人の救い方を、僕は知らない。そう言えば波羅夷くんはどう思うだろう。
懺悔室の椅子の上で聖書を開いた。昔から暗記ごとは苦手で、覚えられていない内容がいくつかある。祖父は不思議そうにいつも言ったものだ。繰り返し伝えられて形のよくなったものを、どうして覚えられないのだと。
この部屋に来る人は多くない。そもそも、この懺悔室を置いている教会自体が元々人入りの少ない施設で、来るのは本当に信仰心の強い人か、未だ母国に帰れていない人びとか──あとは、興味本意で来る人間くらいのものだ。
「よう、邪魔するぜ」
右からこん、と壁を叩く音がした。
「……こんにちは。何か話していかれますか?」
「応。そのために来たんだろうが」
がちん、と古椅子に強く座る音が響いた。毎回、壊れやしないかと心配になる。そういった場合隣に入っていって助けても問題ないだろうか。
隣に入ったのは波羅夷くんだ。彼は頻繁に来る方で、声ですぐに分かる。懺悔室なのに匿名性がないというのは問題に思うかもしれないが、彼はいつも自分の名を前置いてから話始めるので仕方がない。彼曰く、自分を偽ることは教えに反するからだという。
波羅夷くんは豪快な性格で、話す内容は暴力五割、友人三割、その他が二割といったところだ。
初回に話したのは「待ち合わせの時間は自分で決めていいものか」という話だったので、僕は相手が切り出さないならそれでいいんじゃないか、と答えた。波羅夷くんは満足そうに帰っていったが、次にやって来ると相手の友人が酷く怒ったという。
「あいつは道理が分かってねぇ」
そう文句を言いながらも波羅夷くんは笑いを溢していて、仲違いをした様子でもなかったので安心した。
「良かった」
僕はその時、初めて彼の言葉に相づちを交わした。もっとも一方的な反応に過ぎなかったが、波羅夷くんは「そうかよ」とまた笑った。
それから僕は、彼の話に反応を返すようになった。波羅夷くんも特に文句はなかったようで、変わらず話を続けている。
たまに、壁一枚隔てていると緊張が少なくていいと言う人がいる。自分の一挙一動が誰かに見られていないか、罪深くはないかと不安になって、対面だと話せなくなるそうだ。
「君はさ、怖くないの」
波羅夷くんは明け透けだ。言葉もそうだが動きもそう。まるで壁なんかないみたいに話す。実際、彼にとっては関係のない話なのかもしれない。
「何がだ?」
「自分の人となりを知られるのが」
「……」
波羅夷くんは珍しく黙りこんだ。
「お前は?」
「……僕?」
「お前はどうなんだよ」
波羅夷くんが壁を叩く。掌を使って叩く音だ。
「僕かあ」
「なあ、今度は直接会って話すか?」
思わぬ提案に僕は思わず右を見た。壁一枚を隔てているのでこの動揺は悟られないだろうが、それにしても心臓に悪かった。
「よっぽど分かんだろ、その方がよ」
──正直、答えに窮した。
懺悔室で話された内容は、部屋から一歩出れば口外しないのがルールだ。相手が波羅夷くんだと分かっていたとしても、ここで会う約束を取り付けることに意味はない。
ただ困ったのは、それだけでない。
──僕は波羅夷くんと友達になりたかった。
考えた末、僕はこん、と右側の壁に向けてノックした。
「……今週末に、礼拝があって」
「あァ」
「僕は入り口から入って左側の椅子に座るよ」
「……ン」
右側で椅子を降りる音がして、波羅夷くんは出ていった。──いってしまった。思わずため息が出る。心臓がばくばくとうるさい、タブーに対しても、彼と会えるかもしれないことに対しても。
「……」
椅子の背もたれに寄りかかると、軋む音が部屋いっぱいに鳴った。苦い呻きが重たい。
そもそも彼は僕の見た目を知っているのだろうか。僕は、彼の見た目を知っているけど。
◆
週末になると礼拝はいつも通り始まった。前奏と招詞、讃美歌を唄い、聖書の朗読。
“わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した。”──ローマ信徒への手紙の一節だ。
その途中、背後で扉の開く音がした。僕は振り向かず、聖書に落としていた視線を祭壇に向けた。前列にいる女性が振り向いて入り口を見ている。
