放置されれば早々に意識を失うだろう。これを仕掛けた人間が戻ってこなければ、最悪──死、の文字が一瞬過ぎり、ナマエは頭を振った。
狩猟罠にかかって死ぬなんてあまりにも間抜けすぎる。元軍人として。というかこれは過失致死になるのだろうか。なるならば、ざまあみろと地獄からせせら笑ってやる。そう考えながらも、ナマエは難しい顔でぼやいた。

「毒島のばかやろう……」

 その時だった。茂みからがさり、と音を立てて、一人の男が顔を出した。ナマエはそれを見るや否や「あッ」と声を上げ、一気に体中の血液が沸騰するのを感じた。
「テメェ! ぜったいタダじゃおかねーからな!」
まるで負け犬のような台詞を吐きながら、ナマエは目の前で目を丸くしている男を鋭く睨み付けた。



「ほらよ。……忘れ物」

 ナマエは鼻を押さえながら男──理鶯に小包を手渡した。
あの後、理鶯が罠を解除するや否やナマエは彼に殴りかかり、理鶯は理鶯で条件反射か反撃に応じた。ひとしきり関節技から空き缶を投げつけるといった手段選ばずの殴り合いののち、日が暮れる頃に理鶯の「冷静になれ」という一言と共に繰り出された重いパンチを鼻っ面に受け、ナマエは止まった。気絶した、とも言う。

 ナマエが目覚めるとテントの中だった。貧血からか理鶯のパンチのせいかだるさのある体を起こして外に出ると、のんきにたき火をしていた理鶯が「よく来たな」と口にするので、ナマエは脇腹を殴ろうとした。もちろん、理鶯はそれをしっかりとガードしたのだが。

「……ふむ。缶詰?」
小包を開けた理鶯が真っ先に手に取ったのは、牛の絵が描かれたラベルが張られた缶詰だった。
「おー懐かしい。でもたぶん期限切れてるぞ、それ」
「いや五日前だ。まだ食べられるだろう」
「賞味?」
「賞味だな」
 お前も食うかと理鶯に問われ、ナマエは頷いた。べり、と蓋を開けた缶詰と箸を渡され、ナマエは半分ほど口に運ぶと理鶯に返した。
「あの罠ってお前が仕掛けたの」
もぐもぐと咀嚼をしながらナマエは尋ねた。理鶯は頷く。
「……まさかお前がかかるとは思わなかったが」
「俺だって」
ナマエは苦い顔をした。
「毒島、お前軍の頃から変わってないな。天然なのかうっかりなのかは知らんが死ぬところだった」
「ああ。あの方式には落ち度があった。それは小官からも謝罪しよう」
すまなかった。理鶯が頭を下げる。やりにくいな、とナマエは思った。なまじ悪意がないだけに、この男は面倒なのだ。ぱちぱちと火の粉を飛ばすたき火を見て、ナマエは辺りを見渡した。理鶯のテントは設置したばかりのようにも見えず、少なくとも一か月はここを拠点としていたのだろう。テントのアンカーに雑草が絡みついている。

「それでナマエ、なぜお前はここに来た。なにも忘れ物を渡しにきただけということはないだろう」
理鶯が探るような目を向けた。
「……ああ。軍がお前を気にしてるんだと」
「厳密には小官ではないな。……これが目的だろう」理鶯が懐から取り出したのは、無線機に似た機械──ヒプノシスマイクだ。ナマエは片眉を上げた。
「ああ。ヒプなんとかマイクのプロトタイプだっけ?」
「ヒプノシスマイクだ」
「そうそれ。この国は過去の教訓から何も学んじゃいないな」
「可能性の一つではあると思うが」
「俺にとっちゃただの旧型トランシーバーだ。あと、お前が持つと腑抜けにしか見えない」
「ほう。……まだ小官と遊び足りないようだな?」
「望むところだ。釣りの撒き餌にしてやる」
お互いに軽口を叩き合い、にやりと笑う。どちらからともなく拳を合わせた。理鶯は空になった缶を置き、じっと空を見上げた。ナマエも同じようにする。ヨコハマの空はもっと濁っている、とナマエは思っていた。けれども理鶯のいる場所は高所だからか、少しだけ澄んでいて冷たいと感じた。

