朝方に廊下でごそごそと音がして、目が覚めた。
ナマエが玄関の方に顔を覗かせると、くたびれたスーツを着た背中が見える。
「独歩さん」声をかけると、その背中の主がゆっくりと振り向いた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。……起こしたか?」
ばつが悪そうな顔をする独歩に、ナマエはううん、と答えて首を傾げる。
「もう仕事?」
「ああ」独歩は困ったように頭を掻いた。「昨日の処理が残ってて」
「大変ですね」
「そうだな……あ、今日の昼代あるか?」
「大丈夫」
ナマエはぺたぺたと独歩へと近づいていき、頭一つぶんほど背丈の高い彼を見上げた。ひんやりとした冷気がドアの向こうから流れていて、ナマエは鼻をすすった。
「まだ寝てていいからな」
「いえ……」
「昨日はごめん。あんまり眠れなかっただろ」独歩が身を屈めて苦笑する。
片手で髪を軽く撫で付けられた。ナマエは寝癖でもついていただろうか、と考えて目を閉じた。
「もう行くから」
「あんまり無理しないでくださいね」
「ああ。今日はなるべく早く帰れるよう努力する」
「行ってらっしゃい……ふあ、」
眠気たっぷりに間延びしたナマエの返事に独歩は目尻を緩め、行ってきます、と家を出て行った。
◆
ナマエが独歩の家にやってきたのは今年の春だった。
年度終わりのころ、とつぜん遠方の親戚だと連絡を受けた独歩は目を白黒とさせた。
息子がそちらの学校に通うので預かってもらえないか、という話で新手の詐欺だろうかと独歩は考えた。だが、確かに数年前大学生だったころ、法事の集まりでそんな子供を見た気がする。
朧気な記憶ながら、頼まれているような言いくるめているような口調に断る暇もなく。独歩の部屋に奇妙な同居人がひとり、増えた。
「……お世話になります」
初めての対面で少年はナマエと名乗った。中学生にしては身長が大きい方かもしれないが、独歩よりも低い位置に頭がある。お辞儀をすると、柔らかそうな黒髪がさらさらと揺れた。
生活費などいくつか必要なことを話した母親は、あっという間に独歩の家を出ていった。残されたふたりは、しばらく玄関に立ち尽くしたままお互いの様子を伺っていた。
ナマエと暮らし始めて独歩が理解したのは、ナマエは独歩が帰ってくるまでは眠らないのだということだった。
どんなに残業をしても──時計の針が十二を過ぎても、独歩が静かに玄関の扉を開けると、廊下と居間を繋ぐ扉越しに人の影が見える。
独歩が居間に踏み込むとそれがこちらを振り返り、柔い雰囲気で独歩を見つめるのだ。
「おかえりなさい」
「……寝てていいって言ったのに」
「待ってたかったから。でも、もう寝ます」
独歩と入れ替わりにナマエは居間を出ていく。机の端に置かれた中学生用の問題集に付箋が増えている。
独歩が椅子に座って息をつくと、自己嫌悪のような、疎ましいような、安心したような思いがない交ぜになって腹を落ちていく。
ナマエと暮らし始めた頃の懸念は、最近はすっかりなりを潜めている。代わりにナマエの少し高い声色が独歩の耳に残っていた。
おかえりと誰かに言われるのは、随分と久しぶりのことだった。そして独歩は、少しずつそれに慣れつつあった。
その日、独歩は朝方近くに帰ってきた。
立て込んだ業務処理が終わらず終電を逃した。嵩んだタクシー代に目眩を覚えながらマンションの階段を上り、独歩は部屋の前に立った。流石にもう寝ているだろうと鍵を開けた独歩は、居間の光がくっきりと通る廊下に目を丸くする。
ナマエは机に突っ伏して眠っていた。
恐る恐る独歩が近づいてみると、広げられたままの問題集には眠気と格闘したのか蚯蚓がのたくっている。すっかり中身が冷めきったマグカップの横で、当人は心地よさそうに寝息を立てていた。
独歩は立ち尽くす。
起こすべきか。いやせっかく眠っているのにそれは可哀想だ。そもそも、俺が早く帰ってくればこんなことには──そこまで思考を巡らし、独歩は首を捻った。
でも、どうせなら寝室に寝かせるべきだ──。独歩はそう結論づけてナマエの肩に手を置いた。思ったよりもずっと暖かい。軽く揺らすとナマエはううん、と唸って瞼を持ち上げた。
彼は独歩の姿を認めるとなにかを思い出すように口を開きかける。独歩は思わず身構えた。
「おかえりなさい……」
「た、ただいま」そんなことか、と笑いそうになる。
「おそかったですね」
気遣うような声だった。独歩はごめん、と呟いた。
「ずっと待ってた?」
「ちょっとだけ……」
言いながらナマエは微笑んだ。独歩は言葉を詰まらせる。
「……向こうで寝ようか」
「わかりました」
ナマエはゆっくりと立ち上がる。それを見守っていた独歩は、気を抜いてやってきた疲労感にふらついた。
「大丈夫ですか」
ナマエが独歩の左手を握る。僅かな熱に独歩ははっとして頭を振った。ナマエはその手を繋いだまま、寝室へと歩いた。
寝室には既に布団が敷かれていた。ナマエがやってきてから用意されたそれは、寝室のスペースを大きく占めている。
独歩がナマエをそこに寝かそうと促すと、ナマエは独歩の手を握ったまま横になろうとした。慌てて隣にしゃがんだ独歩はほどけた手を握り直す。
「あ……」
ナマエは横になって独歩を見上げていた。いつもの彼ではない。恐らく意識がはっきりとしていなくて、無防備になっているのだ。
少しの沈黙。独歩はこわごわと問いかけた。
「寂しいの、か?」
ナマエはうん、と蚊の鳴くような声で答えた。独歩は目を瞬かせると、胸の内が端から蕩けるような感覚を覚えた。それはナマエが来てから度々起こるようになった発作のようなものだった。
最初、それは胃痛だと独歩は考えていた。けれどもそれは、不快感というにはあまりにも甘やかだ。
「かわいい、」漏れでた気持ちが、唇から滑り落ちる。
愛だった。
独歩は慌てて口を抑えナマエを見た。目を閉じて眠ってしまっている。そのことに独歩は安堵の溜め息をついた。
「ナマエ」
ふと、あまり呼ぶことのなかった彼の名を口に出す。鬱屈とした思いがひとつひとつほどけていくように思えた。
「……ああ、ほんとにかわいいな……」
手の甲で傷みの少ない前髪を払う。すり、と触れた頬は骨ばっておらず柔らかかった。子供がいるとすれば、きっとこんな気持ちになるのだろうか、と独歩は考えた。
皺一つない額を撫でるとナマエが身動ぎしたので、独歩はそっと手を離した。
そして、ナマエと向かい合うよう横になる。
布団ごと彼を抱き込み、独歩はそのぬくもりを腕の中に閉じ込めた。いっぱいの充足感で心が満ちて、独歩はふうと息をつく。
着けっぱなしの腕時計から聞こえる秒針の音、ナマエの静かな寝息が、独歩をまどろみの中に落としていった。▲|BACK|▼