教会に似合わない白檀の匂いが香る。多分、波羅夷くんだ。本当に来たんだな、と彼らしくて笑ってしまった。
波羅夷くんは静かに僕の隣に座り、肩が付くほど距離を詰めた。横目で彼を見ると目が合う。波羅夷くんは僅かに口角を上げて、前を見るよう促した。
礼拝が終わり、周囲の人が退出する中で、僕と波羅夷くんは並んで座っていた。前の椅子の背もたれに肘をついた彼は、前屈みで祭壇の向こうを見ている。
「お前はあそこに立たねえの」
「僕?」
「牧師かと思ってたぜ」
「ああ。違うよ」
「懺悔室にいんのに?」
「あそこ……正式には懺悔室じゃないよ」
波羅夷くんがちらと僕を見る。
「僕は隣にいるだけなんだ。罪の告白は主に向けて行われる」
「ハァ」
「僕自身は誰も赦してない。……そもそもそんな資格ないしね」
ぐ、と波羅夷くんの体が戻ってきて、背もたれに凭れかかった。「道理で、」天井を仰いだ波羅夷くんがぽつりと呟く。
「拙僧の話を黙って聞いてるワケだ」
「うん」
「さっさとあっこから引っ張りだせば良かったか」
「……本気?」
「嘘はつかねーよ」
波羅夷くんは笑っていた。それからよし、と彼は両膝を叩いた。
「飯食いにいかんか?」
「僕のこと知ってたの」
注文を終えてから、僕はそう切り出した。
波羅夷くんがメニューを仕舞いながら「まあな」と答える。
「お前こそ、よく分かったな」
「毎回名前言ってるでしょ」
「そうだっけか? まァいいわ。なあ、お前の名前なんだよ」
「ミョウジナマエ」
「ナマエな」
「……言ってなかった?」
「知らねー」
ありゃ、と声が出る。波羅夷くんは「抜けてンのな、お前」と言った。
「波羅夷くんはさ、」
「ン」
「なんでうちに来たの」
「来ちゃいかんのか」
「全然。でもお坊さんなんでしょ」
かねてから気になっていたのはそれだ。波羅夷と言えばこの近辺では有名なお寺の住職で、波羅夷くんはそこの息子である。うちの教会に人が寄り付かないのもこの近辺では寺社仏閣の類の方が多いからだ。
波羅夷くんはじっと僕を見た。
「怒った?」
「怒っとらん。そのうちな。今は気分じゃねえからダメだ」
なんとも彼らしい返答だと思った。追求するつもりはなかったのでふうんと相づちを返す。
「ナマエはなんでここに来た?」波羅夷くんが問い返す。
「波羅夷くんと友達になりたかったから」
「……フーン」
注文した料理がしばらくしてやって来て、僕は側のフォークを引き寄せた。
僕が両手を組み合わせるのと同時に、波羅夷くんが「いただきます」と手を合わせて食事を始める。
「いただきます」
少し考え、僕も彼に倣ってそうした。
パンに乗った大きめのソフトクリームを切り崩しにかかろうとしていた波羅夷くんが「いいんか」とフォークで僕の手元を指す。
「いいのいいの」
僕は片手を振って、彼より少し小さめのそれにフォークを刺した。
◆
「今日、波羅夷さんとこの子が来とったな」
波羅夷くんと別れて帰宅すると、リビングにいた父さんがそんなことを言った。
「うん」
「友達か?」
「うん」
そうか、と父さんが後ろ頭を掻く。
「なんで?」
着ていたパーカーを脱ぎながら尋ねると、父さんは見ていたテレビ番組から目を離してこちらを見た。
「因果だなあと思って」
「……なんかあったっけ? 波羅夷さんと」
「いや、俺はない。ナマエ覚えとらんのか?」
「何が」
「昔波羅夷さんとこの子が誘拐されかけただろ」
「うん?」
早々に切り上げようとしていた会話が思わぬ方向に向かう。父さんを見ると思ったより真剣な様子でいた。
「知らんよ。そんなことあったの」
「あった。しかも誘拐したのがうちによく来てた信者さんでな」
「えぇ……」
「二日くらい見つからんかったから結構な騒ぎになった。でもその次の日に犯人が自首した。波羅夷さんとこの子は、その人のアパートにいたんだ。で、なんで自首したのかって聞かれると、うちの懺悔室で返すよう言われたんだと」
──主よ、告白します。私は子供を誘拐してしまいました。そんな気はなかったんです。でも、してしまいました。赦されるでしょうか?
