mania


「彼女さんかなあ」
 自分の背中側から聞こえた女子社員の声に、食事を終えて立ち上がりかけていた腰を下ろした。
「男のひとの趣味って感じじゃないよね」
「うん。だとしたら露骨っていうか、なんかあざとい」
「若いよねー」
いやいや、同年代だろ。おそろいで二十代の後半になっておいて若いも何もあるか。普段なら気にしない、なんてことない他人の会話に耳を傾けたのには理由がある。
「ミョウジくんて、ちょっと変」
ミョウジナマエくん。俺の三つ下の、片想いの相手だ。

 どこで買ってるんだろう。あの会話を聞いてからミョウジくんのネクタイが妙に気になって、つい目で追ってしまう。ネイビーの生地に浮かび上がる金糸の刺繍は兎の輪郭を描いていて、よくよく見ればキャラクター物であることが分かる。
「観音坂さん」
「……うん? 何?」
「コーヒー飲みます?」
ミョウジくんは片手にコーヒーポットを持って、マグカップを二つ用意してくれていた。
うん、と返事をする。なぜこんなことになっているのかというと、腹の虫の居所が悪そうな課長がちょうどオフィスにやって来たからだ。俺がまた八つ当たりされるかとハラハラしていたらミョウジくんがここに手招きをした。
そう広くない給湯室は、二人入るとかなり距離が近くなる。半年前に改装でスペースが広くなると聞いたが、現在までそんな様子は見られない。ミョウジくんはコーヒーに口をつけて、ちらとオフィスの外を伺った。

「あ」
ミョウジくんが呟く。まさか課長に気づかれたのだろうか。けれど、こちらに顔を戻したミョウジくんは手でOKサインを作った。
「行きましたよ。なにか取りに来ただけみたい」
どうぞ、とミョウジくんは俺のぶんのコーヒーを差し出して笑った。ほっとして溜め息をつくと、ミョウジくんはよかったです、と言った。
「ありがとう」
「このくらい、全然! 午後も頑張りましょうね」
ミョウジくんはコーヒーを片手に颯爽と自分のデスクへ戻っていった。彼のマグカップの内側にはちいさくキャラクターのプリントがしてあるのを、俺は知っている。でもそれが気にならないくらいミョウジくんは良い。
──なにがあざといだ。めちゃくちゃ、いい。



 エレベーターに乗り込み、目的階のボタンを押す。俺以外に乗っている人もいない──試供品と書かれたパッケージを鞄から取り出す。今日の営業でもらったものだ。中には絆創膏のセットが入っている。それも可愛らしいキャラクター物の。
「引かれるかな……引かれるよな……」
俺は使わないが、もしかしたらミョウジくんは好きかもしれない。だから渡そうか迷っていた。オフィスには行くし、そのついでにと。
しかしどう渡せばいいのか分からん。頭を抱える。ミョウジくんのデスクは分かる。でもその場にいなかったらどうしよう。探しにいくのは駄目だよな。ならどういうタイミングで渡すべきだ。仕事中に渡すのは公私混同だろうか、などとぐるぐる思考を巡らしている。ていうかミョウジくんは本当にキャラクターものが好きなんだろうか──噂通り彼女の趣味とかだったら心が折れる。
エレベーターは俺の押した目的階ではなく、途中の階で止まった。
開く扉をなんとなしに見ていると、その先にミョウジくんがいて死ぬほどびびった。ミョウジくんは手にファイルを持って視線をそこに落としていたが、乗り込もうとこちらに顔を上げ、目が合う。ミョウジくんは顔を綻ばせてファイルを下ろした。
「お疲れ様です」
「おつかれさま。えっと、何階?」
「14……あ、もう押してありますね。同じです」
ミョウジくんは俺のとなりに立った。──今だ。多分、今だよな。
「ミョウジくん」
「はい?」
「これ、いる?」
持っていたパッケージを差し出す。ミョウジくんはそれを手にとって、「なんですか?」と尋ねた。
「絆創膏もらったんだ。なんかかわいいやつ」
なんかかわいいやつはないだろと思いながらミョウジくんの様子を見守る。ミョウジくんはパッケージを開けて、中を見るとあっと声を上げた。
「や、やっぱ趣味じゃなかった? ごめん、いらなかったら返しても──、」
「あ……ち、違います! ええっと、えーっと、」
ミョウジくんが珍しく慌てている。俺ははらはらと反応を見ていた。彼は連なっているそれを広げて、それから食い入るように絆創膏を見ていた。心なしか顔が紅潮しているように見える。ミョウジくんはややあって、嘆息のような息を漏らしながら呟いた。
「……めちゃくちゃ嬉しいです……かわいいな……すごい使うの勿体ない」
「……」
ミョウジくんはばっと俺の方を見て「ありがとうございます!」と言った。こんなに喜ぶのか、すごく子供みたいに喜ぶんだな──じっと見ているとミョウジくんは我に返って、照れ臭そうに目を伏せた。
「すみません、変な喜びかたして」
「いや……」
エレベーターが14階につく。降りてからも、ミョウジくんはちらちらと絆創膏を見ては笑顔になっていた。オフィスに入って別れ、お互いのデスクに着いてからもミョウジくんはそうしていた。ミョウジくんが俺のデスクに向けて顔を上げる。また目があった。
ミョウジくんが笑って会釈する。俺も会釈を返すと、ミョウジくんはまた会釈してくれた。この時間が永遠に続けばいいと思った。
──あげて良かったな。



