──観音坂さんが勃ってる。
という、絶対他の人たちに知られてはならない事実を確認した俺は「二次会行くー?」と尋ねてきた同僚に対して「やめとく」と返した。
観音坂さんに関しても同じことを同僚は聞いていたが、俺の背中の酔っ払いが変な返事をする前に「俺観音坂さんと話したいことあるから!」と同僚を遮った。
「なんだよ、ゴマすりか?」
「違うって」
しっし、と同僚を追い払う。ぶつくさ文句を言われたがすぐに引き下がった。
──観音坂さん!俺、あなたの社会的地位を守りましたよ! そう叫びそうになったがこらえ、会社の人たちを見送った。
数分前に転びそうになった観音坂さんの近くにいた自分を褒めてあげたい。動揺を誰にも悟らせなかったこと、彼が寝かけの体勢に入っていたので肩を貸したこともだ。
タクシーを呼び、なるべく路地の端に寄って迎えを待つ。
さて、なぜ俺が勃起までしている上司をこんなにも庇うのかというと、この観音坂さんは俺が営業部に配属された直後にたいへんお世話になった人だからだ。
外回りのペアとしてはもちろん、俺のしでかしてしまったミスで代わりに頭を下げてもらったこともある。
仕事のノウハウを教えてくれたのもこの人だしで、上司のなかではいちばんに尊敬している。
観音坂さんが課長に理不尽な理由で説教されているのを見ると自分事のように腹が立つし、よくオフィスに最後まで残っているのを見ると心配になる。
しかし、今の観音坂さんと俺の間には、上司と部下の関係という隔たりがある。
友人のようにあまり踏み込むことはできない故に、彼の「大丈夫だから」とぎこちなく笑う顔をもどかしく思うのだ。
だから尽くせることがあればしておきたい。流石に勃起は許容範囲外ではあるんだけど。
「ふぅうう」
「ぎゃっ」
などと回想に耽っていると、ずりずりと動いた観音坂さんの鼻がシャツの襟と首筋の間に潜り込んできた。あわてて腕を前に出して彼が倒れないようにする。ほんのり当たっている固い感触がずり、と腰をなぞってきてびびった。
「うーん……」
言ったほうがいいのかな。けど観音坂さんは酔っぱらってるしまともに取り合わない気がする。考えていると、観音坂さんが「ミョウジくん」と呼んだ。
「え? はい、なんですか」
「まえもらった、ちゅうもんしょのさ」
注文書? そんなものはたくさん作成しているのでどれかは分からないが、はい、と相槌をうつ。
「かたばんのとこ……へんなふうになってた。たぶんよそくへんかんみす」
「すみません」
「いや、うん、おもいだしただけだから」
観音坂さんは肩でも叩いているつもりなのか俺の脇腹辺りを軽く叩いた。要領を得ない会話だった。
「かぎ、わすれたんだった」
やってきたタクシーに乗り込んでから観音坂さんが不意にそんなことを言った。
「家の鍵ですか」
「ああ」
「でも確か、同居人の方がいるんですよね?」
「ああ。でも、ひふみはたぶんもうしごとに……」
「電話とかできません?」
「出ないとおもう」
「…………」
「お兄さんたち、どうするの?」
運転手が呆れたように尋ねてくる。仕方がないので俺のアパートまで送迎を頼んだ。観音坂さんは鍵を忘れた経緯についてバタフライエフェクト的な説明と共に自省していた。
アパートに着くと俺は観音坂さんをどうにか車から引きずり下ろし、自分の部屋の前まで歩いていった。
鍵を開けて廊下の電気をつける。
観音坂さんは半分寝に入っており、容赦なく体重をかけられるのが辛かった。ひとまずリビングの床に彼を寝かせ、俺はスーツを着替えにいくことにした。
「ミョウジくうん」
戻ってくると、観音坂さんはサメクッションを俺だと思ってべたべた絡んでいた。ちょうど尾っぽの部分を抱き締めて逆さまになっているので、顔面が潰れているのがなんとも言えない。