「……別にお前のことなんてどうでもいいんだけどさ。軍人の顔に泥を塗ることだけはやめてくれよ」不意に、ナマエはそう零す。
「言われなくともそうするつもりだ。お前こそ、罠にかかるとは気が緩んでいるんじゃないか」
「ばっ、……いや、つーかあれはお前の過失だろ! マジで死ぬかと思ったんだからな!」
「罠に獲物がかかっているかと思ったら聞き慣れた声で驚いた」
「俺だって。……お前、ここ最近買い物とか行った?」
「いいや。自給自足しているから問題はない」
「ふうん」
ナマエは呆れたような顔で溜息をついた。
「頼むからちゃんと……これから会う人間にはこれは私個人の性癖ですと説明しろよな。軍人が皆こうだと思われたらたまらん」
「ここに立ち入る民間人などそういないが」きょとんとした表情の理鶯に、ナマエは食い下がるように睨み付ける。
「あるかもしれないだろ。肝試しに来る若いのとか、死体を埋めに来るヤーさんとか、念のためパトロールにくる人の善い警官とかさ」
「なるほど。覚えておく」
「本当に分かってるのか?」
「ああ」
 ナマエはそうか、と納得しているようなしていないような顔で頷いて立ち上がった。腰についた土埃を払う。横にいる理鶯がナマエを見上げた。

「帰るのか?」
「まさか。遭難する。寝床くれ」
「承知した。小官が不寝番をしておこう」
ナマエは理鶯を見つめた。
「そういうところは文句言わないよなあ」
「今回は小官に落ち度があったと認めている。それに……」
「それに?」
問いかけに、理鶯は少し考えこんでから首を横に振った。「いや、気にするな」どこか嬉しそうに笑う。ナマエはそう、と呟いてテントに入った。薄い布越しにこちらを背にして座った理鶯のシルエットが見えた。

「なあ、毒島」
少し大きめの声でナマエは理鶯に呼びかけた。
「なんだ」
同じように、大きめの声で理鶯が返事をする。
「お前さえ良ければ──」ナマエは言いかけて、言葉を留めた。ゆれる光にそって伸びる理鶯の影を見る。
「どうした?」とうとう理鶯がテントの入り口から顔を出した。ナマエは体を起こし、「なあ」と呼びかける。
「俺たちは仲間だろう」
ナマエは少し困ったように眉を下げて続けた。
「お前、何か抱え込んでないか。軍人の矜持としてではなく、一人の人間として……もし俺に助力できることがあれば力になる。いつでも、どこへでも。お前の味方になる」
理鶯は目を丸くしてナマエの言葉を聞いていた。しかしややあって、柔和に微笑んだ。覚悟を決めた顔ではない。ナマエは返事を聴く前から理鶯の答えが分かり、落胆が隠せなかった。
「……その申し出には感謝する。しかし小官は、やりたいことをしているだけだ」
「そうか……」
思った通りの返答だ。ナマエは苦笑した。


 翌日、ナマエは早々に起きて荷物をまとめた。テントを出ると、理鶯は焚き火の処理をしていた。黒い煤の横に、昨日の空になった缶詰が転がっている。ナマエはそれを拾いあげると、捨てておくと言ってバッグにしまった。
「それじゃ」
「ああ。……ナマエ」
「なんだよ」
「久しぶりに会えて良かった。だからもし、次に訪れることがあれば……」
理鶯は言いかけて、「いや、忘れてくれ」とどこか気恥ずかしそうに会話を打ち切ろうとした。もちろん、それを見逃すナマエではない。
「……言われなくてもしつこいぐらい来る。でも罠は仕掛けてくれるなよ。あと次の喧嘩は俺が勝つ」
「それは不可能だ」
「なんでだよ!」
地団駄を踏むナマエに理鶯は真顔で「当然だろう」と答えた。ナマエはがしがしと頭を掻いて、理鶯に背を向ける。

「……貴官の行く道に幸あれ」
 振り返らず、ナマエは背後にいる元同僚に向けて祈りのような言葉をくちにした。そして彼はそのまま早足で山を下りていくのだった。



Title by クラムボンをさがしに


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