街を歩く。休日の東京はいつにも増して人が多くて、さまざまな匂いと音がする。
交差点の横断歩道前で信号待ちをしていると、向かい側にいた青年がこちらを凝視した後、隣の友達らしい青年に耳打ちしていた。彼らがぼくを見る。耳打ちされた青年は首を傾げて、不思議そうに耳打ちした青年に話しかけていた。
信号が青に変わる。
「だから……あれ、コスプレじゃないかって──」
すれ違う途中で、青年がぼくをちらと見てそんなことを呟いた。それに反応して、自分の頭の上の耳がぴくりと揺れるのを感じる。
それに青年がぎょっとして、「な、やっぱり……!」──その様子を見て、足早にその場を立ち去った。
◆
「見えるひと、増えてるんだね」
七海が怪訝そうにぼくを見た。ぼくが自分の頭を上を指すと、「ああ」と合点がいったように呟く。
給湯スペースのお茶はやっぱり切れていて、買ってきて正解だった。
「気にしてるんですか」
「そうじゃないけど……改めて意識されると照れるかも」
コスプレって言われた、と呟くと、七海が数秒固まったあと吹き出した。そんなに笑えるような話だっただろうか。
「面白い?」
「ふ、ぐ、いえ……すみません」
「……七海が楽しいならそれでいいよ」
言いながら、耳が後ろに倒れてしまう。それを見た七海が口元を手で押さえて再び「すまない」と謝った。ぼくは何も言っていないけど、ぼくの体はとても雄弁らしい。
七海や、ここにはいないけれど灰原のぼくに対する反応はいつもこんな風で、自分の見た目で感情の機微を測られるのに慣れていないから困ってしまう。
「よーっ! 先輩様のお帰りだぞー」
突然べしゃりとぼくの頭が押さえられて、七海が笑っていた表情をすぐさま引っ込めた。
振り返ると任務帰りらしい五条先輩が機嫌良さげに立っている。その隣に家入先輩がいた。五条先輩が割と強い力でぼくの耳をぎゅうと強めに握り込む。撫でているつもりなのだろうが、少し痛い。
「やめな五条。痛がってる」
困っていると家入先輩が間に入ってくれて解放された。ありがたい。しかしあまり表情には出さなかったが、なぜだろうと思っていると「シッポ、下がってる」と察したように笑われる。
「ありがとうございます」
「ち。減るもんじゃないし触ってもいいだろ、べつに」
「減ったらナマエがシッポ人間になるだろ」
「いいじゃん。そーなったら笑い死ぬ自信があるね、俺」
左右から交互に喋られるとなんだか自分が、内緒話の紙筒になったような気分になる。
「……そういえば、夏油先輩は?」
その様子を見兼ねたのか七海がそう尋ねると、五条先輩が「夜蛾センのとこに報告」と答えた。
「ふたりとも無傷?」
「当たり前じゃん」
五条先輩が真顔でピースする。家入先輩はどこかつまらなさそうだ。怪我をしないのはいいことだが、反転術式が試せないので物足りないのだろう。
ここにはいないもう一人の先輩──夏油先輩の顔を思い浮かべる。
「あの人、最近怪我しなくなりましたね」
「それは私に怪我をしてほしいということかな?」
「うわ!」
ギュ、と背後から両耳を鷲掴みにされて驚く。尾が背後にいる誰かを引っ叩いた。「おー」五条先輩が声を上げ、家入先輩が無言でガラケーを取り出して写真を撮った。
あまりの衝撃に放心していると、むぎゅぎゅ、と軽く力を込められる。五条先輩のような力いっぱいな感じではなくて、耳全体が暖かなものに適当な力で包み込まれている、ヘンな感じだ。
見上げるとにこやかな顔で件の夏油先輩がぼくを見下ろしている。
「どうなんだい?」
答えられずにいると大きな手で両耳を更に揉み込まれる。へなへなと力が抜ける。思わずふらつくと、背後にあった体にぶつかった。
「君にそんなに嫌われていたとは悲しいね」
「ちが……ただ……強いんだな、て思って……」
「そうなんだ。ありがとう?」
尻尾が夏油先輩の足の間で揺れてズボンを叩いているようだが、先輩は気にした素振りもない。誤解が解けたのにも関わらず先輩はしばらくぼくの耳を揉み続けて、満足すると「へにゃへにゃになっちゃった」と言って七海にぼくを引き渡した。
行こうぜ、と五条先輩が声を上げて三人の先輩が去っていく。七海が「いい加減自分の力で立って」とぼくの肩を叩いた。
仕方なく両足を踏ん張るが、まだ頭の感覚がふらふらとしている。
「あの人たち、どうしていちいち耳を触るのかしら」
七海は答えなかったが、ぼくと目が合うと無言で目を逸らした辺り、思うところはあるみたいだ。
夕方になって灰原が高専に戻ってきた。月に一度は実家に戻っている灰原は、お母さんが作ってくれたという料理をタッパーに入れて持ち帰ってくる。
入学当初は人の家の手料理に慣れなくてあれは何だこれは何だとよく尋ねていたが、灰原は全部ていねいに教えてくれた。灰原のお母さんが作るご飯は、いつも美味しい。
「妹さん、元気?」
「うん。最近は高専に戻る時になっても泣かなくなったよ。また帰ってくるって分かってるからさ」