──だめ。
──赦され、ませんか。
──うん、だめ。かえして。
「な」
「な?」
「どう考えてもお前だろ。よくあそこに入って悪戯ばっかしとったし」
「えー」
父さんは苦笑を浮かべた。それで済んだからいいものを、と言いたげな目をしていた。覚えがないことだったので僕は目を逸らした。
「絶対嘘でしょ」
「調べてみるといい。ちゃんと残ってるから」
◆
学校の帰りに、波羅夷くんと待ち合わせをした。僕たちは一度会って以来、懺悔室を介さずに何回か遊ぶようになっていた。
大きなマネキンの服が着せ変えられているのを目前に見ながら、僕は携帯で古いネット記事を漁っていた。父さんに言われたことを気にしていたというよりは、ただの暇潰し程度の気持ちで。案の定行方不明のニュースなんてものは世の中に溢れているのでそう簡単には見つからない。
ふと思い立って、検索に波羅夷、と単語を付け加えた。
<行方不明のこども、見つかる>
「あ」
特徴的な名前だ。間違いなくそうだろう。ただ記事は概要が少なく、どんな経緯で犯人が捕まったのかまでは記述がなかった。
けれど父さんが言っていたのは、事実だった。
「ナマエ」
「ん!」
腕を叩かれる。僕は慌てて携帯の電源を落とした。顔を上げるといたのはやはり波羅夷くんで、不思議そうな表情で僕を見ていた。
「どーかしたんか」
「なんでも」
波羅夷くんはそれ以上気を留めず、代わりにマネキンに目をやった。「寒ぃがや」そう、感想を漏らす。
上半身の布が剥かれたマネキンはどことなく奇妙なふうだった。伸びるクレーンに乗る作業員は片手に大きな布を手にしていた。僕は少しだけそれを見上げて、波羅夷くんにもう行こうと言った。
上着が欲しいと言ったのは僕だ。だったら買いにいくか、と答えたのは波羅夷くん。
彼に連れてこられたのは駅からバスで二つほど進んだ停留所近くのショッピングモールだ。あまり明るくない照明の店に入っていった波羅夷くんは、上着が掛かるラックの前で立ち止まって早速吟味している。彼は僕にブルゾンを手渡した。
「これ」
「ん」
羽織ったのは、波羅夷くんと色違いのブルゾンだった。
「似合わん」
姿見を見て僕も第一にそう思った。見る前から薄々思ってはいた──波羅夷くんが着ているのとは違い、鏡に映る自分はむつかしい顔をしている。下に見える学校の制服がどうにも野暮ったい。
「……髪がいかんのか?」
隣に立つ波羅夷くんが背伸びして僕の前髪をぐしゃりと上げる。「あてて」その拍子に数本髪を巻き込んだ。波羅夷くんは僕を改めて姿見の前に立たせて、片眉を上げた。僕の周りを二、三度、彼は確かめるように行き来した。
「──、ふん」
満足いったらしい。僕は正直あまり変わった気がしなかった。
「これでいいか」
「あのさ波羅夷くん」
「なんだよ」
「なんでお揃いなの」
「ハァ?」
波羅夷くんはまた別の色のブルゾンを取り出している。「それが一番カッコいいで……」くるりと裏返された背面のプリントは仏だった。
「こっちがいいよ」
まんざらでもない様子の波羅夷くんの袖を引く。自分が着ているブルゾンを指差すと、波羅夷くんは「そうか?」と目を丸くして、嬉しそうに笑った。僕が羽織っていたブルゾンを脱ぐと波羅夷くんはそれを自然な動作で受けとる。
「会計してくる」
「えっ」
止める間もなく、波羅夷くんはさっさとレジに行ってしまった。
帰りの道すがら、僕は初めて波羅夷くんと喧嘩らしきものをした。九千円前後のお金を返すか返さないかと言う話で、波羅夷くんはそれに関して全く僕に耳を貸さなかった。僕が一方的にお金を渡そうとすると、波羅夷くんはひょいひょいとそれをかわして欠伸までした。仕方がないので、僕はひとまず今回は諦めることにした。
「ありがとう」
「おー」
波羅夷くんめ。僕は新しい上着の入った紙袋を抱き直した。
僕の家の最寄りの停留所に着くと、なぜか波羅夷くんも一緒になって降りた。
「中、寄っていいか」
波羅夷くんはそんなことを言った。