「俺はこっちですよ」
「あ? ……ほんとだ。なんでだ?」
ひらひらと目の前で手を振ると観音坂さんはクッションを離した。「水、飲んでくださいね」途中台所で注いだグラスを差し出す。
「ありがとう」言いながら、観音坂さんは一気に中身を煽った。酒と勘違いしてないか? そう考えていると空になったグラスを突き返された。
それから観音坂さんは這うようにして俺の膝に乗ってくる。仰向けの姿勢なので思わずスラックスの股の辺りを見てしまった。勃起は収まっていたのでほっとした。
「観音坂さん、布団敷きますから降りてください」
「ええ……」
「俺の膝なんか乗ってたら寝違えますよ」
彼の頭を持ち上げてどかそうとする。すると逆に腕を捕まれた。「いやだ!」観音坂さんが悲痛な声を上げた。
「俺を、おれを……上司としてソンケーしてくれるのはおまえだけなんだよぉ」
「な、なに言ってるんですか」
「えっ……なんだ、ちがったのか……?」
「あっいえ、してますよ!」
途端に観音坂さんはぱっと笑顔になって「だよなあ」と嬉しそうに言った。う、と言葉に詰まってしまう。そんなにあからさまだっただろうか。
「…………」
ふと、思い出す。機嫌がよさそうな観音坂さんを見下ろす。まさか今になるとは思わなかったけれど、ずっと確認したかったことがあったのだ。
意を決して、少し緊張しながら口を開く。
「俺、いまでも観音坂さんの負担になってますか?」
観音坂さんはぱちぱちと瞬きをして、「ん……」と目を閉じた。少しの沈黙。ややあって観音坂さんは答えた。
「そんなことない、けど」
「ほんとですかっ」思わず声が上ずる。
「俺の負担は……ほぼハゲ課長のせいだし……いやおれのせい?」
正直、観音坂さんは酔っぱらっているし気をつかってくれているのかもしれない。後半の文句についても聞かなかったことにする。
けれど、望んでいた答えをもらって滅茶苦茶に嬉しかった。こんなことを聞いたのは忘れてくれと願いつつも口角が緩む。
ちょっとした感動に浸っていると、観音坂さんが「そうだなあ」と呟いた。
「ナマエはさ、PCに向かってるときだけ眼鏡なのがかわいいよな……」
今度は俺が瞬きする番だった。
「はい?」
「あと契約の、おねがいします! ってゆってるときのかおがちょっとえろいかんじですきだ」
なんだか雲行きが怪しくなってくる。
「…………」
「会社だと一番おれのこと頼るもんな。はは、堪らん……かんのんざかさん、って……独歩でいいのに……独歩さん、うん、それもう実質おれのよめなのでは……」
饒舌な観音坂さんは一人勝手にうんうんと頷いたのち、今気づきましたと言わんばかりに目を開けた。
どう思う? といった感じの表情をしている。いや別に、と答えるわけにはいかない。どうしろというのだ。
答えに窮していると、観音坂さんはうっとりとした様子で両手を伸ばし、俺の顔を引き寄せた。
「けっこんしてくれ」
◆
朝である。まごうことなき朝。酔っ払いの介抱で一夜を明かした俺は悶々とした気分でベランダから朝日を眺めていた。
ちら、と窓越しに部屋の中を見る。相当お気に召したのか観音坂さんはサメクッションを抱き締めて眠っていた。
「どーすんだ、あれ……」
いずれ彼は目覚めるだろうが、その時どんな顔をして会えばいいというのだ。観音坂さんは絡み上戸らしいとはいえ昨夜の彼の言葉について考えてしまう。
同時に尊敬している上司の少しだめなところを見て、安心している自分もいる。
そんな自覚もあってなかなか複雑な気分だ。思わず溜め息をつく。
「……仕方ない」
忘れてくれていることを願おう。
朝五時五十八分──観音坂さんを起こすため、俺は覚悟を決めて部屋に戻ったのだった。▲|BACK|▼