(きみの血肉を)


 クレア・スタンフィールドに懺悔するべきことはない。彼にとってこの世界は自分の夢のようなものだ。多少の融通は利くし、自分のする行為を悪だと客観的に見ることはあっても、自分自身を悪だと思うことはなかった。彼はほとんどのものよりも強く、それ以外のことを眺めていると、ふと自分がこの世界の中の神様なのではないかと、真剣に考えることがあった。
自分の夢の中であるならば、なんだって輝いて見える。衛生の行き届いていない裏路地も、煤だらけの煙突掃除もだ。その中で一際輝いて見えるのは、彼の弟──血は繋がっていない──ナマエの存在だった。

 ナマエは純粋な青年であった。確かに嗅覚も聴覚も触覚も人より優れていたが、それをああだこうだと経験則で判断するような思い出を、彼は持っていなかったからだ。なぜなら目で見た情報はなかったものだから。
少し前に連れて来た犬を触らせた時、ナマエが「やわらかい」と言って耳を撫でたことは、クレアの楽しい思い出のひとつだった。



 その日、仕事を終えたクレアは雨の降り始めた街を早足で歩いていた。シカゴとニューヨークを行き来する彼は、およそ二週間ぶりにナマエの住むアパートへと帰れることになったのだ。洗濯の処理も早々に引き上げ、仕事の報告もいつもより早く済ませた。
途中、道でぶつかった男が彼を見て怪訝そうな顔を向けたが、「ああ! すまないな!」とだけ言い残し、男の目を気にすることもなくクレアは走り抜けた。
 ようやく辿り着いたアパートの階段を駆け上り、ナマエの部屋の前で立ち止まったクレアは一度深呼吸する。濡れた髪をかき上げると、雨のせいか少しぱさついていた。
静かにドアを開け、廊下を抜ける。メインルームの窓際のあたりでソファに腰掛けていたナマエは、目を開けていたがクレアの姿を捉えることはなかった。代わりに彼の足下に座っている、抱かれた犬がブーイングでも飛ばすかのように目を伏せ、鼻を鳴らした。
ナマエは何か思うところがあったのか、小さな音が流れていたラジオを切る。
 クレアは気づかれたか、と首を傾げたが、ナマエはそのまま目を閉じた。

「ただいま」

 ナマエはすぐに目を開けた。濁った薄緑の虹彩は宙を向いていて、クレアの姿を捉えてはいない。
「おかえり。ずいぶん生臭いね」
クレアとどうにか目を合わせたかったのかナマエは視線を上向けたが、クレアはそれをわざと無視して彼の足下に跪いた。にやついた笑みは、抑えられていない。今し方、手首についたままの血・・・・・・・・・・に気づいたところだ。不自然な間にならないよう、クレアは努めて簡潔な言い訳をした。

「……ああ、お前は鼻が利くんだったか。いや、車に泥をかけられてな」


 クレアはシャワーを浴びながら、直前に交わしたナマエとの会話をいくつか反芻した。よくよく洗ってみれば、髪がぱさついていたのは凝固した血が絡みついていたからだった。排水口に吸い込まれていく赤い水を眺めながら、彼は自嘲したように笑う。
「泥か」
 ナマエはそう大量の血の臭いを嗅ぐ機会がなかったからか、多少の臭いに「生臭い」
と反応できても、「血の匂いだ」とまでは気づかない。今までもそうだった。
クレアが車掌の仕事をする傍ら、殺し屋という側面を持っていたとしても、ナマエは一生知る必要はないのだろう。クレアはただの兄だ。弟はいつまでも善良であれば良い──クレアの友人は、「それって矛盾してないか? お前に関わった時点で善良なんてそうそう通れる道じゃないぜ」と言ったが。人間は水ではないのだ。他の色が混じることはありえない、クレアはそう確信して、それを否定しておいた。



 ニューヨークの街は切り込むような風を吹かせ、辺りは凍りついたように冷えていた。ナマエは犬を連れ道の端を歩く。今日の仕事は夜からだ。暇をもて余して出掛けたものの、特に行くあてがあるわけではない。
「さむいね」
そう犬に話しかけると、下の方でくん、と鼻を擦り付けてくるのが分かった。湿ったそれは離れていってもひやりとした感覚を残す。
すると突然、ナマエの前を先導していた犬がぐいと右に寄った。ナマエはそれに続くことができず、バランスを崩す。どん、と何かにぶつかった。