「…………いいよ」
僕は釈然としない気持ちだったが、それはそれとして波羅夷くんにだめだと言うのも八つ当たりのような気がしたので、それを了承した。
教会は電気も点いておらず真っ暗だった。5時には閉まってしまうので当然だ。管理室に入って照明を点けると、窓の外は大分暗くなっているのが分かった。
波羅夷くんは仄かな明かりが照らす祭壇の前にじっと立っていた。僕はその隣へ歩いていって、しばらく二人で黙っていた。教会はつめたい空気が漂っている。
「蝋燭、電気なんだな」
「うん。燃えると危ないから。波羅夷くんとこはまだ火?」
「そうだな。けど、ウチはカバー掛けてる」
「今度、僕も波羅夷くんちに行っていい?」
「応」
波羅夷くんのうちは大きなお寺だ。宗派もきちんと決まっている。ウチはカトリックとプロテスタントが混じり合って、やっぱり見劣りみたいなものを感じてしまう。だから僕みたいな、ろくに聖書も覚えていないようなのが懺悔室の片方を陣取っている。
「波羅夷くんは、なんでうちに来たの」
「……」
「前も聞いたけど教えてくれなかったから、聞きたい」
波羅夷くんはポケットに手を突っ込んでステンドグラスを見上げていた。
「……拙僧が選んだからに決まってンだろ」
ややあって、そう答えが返ってきた。それで波羅夷くんは、僕を見た。
「お前、やっぱ抜けてるわ」
子供みたいだ。言外に波羅夷くんは、愛の滲んだ呆れを含ませたように思えた。
◆
名前も知らない子だった。ただその日、たまたま僕がいつも遊んでいた公園にいて、一緒に遊んだだけだ。僕が蟻の巣を黙って見ていた隣にやって来て、彼は隣にしゃがんだ。
「なにみてんだ」
「あり」
「いっぱいいるな」
「うん」
蟻の列は茂みの向こうに続いていて、僕は子供特有の無意識さ──で、そこに分けいって行った。後ろを、その子はついてきた。
秋終わりの地面は乾いていて、点線のように続く蟻たちはあっという間に行き止まりまで行き着いたようだった。
「見て!」
僕は夢中でしゃがみ込んだ。巣穴に吸い込まれていく蟻たちは、大きな、恐らく別種の蟻を運んでいたのだ。その別種の蟻はまだ生きているのか、裏返しになった体でもがいていた。
僕がそれを大喜びで見ていると、やってきたその子は目を瞬かせた。ちょうど、蟻がその大きな獲物を取り落としたところだった。ぴくぴくと痙攣する大蟻を僕は蟻の列に戻してやろうか迷った。
けれど、それよりも先にその子は、空になった菓子の包装を取り出した。彼はそれをひっくり返し、中のくずをぱらぱらと蟻の列に落とした。
蟻たちは少し距離のある獲物よりも目の前に振って落とされたくずに夢中になってしまったようだった。そのうちに獲物はよろよろと少しずつ、蟻たちの列からずっと遠くへ離れていった。
「ねえ」
「うん」
「トンネルつくろ」
「いいよ」
僕たちは気が済むまで砂場で遊んで、夕方ごろ、近くの高校から学生が出てくるまで一緒にいた。
「ねえ、君たち」
家に帰ろうとした時のことだった。
砂場の山を崩して均していた僕たちは、女のひとに声をかけられた。その人はきょろきょろとせわしなく周囲に目を配っていて、僕はどうしたんだろう、と思っていた。
「私も遊びたいんだ」
女の人は言った。
「砂場で?」
「ううん」
「どこ?」
「……私の家」
遊ばない? と女のひとは少し困った顔をしていた。僕は行きたいと思った。
「行く」
けれど一緒に手を繋いでいたその子は、僕よりも先に女の人に近づいていった。離された手から砂が落ちた。女の人はほっとした顔になり、良かった、とちいさく呟いた。
その子は僕に振り向いて、「ばいばい」と言った。
それで僕は、連れていってはもらえないんだと分かった。女の人は僕のことはもういいようで、その子を引き摺るように公園の出口まで歩いていった。
僕はそれに追い付こうと走って、そして──、
「ばいばい!」
その子はとても嬉しそうに、手を振り返してくれた。▲|BACK|▼