視線のゆく先は残光


 もう遅いなんだから、早く寝ろよな。
いつも俺はそう思っているけれど、天国はそんなことは聞きやしない。今日も天国は十二時を回ってから帰宅した。冬になってから天国はライダースジャケットではなく仕立てのいい高級そうなコートを着るようになった。けれど扱いは雑で、今は椅子の背におざなりに掛けられている。
天国はキッチンでコーヒーを淹れてからこちらにやってきて、ノートパソコンを開いた。椅子に座り、頬杖をついて起動を待っている天国の横に立つ。
「いいなあ。これ、高いんだよな。俺も欲しかったな」
そう一人ごちる。天国のノートパソコンは普通のパスワードのほかに指紋認証がついているようで、セキュリティはばっちりだ。カメラ部分にはくたびれたビニールテープが貼ってある。けれど肝心のパスワードは“××××”で、多分、これは天国の誕生日なんじゃないかなって、俺は思っている。
壁紙が初期状態のままのデスクトップはフォルダが雑多に並んでいて、ゴミ箱はぱんぱんのようだし通知は何十にも溜まっているのが気になった。天国は気にすることもなく“依頼案件(6)”と名前をつけられたフォルダをクリックして、手際よく中にある動画ファイルを開いた。片手間に、仕事用の鞄の中からファイルを取り出している。
せめて電気でも点ければいいのに。天国の彫りの深い顔に光が反射して劇画マンガみたいだ。「笑ったらかっこいいんだろうなあ」「はあ……」天国が眉間を揉むので、俺は黙り込んだ。
別に天国は好きでこんな遅くにパソコンを開いているわけではなく、仕事のために配信の、アーカイブを観ているのだ。これがなんと合計七十五もあって、ひとつあたり大体一時間、内容はゲームとか雑談とか……あとはたまに、日常の話。話すのを忘れて無言のことだって多い。なのに天国は真面目くさって全部見ようとしているらしい。これは四十三回目の配信。仕事とはいえ大変だよな? 俺は心配になってしまう。せっかく天国は法律を覚えたのに(言い忘れたが天国は弁護士だ。)、こんなばかみたいな配信で全部パーになってしまうんじゃないかって。

 天国と関わって良かったと思うのは、大人だって捨てたもんじゃないな、っていうこと。天国はとてもよく俺の話を聞いてくれていて、まあ、生活は俺よりもずっといいけれど、嫌味くさくなくて、軽蔑がなくて良かった。
「飽きんのが早ぇなぁ」
 うるさいぞ! 俺はソファに寝っ転がりながら答えた。新しいゲームの話をしたらこれだ。中二なんてそんなもんだよ。トレンドは毎日変わる。飽きたら次に手を出して、それも飽きたらまた次に手を出して。人でもゲームでも服でもそうだけど、中々ツラいとこだ。とはいえ波に乗り切れなければ置いていかれてしまうので、少なくとも俺はそれが嫌で、続けることができなかった。
「俺は前のゲームが好みだった」
「……そうかなあ。今どき、一人でやるゲームなんてつまんないよ」
「ダチっつうのはよ、遠慮せんでもいいもんだろ」
「…………」
 天国が好きだと言ったのは、少し前に流行った脱出ゲームのことだ。このご時世珍しくオンラインの共同プレイはなく、ワールドは自然生成、だから攻略情報も意味はない。自分で考えて、糸口を見つけなければならないゲームだった。俺の周囲はそういうのよりも皆で遊べるFPSのほうが人気で、誰も内容を知らなかったから、やめてしまった。
相変わらず配信を見ている天国の隣に立つ。瞼を重たげに目を伏せている天国は、今にも眠ってしまいそうだ。ここ最近隈も酷いし、大丈夫かな。
「もー二時だよ……いい加減寝ろっての」
「……」
「お前、弁護士なんだろ。居眠り運転で死んだら洒落になんないよ」
 天国をこんな時間まで起こす原因であるノートパソコンの画面を睨む。長すぎだっての。どうせ誰も見てないだろうに、いつまで続けるんだか──。アーカイブに言っても意味はないだろうが俺は呆れていた。しばらく経ってから、配信は終了した。天国は動画を閉じ、完全にパソコンをシャットダウンしたのを確認してから椅子を立った。部屋の電気が落とされる。俺がぼうっと突っ立っていると、天国は出ていって、すぐに隣の部屋からぼすんと音が聞こえた。天国が気絶した音だなと、俺は苦笑した。