「! すみません、」
「痛ぇな、ふらふら歩いてんじゃねえ!」

 襟首を掴まれ、壁に押し付けられた。小さく呻くと、犬が大きく吠える。ナマエは慌ててリードを手繰り寄せ、興奮した犬を背後に引き寄せた。
往来に人の気配はなく、男の声が大きく耳に響いた。何度か胸を強く叩かれ、「──お前みたいなやつ、二度と出歩くんじゃねえ!」最後にそう言い残すと、男はナマエを押し退けるように去っていこうとした。ついでにと、ポケットに入っていた財布を引き抜かれる。
 ナマエは驚いたと胸を撫で下ろし、財布に関しては仕方がないと諦めるように肩の力を抜いた。ところが。
「わざわざぶつかっておいてその言い種かよ」
聞き慣れた声が耳元をかすめ、同時に男が倒れる音がした。続けざまに二回、肉を叩くような音がして、地面にごとりと何かが転がった。ひゅ、と細い息の声が風に乗ったが、ナマエにはそれが自分のものなのかそれ以外なのかは分かりかねた。
あれはクレアだ。ナマエはそれを理解したが、彼の立てた音、あるいは立てられている音には聞き覚えはなく(彼が当てはめなかっただけだとも言える。)、じっと立ち止まって聞こえないふりをした。

「二度と手を出すな。俺の弟を傷つけるならお前をぶっ殺してやる」

 ──クレアにしてみれば囁くようなほんの小さな声だったのだろう。しかしナマエはそれが聞こえてしまい、眉を潜める。
「クレア?」
兄の名前を呼ぶと、すぐに「どうした?」と優しい声色で返事をされた。ナマエは頭を振って息をつく。「いいんだ、もう帰ろう」そう言うと、クレアはそれもそうだな、とナマエのもとへ寄っていった。風は冷たく、未だ犬は興奮しているのか低い唸り声を出している。ナマエが手を伸ばしてどうにかそれを諌めようとすると、その手は誰かによって引き留められる。
「無理に落ち着かせようとするな、噛まれるぞ」
「あ……うん……そう、そうだね」
「今は俺がいるんだ。俺がお前を導いてやるさ」
「…………」
ナマエはどう応えればいいのか分からなかった。曖昧に笑い、クレアの手を握り返す。
「ああ、懐かしいな」
彼の声は──欲しいものを取り戻した時のようだと言うべきか、ずいぶん嬉しそうに、ナマエには聞こえたのだった。
 クレアはナマエの歩いてきた道を引き返し、なにか他愛ない話をしながらゆっくりと前に進んだ。ナマエがふと息を吸い込むと、先日の雨の日のような、泥の臭いがした。


 その夜、仕事場のバーでピアノの蓋を開いたナマエのもとに、一人の男が近寄ってきた。
「よう、ナマエ。今日は何弾くんだ?」
「ああこんばんは、フィーロ。実はまだ考えてないんだ……なにかリクエストはあります?」
「や、俺は思いつかねえな。そういうの、詳しくないしさ」
「そっか。じゃあ、たまにはフィーリングで弾いてみるのもいいかな」
 髪をかき上げたナマエが、鍵盤に手を置く。「あ、ちょっと待った」フィーロと呼ばれた青年が、それを制する。
「ウェイター、お手拭き一個くれ!」
 フィーロはウェイターにお礼を言いながらナマエの手を取り、指先を拭った。
「汚れてた?」
「ん、まあ少し。俺が気になっただけだ」
手を離され、改めて鍵盤に指を向けたナマエにフィーロは苦笑した。「やんちゃなやつを兄貴に持つと苦労するな」
賛同するようにナマエの足元に伏せていた犬が吠えた。

「まさか! 苦労をかけてるのは僕だ。クレアはいい人だよ」
「悪いやつではないけどさ」

 ナマエは犬を一撫でして、鍵盤を叩く。愛の挨拶──騒がしいバーでは、少し不釣り合いでもあり、フィーロはふっと笑った。


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