「相談っていうのは、今日の任務のことかな」
「知ってるんですか」
夏油先輩は硝子から聞いたからね、と事も無げに言った。
「灰原を怒らせるなんて悟でも難しいのに」
「じゃあ、怒った理由は……」
「察しはつくけど、それは答えじゃないからね」
夏油先輩は頭を振って、飲み物を寄越した。ぼくが一連のことを話している間、夏油先輩は黙って聞いていた。三回ほどぼくが「わからない」と言ったところで、先輩は「じゃあ」と話を促した。
「ナマエに必要なのは情操教育かな。相手の立場に立って考えてみようか」
ふとぼくは夏油先輩の背中側の廊下に、七海がぎょっとした様子で立っているのが見えた。“なぜよりによって”そんなことを七海が唇を動かして言った。
返事をしようとして、夏油先輩がぼくの肩を掴んだ。
「私を見て」
「は、はい」
「よしよし。じゃあ聞くね。もし、ナマエの目の前で灰原や七海が君を庇って重症を負ったら、どう思う?」
「あ、え……そんなことは起こらないですよ」
「起こらない可能性が全くないわけじゃないだろう。まあいいや。そういう事が起こってしまって、ナマエが二人に庇った訳を尋ねたときに、こう言ったら? 『どうせ治るから、別にいいだろう』」
「それは──、……。……」
「ん? どうしたのかな」
夏油先輩が顔を覗き込んでくる。耳や尻尾が強く立ったのが自分でも分かった。なぜ、この人を警戒しているのだろう。
ふ、と夏油先輩の呼気が短く聞こえて、笑っているように思えた。
「困る……かな」
「どうして?」
「だって……ぼくは……二人にそうしてほしいって……思わない、から」
ちら、と七海を見ると、目を瞬かせていた。「なぜ、思わないの」夏油先輩が尋ねる。
「君にとってはそうでも、二人にとってはそうじゃないんだ。君は助かったし、二人は自分の思い通りになった。怪我は治るから、客観的に見て損失はない。君が口出しできるかい?」
「ないけれど」
「困ったね。じゃあ、君の気持ちは持つだけ無駄なものだったってことだ」
「……」
「もういいです」
突然、七海が割って入った。七海がぼくを見て眉を下げている。逡巡してから、ぼくにこう言った。「それは無駄じゃない」
それから、七海は夏油先輩に向き直った。
「夏油先輩、ナマエにはきちんと私から教えます。伝わるかは分かりませんが、とにかく──」
「うん。どうぞ」
夏油先輩はあっさりとそう言った。驚くわけでもなく、七海に気づいていたらしい。七海が溜息をつく。「ナマエ」夏油先輩がぼくを呼んだ。
「今のは単なる意地悪だから、忘れていいよ。けど、君の気持ちが無駄じゃないっていうのは私も七海と同感だ。気持ちは実用性がなくても大切なモノだから」
夏油先輩は落ち着いた様子で、じっとぼくのことを見ていた。「大切にしなくてはね」重ねてそう言われる。ぼくは頷いた。
教室に戻ってくるまでの廊下で、ぼくは前を歩いていた七海の背中に向かって声をかけた。
「七海、ごめんね」
振り返った七海がぼくを見つめる。
「それは何について?」
「……びっくりさせて。もうしない」
七海は「びっくりって……」と少し呆れていたが、「まあいいか」と目を伏せた。
「確かにあの闘い方には驚きました。けど、私が怒っていたのはそれ以外のことでもある。ナマエにそういう手段を取らせてしまうほど、自分はまだ弱いのだと痛感していただけです」
「だから何より自分に怒っている」と七海は続けた。ぼくはその言い方が引っ掛かって、七海に口を開いた。
「……ねえ七海、それって……僕は仕方なくやったんじゃないよ」
「ん?」
「“そういう手段を取らせてしまった”って言ったから。でもぼくは、そうした方がいいと思ったんだ。ぼくが攻撃を受けたら、少なくとも呪霊の相手をしているうちなら、七海たちは怪我をしないだろうから……何ていうのかな、……別の手段だったけど、最後の手段だったわけじゃない」
「……」
言ってしまえば、覚悟を決めてしたような選択ではなかった。コンビニで好きなお菓子を選ぶのと同じくらいの選択だった。
七海は苦笑して、「やっぱり世間知らずだな」と答えた。ぼくはそれはそうだと困ってしまった。
「……一度しか言いたくないので、よく聞いてほしいんですが」
「うん?」
七海がぼくと視線を合わせるように屈んで、改めて真剣な表情を見せた。
「私は名前のことを大切に思っている。だから、自分を大事にしてほしい。その“最後の手段”じゃない限り、無闇に肉体を損なわないでいてほしいんです」
