汝、隣人を愛せよ。という言葉がある。これは聖書の言葉であるが、パニック映画でもお馴染みのフレーズだ。隣人を愛するが故にある人はセックスをし、三軒隣の異教徒を焼き殺し、苦痛を知らせまいと息子を殺す。ダンスを踊る羽目にもなる。素晴らしい精神に違いない。
しかしシェイクスピアの作品に例を見るように、これらの人間の特徴として共通するのは、隣人愛を説く人間は大抵、ろくな目に遭わないということだ。
「珍しい……でござるな」
「何が?」
授業も終わり、せっせと荷物を片付けるナマエに話しかけた人間──仙石忍は、慎重さを持ってナマエを見上げた。
「ナマエくんはいつも午後になるとドロンと消えてしまうので。拙者的には寂しい心持ちになるというか……今日は隣にいてビックリしたのでござる」
「ああ」
「お説教とかではないでござるよ」
「分かってるよ。しかしなぜ寂しい?」
「え? それは、友達だから……」
ナマエは英語のテキストを鞄に突っ込みながら片眉を上げた。
「友達はそういうものか」
「拙者の知る限りでは?」
「今までいたことがなかったから分からなかった」
「うっ!」
なぜかナマエの返答に二席前の葵ゆうたが呻く。
「ナマエくん! 俺も友達だからね!」そして彼はナマエに向けてそう叫んだ。
「ありがとう?」
「ゆうたくんは優しいでござるなあ」
優しさ、とナマエは一つ呟きリュックを背負った。彼はそのまま帰宅しようとしたが、彼の親切な隣人は「ナマエくん」と呼び止めた。
「なあに」
「よかったらうちの軽音部見ていかない?」
ナマエは峻巡して、いいよ、と答えた。人間界では友達を持つことは一つの価値だ。大切にしなければならない。
一方の仙石はなにかを思い出したのか困ったような顔になって、ゆうたはそれに苦笑した。
「じゃ、じゃあ拙者はこれにて帰らせてもらうので……」
「忍くんうちの先輩苦手だもんね……」
「むむッ、悪いお方ではないと思うのでござるが」仙石は眉を申し訳なさそうに下げると両手をせわしなく組み合わせた。
教科書を適当に突っ込んで、ぱたぱたと教室を出ていった仙石を見送り、ナマエとゆうたは顔を見合わせる。
「行こうか」
ゆうたはそう行って自身の鞄を掴む。二人は教室を後にした。
◆
「…………」
頭のてっぺんから爪先までをじろじろと検分されるのをナマエは甘んじて受けていた。傍らにはナマエを部室まで連れてきたゆうたがなんとも言えない様子でそれを見つめている。
ゆうたがナマエを軽音部の部室に連れてきた、それがこの洗礼の始まりだった。
カーテンの引かれた暗い部室で熱心にギターのチューニングを行っていた青年──大神晃牙が、ナマエを訝し気に見つめ、言った。
「臭い」
その言葉にゆうたの顔は引きつり、反対にナマエはあからさまに気分を害した表情を見せた。
「なあんか、臭うんだよなァ、テメー……」
すん、と鼻を鳴らした大神は犬歯を見せて威嚇するように言った。彼は人間には違いなかったが、時々こういった勘のいい、非常に悪に目敏い人間は現れる。一般にはそれを霊感持ちだとか野生児だとか言ったりするが、悪魔にとっては障害物に他ならない。
「気のせいじゃあないですか」ナマエは非常に澄ました顔で突っ立っていた。
「気のせいなわけねーだろ! 俺様の嗅覚を舐めてんじゃねーぞ、一年坊。……ちょっと一回シメとくか」
「喧嘩はまずいですよ〜」
傍観していたゆうたが二人の間に割って入った。大神は不機嫌そうに挙げかけた手を引っ込め、「どいてろ」と彼に向けて言った。ゆうたはぐっと表情を固くしたが、「だめです。ナマエくんは俺の友達なので」と返した。二人はしばしの間睨みあった。
「……そういうことじゃねえんだよ」
大神は目の前の悪魔を追い払うことを諦めたようで、吐き捨てるように言った。
「もういい、萎えちまった。俺様は帰るからな。おい、てめーもあんまりここには長居すんじゃねーぞ」
「わかりました」
大神は舌打ちして、荷物を持って部室を出て行った。ゆうたは気まずそうにナマエを見た。
「いや、ごめんねー? 大神先輩、普段はなんだかんだでとっても良いひとなんだけど……」
「そう思うよ」
「怒ってる?」
「いいや、別に」
事実、大神の態度は正しかった。ナマエは悪魔なのであり、誰かに福音をもたらす存在ではない。「虫の居所が悪かっただけかも」ゆうたはナマエを慰めるようにそう言って、部室をきょろきょろと見回した。よくよく見ると、部室の奥には棺桶が置かれていた。
「朔間先輩は多分寝てるかな。ひなたくんは帰っちゃったみたいだし」
「朔間先輩って、髪の短い……黒髪の、赤い目の人?」
「あ、それは多分弟の朔間先輩のほうかな。うちにいるのはお兄さんの方だよ」
「兄弟なんだ」
「そう。見てるだけで面白い人だよ! 会えれば良かったんだけどなー」
ナマエは先日の出来事を思い出して苦虫を噛み潰したような顔になった。兄弟なのか、であればこの学院には吸血鬼が二人いる──面倒なことだ、とナマエは内心で溜息をついた。
「ナマエくんは、どこの部活に入るの?」
ゆうたがそう尋ねる。
「まだ決めてない」
「そっか」
「どうしてそんなことを聞く?」
「うん? 決まってないなら軽音部に入ったらいいんじゃないかなーと思って。うち、ギターとかベースはいるけどドラムはいなかったんだよね、だから」
ゆうたは楽しそうにそう話したが、途中で表情を曇らせて口をつぐんだ。
「でも、さっきみたいなこともあったし、ごめんね。今度は朔間先輩が起きてるときに連れてくるよ」
「それは、」ナマエは言いかけて慌てて口を閉じた。ゆうたが不思議そうにナマエを見た。
「それは?」
まだ見ぬ未知の吸血鬼を想像し、ナマエはあまり気が乗らない気分でいた。もちろん表にはおくびにも出さないが、内心では実際にその“朔間先輩”と対面した際の対処方法について算段していた。
「あー、楽しみだなと思って。その朔間先輩に会うのが」
ややあって、ナマエは誤魔化すようにそう答えた。
「よかった! じゃあ、また誘うよ!」
親切な隣人はそう言ってにっこりと笑い、ナマエに帰ろうかと促した。▲|BACK|▼