 新年度になった。相変わらず仕事はしんどいが今年度もミョウジくんが転勤も退職もなく同じ部署にいるのでそこは救いだ。
いつも通り営業回りから会社に戻ると、時刻は夜の九時を回っていた。今日の顧客はやけに引き留めてくるのが多くて、予定を押しに押してこの時間だ。
「はあ……」
この時間になると部署のほとんどは消灯になる。俺のいる営業部ももれなく明かりが落とされていて、悪態をつきかけた。早く帰りたい。荷物だけを置いて、さっさと帰ろうと踵を返す──ミョウジくんのデスクに、灯りがついたままなことに気づいた。ついでにジャケットが椅子に掛かったままになっている。
「観音坂さん?」
掛けられた声に振り向いた。ミョウジくんはなぜか、手に箱と、脚立を持っていた。
「ミョウジくん……! お疲れ様。……なにしてるの?」
「お疲れ様です! そこの蛍光灯が切れてるので、代えようと思って」
ミョウジくんはオフィスの突き当たりにある天井を指した。消灯されているので分からないが、確かにあの辺りはたまに点いたり消えたりしていたような気がする。
「観音坂さんは今日は直帰じゃなかったんですか?」
「そうなんだけど、忘れ物して」
「ああ。じゃあちょうど今帰るところなんですね」
俺も帰ろうと思ったんですけど、気になっちゃって。笑ったミョウジくんはやっぱりいいなと思う。
「……手伝おうか?」
ちょっとした下心だった。ミョウジくんは目を丸くして、「そんな、悪いですよ」と言った。
「脚立使うんだろ? 落ちると危ないよ」
「まあ……」
ミョウジくんは少し考えるそぶりを見せたが、「じゃあ、お願いします」と控えめに言った。俺は心の中で思わずガッツポーズをした。

 件の蛍光灯の下にミョウジくんは脚立を立てて、上り始めた。俺は横に立って脚立を支える。見上げると、ミョウジくんのネクタイがぱたりと鼻をなぞった。「あ、」慌てた様子でミョウジくんはネクタイを持ち上げた。そうなると片手が塞がるのでカバーを外すことができない。脚立を不自然に上がった格好でミョウジくんは少し固まった。「あー……もう」照れくさそうに小さく呟くのがすごくぐっときた。
ミョウジくんはちらと俺を見下ろしてから、すみませんと言ってネクタイの端をシャツの胸ポケットに押し込めた。
「埃、被ってません?」
「大丈夫」
がこ、と音がしてカバーが外れる。ミョウジくんは小さく咳き込んでいたが、俺にカバーを手渡した。慣れた手つきでミョウジくんはシーリングライトも外す。
「上手だね」
「外すのがですか? 初めて言われたなあ」
ミョウジくんは一度脚立を降りてきて、床にそれを置いた。
「……遠慮しておいてなんですけど、観音坂さんがいてよかったです」
ミョウジくんは新しいシーリングライトを箱から出して、再び脚立に上った。
「観音坂さんは今一人暮らしですか?」
「いや、同居人がいる」
「え。……友達ですか?」
「ん? うん。一二三は……友達だな。うん」
「そうですか。……じゃあ悪いことしちゃったな……今日は約束があったとかじゃないですよね?」
「大丈夫だよ。相手は夜に仕事があるから、あんまり予定も合わないし」
シーリングライトをドライバーで取り付けている音が頭上で聞こえる。少しして、ミョウジくんは脚立から降りてきた。照明のスイッチを点けると、まだカバーをつけていない、強めの光が灯った。ミョウジくんが眩しいと笑って目を細める。
「……なんだか、この前から観音坂さんにはお世話になりっぱなしですね」
俺はぎくりとした。流石にでしゃばり過ぎただろうか。恩着せがましいとか思われていたらどうしよう。けれどミョウジくんはそれには気づいていないようで、笑顔のまま話を続ける。
「この前いただいた絆創膏、あれ、すごく嬉しかったんですよ。俺の趣味って、あんまり人受けがしなくて……だから、ああいうのもらうのは初めてだったんです」
絆創膏。俺がミョウジくんにあげたキャラクターものの、五枚セットのあれだ。それですごく喜ぶのか。ならいつでもそうする。毎日あげたいくらいだ。ミョウジくんは胸ポケットからネクタイを引き出しながら、そうだ、と思い付いたように言った。

