侵略者 from HELL


 俺の住む二◯五号室の隣、二◯六号室には、魔物が住んでいる。……比喩とかではなく、ガチの魔物だ。
見た目はちょっとイケてる女だが、この前スーパーマーケット隣の裏側で、顔がぱっくりと(それは蕾が開花するかのように、)割れて人間をムシャムシャ補食しているのを見てしまった。
それまでは、会えば挨拶を交わすし「良かったら夕飯でも食べていかない?」と笑顔の隣人にホイホイ着いていきそうになる──などのことがあったが、例のアレを見て以来はいつやられるかと怯える日々を送るようになった。さっさと引っ越せばいいのだが、金がないので引越しもできないのだ。
 隣人はよく男を連れ込んでいる。たまに、見知らぬ男と部屋に入っていくのを見るから。一晩中喘ぎと軋むベッドの音がするのでやることはやっているんだろう。でも、そこから男が出てくるところは見たことがない。多分彼女が食べているのだ。恐ろしい話だ。

「ザップ、中華とイタリアン、どっちが好き?」
「あー……どっちも食いてェな」
「ふふ、食いしん坊。いいよ、どっちも作ったげる」

 今日の餌食は白髪の男らしい。夕方のHLはどこか哀愁の漂う寂しさがあって、そこを異界の生き物がうじゃうじゃと歩くとなると、人間と人間同士が惹かれ合うのはごく自然なことだ。隣人は見た目が人間なだけだが。
俺は、絶対に隣人がいるフロアに入りたくない。目が合うなどして印象付けをしたくないから。今は廊下と階段を隔てる境目がその線引きで、さっさと部屋に入れと念じながら二人の後ろ姿を見ていた。鍵を開けるのに手間取っているようだ。
 カン、と鉄製の階段を誰かが上がってくる音。白髪の男がそれに反応してこちらを向く。
「あ」
──まずい、目が合った。思わず俯いて視線を反らす。鉄を打つ足音が上がってくるのを聞きながら、心のなかで三十まで数を数えた。誰かの足音が、二階を通り越して三階へと向かう。顔を上げると二人の姿はもうなかった。



 夕飯を適当に胃に押し込み、これまたやるだけやったとばかりにシャワーを浴びる。体がひどく怠かったので早々に寝たかった。体を適当に拭いて、スウェットを着て、家の電気を消して──いよいよ寝室で眠ろうと中に入り、固まる。
「……」
寝室に、男がいた。電気もつけてないので影かと思ったがどうやらゴーストとかでなく実体だ。1つしかない俺のベッドの上を我が物顔でくつろいでいるこいつ──よくよく見ると全裸じゃないか?
「……お巡りさん!」
「ちょ、バカ! 叫ぶんじゃねーよ!」
「もッ……あいたァ!」
男は野生顔負けの跳躍で俺の口を塞ぎにかかり、そして押し倒してきた。まずい! 変態だ。風呂上がりのピカピカの身体を汚される。
「チッ、とんでもねー女引っ掛けちまった……」
俺の口を塞ぎながらぶつぶつと言う男。こいつ、なんかどこかで見たことあるような気がする。
「飯も無茶苦茶マズイしよぉ……なにがどっちも作ってあげる、だ」
白髪、褐色──暗闇に目が慣れて色の識別ができるようになると、俺は男の掌の中であっと声を上げた。
「えじきだ」
言うと、男は低い声で唸った。「何言ってんだよ?」俺は男を見ながらひとまず暴れるのをやめる。男は動かなくなった俺に奇妙な顔をしながら、抵抗や叫ぶおそれがないことを念入りに確認して拘束を解いた。

「あんた、隣の女としけこんでたやつだろ」
「ハァ? 誰があんな化け物女とヤるかよ! 逃げてきたんだっつの!」
だから全裸なのか。
「どこから入ってきたの?」
「ベランダ伝ってきた」
「ああ。いや待てよ、女は?」
「殴って気絶させた」
「すげーっ」
褒めると、男は少し口角を上げた。「あったりめーだろ?」よろしくやりたかった女を殴る度胸がな。ひとまずこの侵入者がどういった経緯でウチに来たのかは分かったので、玄関を指差した。