「そっか。毎回泣いてたら、かわいそうだもんね。よかった」
灰原には妹がいて、彼自身面倒見がいい。ぼくらの中では一番のお兄さんなのが灰原だ。灰原といるとたくさん喋るし、実際ぼくと七海が仲良くなったのはある程度灰原のおかげ、みたいなところがある。
「ナマエと七海も今度遊びにおいでよ。みんな喜ぶしさ!」
「うん、いいよ」
「七海は?」灰原が尋ねると、唐揚げを食べていた七海が曖昧に頷いた。それに灰原が目を瞬かせている。「灰原、これおいしい。これ何?」
灰原の意識が七海に向かう前に、灰原の制服の裾を引っ張った。すぐに灰原がこちらを向いた。「それはね──」七海がぼくを見ている。いつものことだが、難しい表情をしていた。多分、またなにか考え込んでいるんだろうなと思った。
じゃんけんをして洗い物の担当を決めたあと、勝った七海と灰原が風呂に行って、負けたぼくは共有スペースの台所で空になったタッパーを洗った。数があるわけではないのですぐに終わる。
風呂に入るため着替えを持って談話室に戻りぼうっとしていると、うとうとしてきた。部屋に戻ろうか、と考えているうちにいつもの癖で体が丸まっていく。
「そんなところで寝たらダメだよ」
少しして、誰かが目の前でしゃがみ込む気配があった。目を開けると灰原がぼくの目の前にいた。「……七海は……?」尋ねると、まだ入ってるよと返事が来る。
「そうしてると子供みたいだね」
灰原が笑って、ぼくの隣に腰掛けた。風呂上がりだからか暖かな熱気が肌に触れてますます瞼が重くなる。
起きなきゃと思って意識してみるが、体は鉛のように重い。灰原が何か話しかけてくれているのに、ぼくの首は緩慢に頷き続けるだけだった。完全に意識が落ちる前に、灰原がぼくの背を撫でながら「おやすみ」と呟いているのを聞いた。
◆
見る人が見れば、海外でよく見るような、ソファに大型犬を乗り上げさせて共にくつろいでいる飼い主のような構図だ、と七海は思った。
灰原の隣で黒い塊──辛うじて飛び出した二つの三角で獣と判別できるそれが、胸を上下させて眠っている。
獣を見つめていた灰原が七海に気づいて、にっこりと笑った。
「ナマエ、寝ちゃったよ」
「やっぱり先に風呂に入れるべきだったか」
「本人は頑張ったみたいなんだけどね」
ほら、と灰原が床に落ちた着替えを持ち上げる。七海がナマエは、と言いかけて対面側のソファに座った。
「風呂の中で変わるよりはよかったかもしれないな」
「確かに! 濡れるとあんなに重いんだなあ」
「三人がかりで運びましたからね。……五条さんはほぼ笑ってただけだが……」
思い出しているのか七海が眉間にシワを寄せる。
「今なら僕達だけでも大丈夫かな? 部屋まで運ぼうか」
「そうですね」
二人は立ち上がって、獣の前に立った。「上を持つので、灰原は下を」言いながら七海は名前の前足の下に腕を回し、上半身を持ち上げた。手が黒い毛並みの中いっぱいに埋まる。
持ち上げた獣の体はそれなりに重い。腰部分を持った灰原が「ふかふかだね」と声を上げる。
そうして二人がかりで運搬している途中で、夏油が飲み物を片手に通りがかった。灰原と七海の腕にいる獣に目を向け、「それナマエ?」と首を傾げる。
「そうですよ!」
「そうしてると本当に犬みたいだね」
「いえ、ナマエはナマエです!」
「はは。冗談だよ」
灰原が食いつくとは思わなかったのか、夏油は一瞬目を丸くした。それから彼は獣の頭を一撫でして、目を細めた。頭側を持っていた七海は溜息をつく。
「ナマエが言ってましたよ。なぜいちいち耳を触ってくるのかと」
「生えているんだもの。気になるんだよ」
「ちゃんと人として扱ってやってください」
七海の言葉に夏油は困ったように笑った。
「七海にまで怒られるとはね」
「僕もそう思います!」
「灰原……いや、わかっているさ。ただ、可愛い後輩なんだ。頭も撫でたくなる」
そう言いながらもまた獣の耳に夏油の指が触れる。
獣を撫でるときの夏油の表情はナマエを撫でているときとは少し違って、何か含みを持っているように見える。七海がナマエを抱え直すと、夏油が口元のみで笑った。
「私も、ナマエが本当の獣にならないことを願っているよ」
最後にそんなことを言い残して、夏油は寮の階段を上がっていった。
灰原と七海がナマエの部屋までたどり着き、獣をベッドに寝かせたところでその姿が見慣れたナマエのものに戻った。
仰向けだと尻尾で腰が浮くのか少し唸って、ごろりと寝返りを打つ。それに灰原がタオルケットをかけてやって、満足げに息をついた。七海の方は少し眠たげにあくびを噛み殺している。
「……私達も早く寝ましょう」
「そうだね。お疲れ様、七海」
「灰原も」
部屋を出てドアを閉める直前、灰原が室内に向けて「おやすみ」と声をかける。
返事の代わりに、タオルケットからはみ出したナマエの耳が微かに揺れた。▲|BACK|▼