 天国は、時々魘されていることがある。しきりに苦しそうに頭を動かして、低く呻く。
俺はいつでも天国の部屋にいるわけではないが、ふと思い立って朝方、こっそりと様子を見に来ている。俺には何もできないので、ただ酷い顔をしている天国を覗きこんで、起きろ、起きろと念じる。もちろんそんなことで、起きるはずもない。──はず、だったんだけど。

「は……」

 その日の天国はがばりと起き上がって部屋をせわしなく見回した。「おお」思いが通じた? つい感嘆の声を上げてしまう。天国は汗でびっしょりとした額を拭って、それから落ち着いたのか片手で顔を覆った。血管のいっぱい浮かんだ天国の手を眺めていると、ズ、と鼻を啜る音。
「……泣いてんの?」
天国はすごく静かに泣いた。この部屋に自分がひとりだと思っているから、涙を無理やり止めようともしなかった。こいつ、泣くんだな。と月並みな感想が浮かぶ。天国を泣かすほどの夢って、どんなものだろう。お化け? スプラッタ? あ、もしかしてドラマチック方面だったのかな。それにしても、泣くなんてよっぽどだ。
俺は天国の隣に膝を抱えて座った。天国のセットしていない前髪は少し湿っていた。
「大丈夫だよ」
天国はそのあと、一時間ぐらい、ずっとそうしていた。


『…………』
『……みんな見てんの?』
『…………あ』
『べつに、いいけどさ。そんなの気にしないし』
『俺は、やりたいことをやってるだけだから』
『……学校行け?』
『…………』
『……学校よりやりたいことがあんの』


 ──配信のアーカイブがついに五十台に乗ったころ、天国が初めて、配信を見ている途中で寝落ちした。がっつり俯いて首でも痛めそうな感じだ。ずる、とノートパソコンのタッチパネルから天国の指が滑っていく。
よし、じゃあ代わりに俺が見てやろうなんて面白半分で見始めたところ、いますごく後悔している。
「……よく全部平気で見られるなぁ……」
俺では止めようがないのでじたばたと動き回りながらノートパソコンの周りをぐるぐると行き来する。結果として、俺はとても恥ずかしかった。顔から火が出そうだ。なによりタイミングが悪かった……今日に限っていっぱい喋っている回なのだ。いつもならほぼ無言なので、「暇なんだな」とシミジミもしていられるがそうはいかない。どこか遠くにいく、と有りもしない計画を立てる声を聞く。遠くか。どこだろう。
「お前はどこにも行けないよ」
そこ以外に、どこにもお前の居場所はないんだから。人のやること為すことに文句を付けたくはないけれど、お前なんか、人間じゃないしさ。だからちゃんと、普通になろうとしろよ。フツーが一番いいんだ。イキったってこんな配信は誰も聞いちゃいない。一人から三人の視聴者数を行き来して、たった今、視聴者数はゼロになった。でも、構わず喋り続けている。見えているのに、見えないふりをしている。
 ぐぅ、とイビキをかいていた天国が首をがくんと落として、意識を覚醒させた。「やべ、」天国はそう呟いて頭を振る。配信がどこまで進んでいるかを確認して、天国はシークバーを後退させた。げ、またアレを聞き直すのか。俺は退散しようかな、と天国の傍を離れて、ベランダに続く窓近くに座り込んだ。ちらと天国を伺うと、眠気を耐えているからか変に真剣な顔をしていた。
ノートパソコンの排熱音がカリカリと鳴っている。天国の部屋は静かだ。誰とも暮らしていないし、今のとこ彼女とか友達とかを連れ込んでる様子もない。カーペットのないフローリングは冷たそうだ。机の下に見える天国の靴下を見る。どこでも買える、黒くて個性の無い量産品。でも、汚れてないから長履きはしないんだろうな。