「出ていけ」

男が目を丸くする。
「マジかよ。裸なんだぞ」
「シーツならやるからそれ巻いて帰れよ。いいか、色男。あの女の関係者は俺にとって全員敵だ! 関わりたくない!」
「ハーッ!?」
男は絶句して静かになった。それから、ふと何か思いついたかのように俺を見る。
「……てめぇ! 夕方俺のこと見てたやつじゃねーか!?」
がくがくと男にシャツの襟を掴んで揺さぶられる。
「どーりで……なら知っててこっち見てやがったな……! クソ野郎!」
「うるせーっ!」
 あの女に比べれば多少運動能力に優れた人間など怖くもなんともない。ていうかこいつ全裸だからうっすら下半身に揺れるものが見えて気分が悪いんだよな。
思考を外にやっていると男は「お前は俺に忠告ができたはずだからこの責任の一端はお前にもあり部屋と服ぐらい寄越せや」といった内容の論を展開してきた。でも俺はお前、忠告しても聞かないタイプだと思うよ。
男は出ていく様子もないし、いい加減眠いので俺は男に下着と替えの服があるであろうクローゼットを指してさっさと持っていけと促した。男から逃れてベッドに身体を投げ出すと一気に意識がまどろんでくる。男が俺のズボンの裾が短いだの腰部分がだぼつくだのムカつくことを言っていたようだが、無視をした。

「……」

 翌朝、目が覚めると俺はベッドから放り出されていた。死ぬほど冷える。代わりになぜか昨日の男が目一杯その長い手足を放り出して眠っていた。着ている衣服は上半身はパツパツだし下半身はふくらはぎが露出するくらい中途半端な丈になっている。
「食われれば良かったのに……いっそ放り込むか……」
背中が痛いが立ち上がる。なんでこいつ、帰らなかったんだろうか。部屋を出て廊下の先にある玄関を見る。──まあ、真夜中のHLなんて出歩くものでもなし。そんな感じだろう。
 俺は朝食なんてものは摂らないので早々に着替えて家を出ることにした。男の眠るベッドにとにかく出ていけとメモ書きをして、まあ鍵は開いていても大丈夫だろうと合鍵を渡すリスクを回避する。ここには金品もない。俺の金は俺の財布と職場のロッカー、××駅の床タイルの下ぐらいだ。

「おはよう」
 びく、と肩がはねる。玄関を施錠していたら女に声をかけられた。
「……おはよう、ございます」
「なんだか久しぶり。少し痩せた? ちゃんと食べてる?」
「食べてます」
こいつ、どうでもいい世間話を今日に限ってするなんて。会話を打ち切りたいが女は堰を切ったみたいに話続けている。適応に相づちを打っていると、女は相変わらず美しい顔で、そうだ、と思い出したように手を打った。

「わたしの恋人を知らない?」

核心を突かれる。
ああ、この女は──本当に、端正で美しい顔をしていた。毛穴の見えないきめ細かい肌で、黒みがかった光彩の綺麗なこと。
「昨日来て、コンビニに出たきり帰ってこないんだ。白い髪で、褐色の肌で」
体がいい。胸が大きすぎなくて、いかにも柔らかそうなそれがワイシャツを押し上げている。ウエストを締める黒いスカート。こいつの腰をつかんだらきっと誇らしく優越を感じることだろう。

「名前はね、ザップって言うんだけど」
「ザップ」
「……知らない?」
「知らない、っすね……」

──女が俺を見ている。何を考えてんのか検討もつかない目で──俺の言葉の真偽を見透かすために俺の表情の機敏を見ているのだ。どのタイミングで仕事なので、と言えれば不自然でないだろう。だからといって長考は危険だ。俺は視線を彼女の部屋がある奥に向けて、それから体を反転させた。
「じゃあ仕事なので」
「……ふふ。お疲れ様、がんばって」
うるせえよ。女の声は冷たかった。廊下を歩く間はずっと足が重く、階段を降りて、駅に着くまでもずっと緊張していた。ホームについた電車に乗り込んだとき、ようやく腰が抜けて、おなかの大きな女性に席を譲られた。