「それって、縛り?」
「違う。ナマエがそう思っていてほしい……まあ、ある種の願望みたいなものです。私の」
言い終えて、七海が身を離す。
ぼくたちはしばらく無言だった。けれどいつものように険悪な雰囲気になることはなかった。
「ねえ、七海とは仲直りできたかな」
恐る恐る、七海にそう尋ねてみた。
「……そうですね。今日のところは勘弁しましょう」
七海がずっと引き締めていた表情を緩める。ぼくは安心した。
「ありがとう!」
思わず抱きつきそうになると、七海はすっと身を引いた。だめなのかと思っていると、七海はぼくにこう言い聞かせた。「灰原とも仲直りするように」確かにそうだと思い直す。
「あくまでさっきのは私の考えですから。灰原には灰原なりの考えがあるのだと思います。だから、きちんと聞かなくてはいけない」
私は少し後から行くので、と七海が言う。
「うん。行ってくる」
「頑張って」
ぼくはそこで七海と別れて、寮の灰原の自室へと向かった。灰原に謝ろう。それで、話を聞くんだ──ぼくも、灰原に話がしたい。
◆
灰原の自室前まで来て、ぼくはドアをノックした。「はい!」灰原の声だ。
「灰原、ぼくだよ。ナマエ」
言うと、一瞬の沈黙のあと、ドアが開いた。灰原が顔を覗かせた。ぼくの爪先から耳のてっぺんまでを見て、灰原は一息ついた。
「怪我は?」
「大丈夫」
「そっか。良かったよ」
そう言ったきり、灰原は黙った。ぼくは少し身を乗り出して、灰原に言った。
「灰原、仲直りしようよ」
「……僕はまだ、できないよ」
ぼくは考え込んだ。それっていつまで? 明日や明後日も、灰原と話せないのか。
「灰原……」
「……」
「あのね、あの後、考えたんだ。ぼくは……その、色々やり方があったのに、灰原にとって悪い方法を選んだんだと思う」
「……」
「それで……七海が、ぼくが他にも方法があるのにわざわざ……ちがう、ええっと、七海は、ぼくに自分を大事にしてほしいって言った」
「……」
灰原の黒っぽい目にぼくは冷や汗をかき始めていた。入学してから今まで、笑顔じゃない灰原は初めてだなと嫌なことに気づいた。
「ねえ、灰原。ぼくはあの時に、灰原が持ってる気持ちを大事にしない選択をしたんじゃないかって思ってるんだ。だから、灰原はぼくに怒ってる……違う?」
灰原がむっとしていた(ぼくには努めてそうしているように見えた。)顔を、困ったようなものにした。七海は「自分がどうしたいのか、考えないと」とぼくに言っていた。
だから「仲直りしようよ」じゃだめなんだ。灰原はそうしたくないから、決裂だ。じゃあ、「喧嘩を続けよう」なんて、言うの。ぼくはそうしたくない。やっぱり、ぼくは灰原と仲直りがしたい。今一番、そうしたいって思っている。
「仲直り、したいよ」
なんだか情けない声だなと思った。ぼくは灰原の返事を待った。きっと駄目かもしれない。ずっと自分でよく考えてこなかったから、バチが当たったんだと思った。
「もうできない?」
「……、ううん」
灰原がぼくの顔を両手で挟んで、視線を合わせてきた。
「ねえ、ナマエ。僕もナマエと仲直りがしたいと思うよ」
ぼくが現金にも尾を揺らすと、灰原はまたむっとした顔を見せた。灰原を怒らせるなら、こんな尻尾いらないやと初めて思った。
「……でもね、今ここでいいよって言ったら、またナマエは同じことをするんじゃないかって思うんだ」
「しないよ。こんな……喧嘩になるなら、嫌だ。だからしない」
「喧嘩にならなかったとしてもだよ。ナマエはさっき、他にも方法があるのに、って言ったよね。それって、ナマエがあえて自分を傷つける方法を選んだってこと?」
ぼくは頷いた。
「じゃあ、僕たちはナマエがそうしなくて済むような理由になれなかったんだ。それがすごく悔しいんだよ」
聞きながら、ぼくは灰原が七海と似たようなことを言ったのに少し驚いた。
「……」
「それでも、ナマエが自分を大事にしないなら僕は、」
「絶交?」
「それは……でも、すごく怒るかな」
ぼくは灰原に抱きついた。「嫌だよ。灰原とも七海とも、喧嘩はしたくない」灰原の腕が背に回って、ぽんぽんと軽く叩かれる。
「……ごめんねナマエ。僕だって。僕も、強くならないとね」
少しして灰原がそう呟いた。ぼくは頷いて、灰原を離さなかった。
七海がやって来て、「いつまでそうしてるんですか?」と言うまで、ぼくはずっと、灰原の体を離さなかった。▲|BACK|▼