『遠くに行きたい』
数分前にも聞いたフレーズだ。でも、一体どこに?
「……もっと、早く言え」

 天国は溜め息混じりに言った。「近場なら、連れていってやるのに」なんじゃそら。
「忙しいんだろ」言いながら、俺は笑ってしまう。
ふと、天国が顔を上げる。──視線がかち合った。俺は固まってしまった。天国はぱたりとノートパソコンを閉じて、ゆっくりと立ち上がった。そして、こちらに歩いてくる。
──嘘だろ? 俺には無いはずの血の気が引いた。天国が一歩ずつこちらに近づいてくるのが、やけにゆっくりに感じた。全身の毛穴が開きそうなくらいに緊張していた。そして、ようやく天国は立ち止まると、それから、こちらに手を伸ばした。
「あ、天国さ──」
「……鍵、開いてたか?」
天国の前髪がさらりと揺れる。俺ははっとして振り向いた。靡くカーテンが、夜風を部屋に運んでいる。あまりにも音がなくて気づかなかった。俺の身体をすり抜けた天国の手が、開け放された窓を閉めた。
「寒ぃ」
天国はそう、呟いて、踵を返す。
閉じられたノートパソコンの傍は通り過ぎて、寝室に行ったようだ。いつの間に配信が終わったんだろう。そんなことを余所事のように考えながら、俺は天国が閉めた窓をずっと睨んでいて、それから、「ちくしょう」と情けない声を出して座り込んだ。

「勘違いか……」
「めちゃくちゃ、緊張したのに」
「……」
「…………いやだなあ……」



 季節は春になっているらしい。天国がコートをライダースーツに変え、マフラーをグルグルに巻いてさみいさみいと言いながら帰宅するようなことがなくなったからだ。
相変わらず配信はきちんと見ている。とうとう六十台に乗り、俺は「早く寝ろ」に「ここまでよくやったよ、もうやめていいよ」を付け加えるようになった。天国に聞こえているはずもないが、言い続ければなにかしら勘みたいなものが働くんじゃないかと思って。今のところ、そんな兆候はないけど。
朗報と言えば、配信の時間が短くなっていることだ! これはいい。一時間が平均だったのが、二十分とか三十分だとかになり始めた。天国もこれでよく眠れるはずだ──、そう思っていたのに。なぜだか天国は二、三本をまとめて見るようになった。実質一時間、いや、場合によっては一時間半、軽い映画並みだ。俺は頭を抱えた。夜更かしなんてするもんじゃない。伝わるはずもないので、天国はファイル片手に今日も配信を見ている。
「寝なよお……」
 最近の配信は無言が多い。かりかりと書いている音がする。視聴者数は相変わらず低空飛行で、今日は四人だ。二桁にいったのってすごく前だったかな? というくらい遠い記憶。たまにグシャグシャと何かを丸めているような音がする。コメントの通知音に、かちかちとマウスをクリックしているのが聞こえた。
『うん?』
戸惑うような声。視聴者数が、急に七人になった。少しして増えて、九人。それから、十三人。
コメントの通知音が鳴る。すぐにまた次の通知。連投で送られているようだ。数十秒音が止まって、
『あ、』
配信が途切れる。天国が顔を上げ、それから「ん?」と怪訝そうに言った。シークバーは右端に達している。少し戻してみても、同じようなタイミングで配信は途切れた。理由は簡単だ。無理やり終了させた。天国は何度か同じようにシークバーを動かして配信が途切れたのを確認すると、難しい顔をした。
「──、──」
天国はぽつりとアーカイブの日付を呟き、メモに取った。七十三回目の配信のことだった。


『俺、なんかした?』
『ごめん』
『そんなつもりじゃなかった』
『……っ、はあ、』
『なんだよ』
『なんなんだよ』
『そんなに、言うなら』
『死んでやる』
『……』
『……冗談じゃ、ないから』


 そんなに大したことじゃない。休日、珍しく俺を外に連れ出した父親が、車の中でそう言ったことがある。人生は長いんだから、そんなことでくよくよ悩んでいても仕方ない、たった一瞬のことだと。俺はそのもっともな言い分がなぜかその時はすごく嫌で、父親に言い返した。結果、口論になった。多分そのとき俺の気分は人生のどん底で、無性にいらいらとして布団に潜り込んで眠った。
深夜に目が覚めて、ふといつものように配信をしようと思った。数日前にコメント欄が荒らされたので少し考えはしたが、あれは急なことだったからで、今日は無視できる、多少気分も晴れるだろうと思って。最初の十分はよかった。けど、それから少しして、また視聴者数が急に増えた。それも、十ぐらいならよかった。大体誰なのかアタリをつければ、そのくらいだと考えていたからだ。でも、違った。その日は視聴者数がなぜか十を超え、二十を超えて、三十に達する頃、俺は完全に混乱した。
誰が誰だか分からない。繰り返し俺の本名と、住所がコメントに流れてくる。誰? 問いかけても、答えがなかった。恐くなった。前のように配信を閉じようと思った。けど、流れてきたコメントの一つ──たった二文字に、俺は固まった。頭がぐるぐるとしてひどく気分が悪い。髪を掴まれるような不快さがこころを刺して、なにか、俺と世界をつなぐものが、離れていくような感覚があった。