「──なんで帰らないんだよぉ!」

 俺は男──ザップをぽこぽこ殴った。仕事が終わり、帰宅してすぐテレビを見ていた男に目を剥いた。どういう神経してるんだ。ザップは俺が殴るのに「やめろや」とは言ったが大して抵抗はしない。多少の後ろめたさはあるらしい。
「出ようとしたんだけどよォー……なんかイヤーな予感がしたからドアスコープで見たら、あの女ドアの前で突っ立ってやがったんだよな」
「ええ……こえーッ」
「だろーっ!? なんだアレ! ジャパニーズホラーかっつうの!」
文句を言って怒るザップだが俺の気持ちにもなってほしい。朝のことを話すとザップは「こえーッ」と盛り上がってくれたので俺もなんだか報われる気がしたが、やはり逃避に過ぎない。男二人でなにをしてんだか。ザップは逃げ切れさえすればいいが、俺は毎日あの女と顔を合わす可能性さえある。
夕食に冷凍のマカロニを出して黙々つついていると、チャイムが鳴った。ぴくりと凄い勢いでマカロニを頬張っていたザップの手が止まる。
お前は出るな、とザップに口パクで伝え──られなかったのでひとまず手でバツサインを作って納得してもらい、玄関に向かった。

 ドアスコープを覗くと、やはりというか、女がいた。手に皿のようなものを持っている。チェーンを掛けたままドアを開けた。
「……こんばんは」
「こんばんは。ねえ、良かったらご飯食べない。作りすぎちゃったし、やっぱり心配で」
「ほんとうに大丈夫」
「ザップは、」
女を見る。
「まだ見つからないの」
彼女が手に持っている皿に載っていたのはトマトソースのようななにかだった。なるほど、料理は人間を模倣できないらしい。単に下手なだけかもしれない。
「寂しいのよ」
「恋人がいるんでしょう」
「あなたの家にも誰かいるの?」
「いないよ」
少し食いぎみになってしまった。不自然だっただろうか。女は驚いたように黙りこんで俯いた。

(これはどういう反応だ?)

 ややあって女が顔を上げる。微笑んでいた。相変わらずムカつくぐらいの美人で──、

「う、そ、つ、き……」

顔が、割れる。「ッ!」食われる! そう思ってドアを引こうとしたが、瞬時にひしゃげた。女がチェーンを千切る。なんて馬鹿力だ。
たたらを踏むと、ぐいと腰を引かれた。
「クソ女!」
「ザップ!」
ザップは俺を部屋に続く廊下の先へ突き飛ばした。女がするりと部屋に侵入した。
「絶対に帰さない」
開ききった顔の穴から出た言葉はひどく濁っていた。ザップがそれを鼻で笑い、「おい!」と俺を呼ぶ。
「包丁借りるぞ!」
「そいつとやりあうのか!? オーガズム中じゃないんだぜ! 無理だぞ!」
「バーカ!」
ザップは包丁を逆手に構え、振り上げると──自分の腕を切った。「ハァ!?」はあ!? リストカットなんて今必要なのかよ! 女が轟くような笑い声を上げる。「ザップ!」叫ぶと、ザップは僅かに視線をこちらに向けて、にっと笑った。なんで、そんな得意気な顔ができるんだ。この状況で。

「──斗流血法、刃身ノ壱……」
 出血した部位から血が固まり、薄く伸びる。ザップの腕のなかで形作られたソレは、強く赤く光っていた。まるでニホンの刀みたいな。その最中でも、女がザップを飲み込まんとその皮膚で彼の頭を覆う。