「俺も観音坂さんにお返ししたいです。観音坂さん、なにか好きなものとかありますか?」
「え」

 ミョウジくん。
とは、流石に答えられなかった。困らせるだろう。それどころか引かれる──嫌われる可能性もある。そのぐらい俺にもわかる。そしてそれは最悪な展開だ。そうなるとなにも思い浮かばない。俺の好きなものはあるにはあるが、どれもミョウジくんに叶えてもらうべきことではない。
「思い付かない。別にいいよ」
好きだと、相手がなにをしていても良いと思う。キャラ物が好きでもかわいいと思うし、それで幸せそうにしているミョウジくんがたまらなく好きだから。だから俺はそれで十分だ。
「なんでもいいんですよ。ほら、俺の趣味もこんなだし、引いたりしませんから」
「……」
それでもミョウジくんは引かなかった。
考える。俺がミョウジくんと言った場合の彼の対応を。
あまり芳しくない、というか引かれた場合。かなりショックだが当然のことなのでそれをどう受け流すかが問題だ。言葉を切るので不自然になるが、飲みに行きたい、と続けよう。最悪の事態は避けれる。
じゃあ、そうでない場合。ミョウジくんが受け入れて俺とめでたく付き合ってくれる──そんな場合なんてあるか! あったとしてそれは恐らく、ミョウジくんが大変に気を遣ったという証明に他ならない。嫌だ。なんにせよどちらも俺には大ダメージだ。やっぱり言うべきではない。
「ミョウジくん」
「はい?」
「……」
飲みに行こう。と続けるつもりだった。いや、続けようとしている。けれど俺の脳のほうが欲をかいて、不自然に沈黙を空けやがっている。ミョウジくんがじっと俺を見ている。
「俺がどうかしましたか?」
ミョウジくんが首をかしげた。そりゃ、そうなるよな。俺は飲みに行こうと続けようとした。
「……ミョウジくん」
──続けようとしたんだ。
まだ取り返しはつくと頭では理解しているのに、完全に口が“ミョウジくん”以外の言葉を発そうとしていない。

「ミョウジくんが、好きだ……」
ミョウジくんが目を丸くした。俺も驚いた。
取り替えたばかりの照明が明るすぎて、背中が熱くなってきた。もう取り返しがつくとかそういうレベルの話ではない。出すしかないのか、辞表を──。
ぐるぐると考えること数十秒、ふと右手に恐る恐る触れる感触があった。驚いて顔を上げる。顔を真っ赤にしたミョウジくんが大変恐縮した様子で、俺の手を取っていた。
「俺でいいんですか?」
「え──、」
何を言っているんだろう。夢かと思う。握られているのと反対の手で腿をつねると痛かった。
「……うん……好きだよ……」
「……」
呆けて力なく返事をする俺に、ミョウジくんはなんともいえない──端的に言うと非常に(俺が)劣情を催す顔で、「……俺も、好きですよ」と恥ずかしそうに言った。
「ミョウジくんが、俺を?」
う、とミョウジくんが呻く。
「……はい」
はい。
「観音坂さんが好きです」
好きです。
「……」
「なんでなのかとかは、うまく言えないんですけど……」
「……」
「……観音坂さん?」
「…………やべー……ちゅうしたい……」
 俺の脳直の言葉にミョウジくんはぴきりと固まった。それから視線がうろうろとあちこちをさ迷う。ごめん。これは俺が悪い。
──俺が悪いのに、ミョウジくんの顔がそうっと近づいてきて、かさついた感触が唇に触れた。数秒で顔を離したミョウジくんは、むっとした表情をしていた。怒っている顔なんて初めて見る。怒っているというか、意地悪をされた子供みたいな顔だ。
「かわいい……」
「ばかにしてます?」
「してないけど……」
「……俺が、趣味ですか?」
 ミョウジくんは耳を真っ赤にして俯いていた。今日のネクタイはペンギンだ、などとどうでもいいことに気づく。
「うん」
頭上で蛍光灯がぱちぱちと鳴っている。光の下のミョウジくんはなんだかとてもきらきらしていた──埃が舞っていて、そう見えただけかもしれないけど。


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