(75)

 天国はその日珍しく、朝に配信を見ていた。今日の天気は快晴だ。射す陽光の光がいかにも春って感じで、雀が飛んでいくのが見えた。天国はそんなことはどうでもいいって感じで、淹れたコーヒーは珍しく冷めていた。

 さて。思えば、自分の人生は悪いことばかりだった。
けど、少なくともマンションの八階に住んでいたのは良いことだった。屋上に上れなくとも高さがあって、多分落ちればただでは済まないだろうって感じがある。今日の配信はいつもと違って、映しているのがゲームなんかじゃない。マンションの廊下を映していた。それから画面がぐるりと回って、顔を映す。険しい顔だった。(いや、単に眩しいだけか?)カメラが下に大きくぶれて、次に歩く足下を映した。廊下は暗く、隅の排水口には泥が溜まっている。一瞬だけ映像が暗転すると、すぐに廊下から見下ろした駐車場の風景が映る。通路の縁に乗った、古いスニーカーも。見映えはもう気にしてなかったんだろう、ずっと画面は激しくぶれていた。三十秒ほどの静止、たぶん、上がる息を整えていた気がする。
視点が上がる。遠くに見えるビル群のそのまた向こうに、朝焼けが見えた。
『あー──ッ、』
ぼう、と強く風の射す音がした。同時に天国がびくりと手首を動かす。撮された景色が激しく揺れる。鈍い衝撃音。それから、ずっと暗転していた。残り時間はあと四分もある。けれど声はなくて、原付のエンジン音が通り過ぎてゆくのが聞き取れた。それから通知音。視聴者数がどんどんと減って、増えて、大きく行き来する。百を越すと同時に、配信が途切れた。

これで、終わりだ。この配信はこれで終わりになった。
チャットのログに短い間隔で書き込まれた言葉が妙に頭に残っている。クラスの誰がばらしたんだろう。勝手に見つかっただけかな。結局聞けずじまいだった。でもそんなもんだよ。だから、普通にしてろって、言ったのに。

「××××」
「────」
それは、俺の名前だ。

……。

……。


──……ああ、くそ。死ね。みんな嫌いだ。学校も、家族も、友達も、××も大嫌いだ。誰もわかってくれない。むかつく。死ね。頼むから消えてくれよ。俺は、ほんとはそんな勇気なかった。風が強かっただけなんだ。結局あいつらがどうなったかなんて分からずじまいだし、すごく痛かったし、次があるなら二度としない。……分からせてやりたいなんて、考えてみればバカっぽかったよな。
「名前、知ってたんだ」
天国は答えなかった。答えられるわけがなかった。
だって、あの配信をしていたのは俺なんだ。だから俺はもうここにはいなくて、ずっと、ひとりになってしまった。
「……ハンドルネームで呼ばなくてよかった」
俺、すごく恥ずかしいよ。遺すんじゃなかった。一体誰が見つけたんだか。だって、誰もちゃんと聞いてくれるって思わなかったんだ。(嘘だ。)でも、気づいてほしかったから、あんなにたくさん、誰も見ていないのに、馬鹿にされるだけなのに、残してしまった。(それしかなかったんだ。)ほんとうに恥ずかしい。惨めだ。(生きていれば、)天国が嗤わないのが、馬鹿にしないのが、たまらなく、つらくて。(嬉しかった。)

……。

天国……違う。天国さんは、黙ったままいつものようにノートパソコンを閉じた。今日は天国さんはコーヒーを飲み終えたマグカップを片手にキッチンへ向かう。水音が聞こえた。しばらくして、部屋の照明も落とされた。今日は仕事に行くらしい。
「……今日は早く寝てね」
 そういえばコメントでもそんなこと言われたな。俺はなんて返したっけ。とにかく良い返事はしなかったはず。その時は悪いコメントだと思っていたから。
今なら分かるよ。多分、誰かが心配してくれてたんだって。
──もう遅いかな?



Title by 天文学


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