「──焔丸ッ!」

幾筋もの、赤い光。
次の瞬間、俺の体は部屋の奥へと吹っ飛ばされた。熱線のようなものを浴びた気もする。放心していると、何故か、突如として部屋に赤い霧が立ち込めた。少ししてそれが血だと気づく。
「おい!」
慌てて廊下へ戻る。たった一瞬のことだったのにそこは酷い有り様だった。壁は半壊して隣の女の部屋を貫通しているし、ちょい焦げ臭いし、ズタズタの床には肉片のようなものがごろごろ転がっている。
「あー……」
肝心のザップはというと、自分で傷つけた腕以外は全くの無傷でそこに立っていた。俺を見ると少し気まずげで、頭を掻いた。
「悪ぃ、加減が──」
「おま、おま、お前! 大丈夫なのか!」 
走っていってがくがくと体を揺さぶる。こいつどういう生命してんだ! ザップは驚いた様子を見せて、それから大丈夫だと小さく言った。ホント一体どういう手品を使ったんだか知らないが、とにかく女は死んだようだ。
「いや……ああ、くそ……無事なら、無事ならいいんだが」
俺は最初にザップを見捨てようとした手前、まさか助けられるとは思わなかったので正直困惑していた。行き場のないそれをぶつけるわけにもいかなかったが、悪態となって漏れ出た。
「殺せるならどうして最初に殺さなかったんだ」
物騒だが、一応聞いてみる。
「あの女のバックに何ついてるか分かんねーだろ」そう言ってザップはぶすくれた。過去に何か嫌な思い出があるらしい。
「じゃあどうして殺した?」
「ほら……お前が見てたから、正当防衛、に……なるよな? なるだろ?」
今度はザップに体を揺すぶられる。「分からないけど、証言はする」ザップが「ンなこと聞いてねーよ!」と怒った。
ひとまず、段々と落ち着いてきて俺にも周りを見渡す余裕ができてきた。この廊下を見るに敷金が返ってくる可能性はゼロだろう。よく見たら洗面所も壊れている。きょろきょろとする俺に怒っていたザップも流石に大人しくなって、また気まずそうになった。

「……住むとこ、なくなったな」
ぽつりと呟くといよいよ実感を帯びてきて、俺はぽろりと片方の目から熱いものが落ちるのを感じた。ザップがギョッとして俺を見た。
「んな……泣くんじゃねーよ……! 助けてやったろうが……!」
「ああ……いや、お前に文句があるんじゃないよ。ただ、ちょっとショックで……しばらく落ち込むから、もう出ていっていいよ」
「そ、そうか。じゃあ俺、もー行くからな! やることやったし、帰ってこねーぞ!」
「ああ」
ザップが玄関、もとい穴から外へ出ていった。俺はひとまず肉片をどけながらズタズタの床に座り、女の部屋を見る。廊下にはゴミが散乱していて汚かった。虫もわいているようだ。人間のふりが、本当に下手なんだと思う。
「……」
これからのことを考える。住む場所を決めなくては。物件探しさえ命が掛かるHLではまず評判のいい不動産を探すところから始めなくてはならない。口座の預金と……そういえばまだ給料日前だ。この惨状、大家にはなんて説明しよう? 女がきちんと人間でないと証明するものはあるのだろうか。
考えこんでいると、ドスドス足音を立ててザップが戻ってきた。なにか忘れ物でもしたのだろうか。

「クソッ、クソッ、……どうして俺がこんな……!」
口ごもり気味のFワードを連発しながら再びやって来たザップが、俺の腕を掴んで立たせた。
「旦那はいいとして、あの人にどう説明すりゃいいんだ……」
途方にくれたように呟くザップは、俺をじっと睨み付けた。
「な、なんだ?」
「いいか!? 今からちょっとしたとこに連れてくから、絶対に目開けんな、耳塞げ、喋んな! 呼吸やめろ!」
「死ねってこと!?」
「いや呼吸はいい! とにかく目だけは、絶対に、塞げ」
なにか鬼気迫るものがあったので大人しく言われた通りにすると、ザップはよしと言って俺の腕を掴み歩きだした。
冷たい外気が肌を刺す。外に出たのだろう。裸足なので足が冷たい。マンションの階段の冷たさに飛び上がりそうになりながら、ザップにどこに連れていくのだと尋ねた。

「……」
「教えてくれたっていいだろ」
「……ウルセー」

 しばらく歩き続けていると、車の行き交う音が聞こえてくる。街の方に出たのだろう。人や異界のモノの声も聞こえる。
「……特別な地獄によーこそ」
ザップがふとなにかを呟いた。けれど、俺の耳には届かなかった。


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