犬を抱きしめると暖かい。昔はそうして、寂しさを紛らわしていたことをナマエは思い出した。午後になって降り出した雨は、窓の外の街をしどしどと濡らしていく。ラジオから流れるクラシックはノイズ混じりだ。ナマエはそれでも構わなかったが、腕の中にいた犬が鼻をすすって嫌がるので、うっかり音量を大きくしてしまいながらも、どうにか片手を飛ばして止めた。そして目を閉じる。
「ただいま」
彼はすぐに目を開けることとなった。その視界には色の区別はなく、どことなくモノクロに近い。ぼやけきった象の中でぽつんとひび割れのように立っているそれを見て、ナマエはぎこちなく笑った。
「おかえり。ずいぶん生臭いね」
「……ああ、お前は鼻が利くんだったか。いや、車に泥をかけられてな」
「また? 僕、考えてたんだけどさ、兄者はぼうっとすることが多いのかな」
「いや、気をつけてるつもりだ。車の方が俺に引き寄せられてる」
「よくわからないけど、轢かれると危ないじゃないか」
そう言ってナマエは困ったように笑った。男──ナマエの兄、クレアは反対に首を傾げる。足下にいた犬がクレアに向かって吠えた。
「こら、」「いいんだ」
ナマエの咎めるような声をクレアは軽くいなすと、彼に近づいていった。ソファに座るナマエはクレアを見上げたが、その前にクレアがナマエの足下に跪いたので、あまり意味をなさなかった。
「なにか欲しいものはあるか?」
「どうしてそんなことを突然……また出かけるの?」
「ああ! そう寂しそうな声を出すな! お前が望むなら今日はずっとここにいてやるさ」
「そういうわけじゃないけどさ。とにかく、兄者、シャワーでも浴びておいでよ。犬に噛まれるといけないから」
クレアとナマエに挟まれた犬が、ぐう、と唸るのを二人は聞いた。それはおおよそ、クレア自身から臭う酸化した、鉄っぽい臭いに対してのものだった。クレアは突然吹き出すと、わかったよ、と言って立ち上がる。彼はしきりに手首を擦っていた。それからふと気づいたように再びしゃがみこみ、ナマエの靴をぬぐい取るような仕草をしてみせた。
「どうしたの?」
ナマエの問いに、クレアは笑みを浮かべて応える。
「なに、泥が跳んでたからな」
◆
ナマエは生まれつきの色盲で、色の区別と、景色の動きを見ることが難しかった。サーカスでピアノ弾きをしていた彼のもとにクレアがやってきたのは、彼が十三歳になった頃の話だ。
クレアはサーカスの古い団員よりも一際高い身体能力を持っていたらしい。らしいというのは、ナマエはそれを知ることができないので、主に噂を聞いて彼のことを知ったからだ。
「お前は目が見えないのに楽譜を読めるのか?」
ナマエがはじめてクレアと顔を合わせたのは、彼の出演する演目でナマエがピアノを弾くことになったときのことだ。顔合わせにと団長に連れてこられ、開口一番にクレアはそう言った。
「できるよ」ナマエは彼のぶっきらぼうな物言いに驚きつつも、頷いた。自分が弾ける曲目をいくつか挙げると、クレアは愛の挨拶が好きだと言った。それを聞いて二人の間にいた団長はいたく顔をしかめ、「それじゃサーカスにしてはいかにも上品だ」と皮肉を飛ばした。クレアは笑い、ナマエにじゃあこれにしよう、といたずらっぽく提案した。後日談としては、その演目は万事上手くいったといえることだろう。
その一件があってからというもの、クレアはあまり外に出ることのなかったナマエにしばしば話しかけるようになった。クレアは、ナマエの知るところでは人当たりがよく、目の見えないナマエを気遣ってか彼の手をよく握った。
「俺の兄弟にならないか」
ナマエが十六歳の誕生日を迎えた日、クレアがそう言った。「もうすでに家族みたいなものだけど」「なんだって?」クレアはぶるぶるとその場で震えて、たまらないといったようにナマエを抱きしめた。
「そうか、そうか! 俺たちはとっくの昔に通じ合ってたんだな。……なら、話は早い! 今日から俺のことはお兄様とか、クレア兄とか、兄さんとか、とにかく兄らしさを前面に押し出して呼んでくれ!」
「ちょっ、兄弟になるとは、」
「ああ、それで何て呼ぶつもりなんだ? 俺はお兄様がいいな。お前はお人形のようだから」
こうなったクレアが人の言うことを聞かないというのをナマエはよく知っていた。溜息をつき、クレアの体をやんわりと引き離す。
「……クレアはクレアだよ。でも、そうだな……兄貴、は、ちょっとクレア、雰囲気で不機嫌になってるのはわかるよ。じゃあ、兄者は? 渋々って感じだね。じゃあ、それで」
ナマエはじっと目を凝らしてみて──ただ、やはりクレアの表情というのは分からなかった。そもそも、彼にとって人の形がどのようなものか、ぼやけるという感覚が何なのか、知ることはできなかったのだから。
ただ、クレアが笑うと自然と自分も表情が和らぐということは知っていた。だからその時、クレアは笑っていたのだろう。酷く不安定でぐらついた世界が、少しだけ形を取り戻すのはそういう時だ、とナマエは今でも考えている。
クレアがフライング・プッシーフット号の車掌の仕事に就いたころ、ナマエもまたニューヨークの酒場の片隅で、ピアノ弾きの仕事を始めた。元々聴覚が良いこともあり、大体の曲目は空で弾くことができた。流行り曲であったとしても少しの時間があればお手の物だ。ただ、クレアが車掌になったこともあり、二人の生活にはそれぞれ違った時が流れるようになった。つまるところ、ナマエの生活には不自由が付きまとうようになったのだ。
「手助けが必要だな」
ある朝、ナマエがうっかりでひっくり返したスープの皿を見たクレアが、ぽつりとそう言った。その日のうちに、彼は犬を一匹、ナマエのもとへと連れてきたのだった。
「確かに犬はリードしてくれるらしいけど」
ナマエは朝のことを思い出したのか、困惑したようにクレアを見つめた。クレアはナマエの両手を包み込んで、安心させるように言い聞かせた。
「そこはそれ。ま、俺のダチが食事に関してはなんとかしてくれるから、お前は何も気にするな」
「……うーん」
ナマエは長年の付き合いで、クレアの感情の機敏をよく感じ取れるようになっていた。その時、クレアが少し鋭い雰囲気を醸し出したのに気づいたのも、またそれに対して少しの反抗心が芽生えたのも、二人が親しい関係でなければあり得なかっただろう。
「僕は自立しなくていいのかな。クレアも、誰か好きな人ができたらどうする? いつまでも僕の面倒なんかを見てていいのか?」
「……自立? 好きな人? ナマエ、お前は俺がかわいい弟の面倒を見ながら恋人を養うことはできないとでも思ってるのか」
「いや、クレアにいつまでも面倒を見てもらうわけにはいかないよ」
「でも兄弟だ」
「? 兄弟だからだよ」
その時、ナマエはクレアがどんな表情をしていたか、知ることはできなかった。そもそもナマエが知っていたのは、知る限りでは──クレア・スタンフィールドは、少し大げさな、人の良い男に過ぎなかった。▲|BACK|▼