初めの違和感はごく小さなものだった。山道に低級の呪霊が少なかったこと、事前の通達では集落とされていた場所は廃村同然で、その中に規模の大きな社があったこと。
次に残穢がおかしい。二級の呪霊が付けるにしては、決まった感覚で乗せられている痕跡。非常に感覚的なものだったけれど、それをはっきりと確信した。例えるなら意図して付けたような──マーキングによく似ている。
ぼくは灰原と七海に応援を呼ぶべきかもしれないと言った。二人も異変には気づいているようで、携帯を取り出した七海が発信ボタンを押したあと、眉を寄せた。「……繋がらない」ここは圏外になるような場所ではない。
「場所はここで合ってるんだよね」
「ああ。山道も確認しましたし……」
「……本当に二級?」
嫌な予感がする。それは灰原と七海も同様に感じているのか、ぼくたちは顔を見合わせた。
「一度この場から離脱する? 民間人はいないみたいだし」
「そうだね。少なくとも携帯が繋がるところまで──」
灰原がそう言いかけたところで、グラ、と大きな揺れがぼくたちを襲った。そのとき、灰原の頭上には一本の木が浮いていた。
「危ない!」
灰原の身を攫って直撃を避ける。七海を見遣ると、既に警戒態勢に入っていた。
「ありがとう! ナマエは大丈夫!?」
「平気」
「……あれが二級呪霊か……?」
七海の言葉に、その視線を辿って姿を見る。「ちがうよ」即座に否定の言葉が出た。いくら呪霊が人の負の感情から発生するからといって、あんな規模になるのは流石には混ざりすぎている。
人のいなくなった集落。低級呪霊のいない山道。それなりに信仰のあったであろう社──そこまで考えて、ぼくはぐっと息を飲み込んだ。
「土地神なんだ、あれ……」
ぼくの呟きに七海が「は?」と眉を寄せた。灰原が尋ねてくる。「神様ってこと?」ぼくは首を横に振った。
「元、がつくと思う。簡単に言うと、人から信仰されなくなった土地の神様──っ、まずい、離れて!」
話している間にも土地神の攻撃が飛んでくる。躱して軌跡を見る限り、呪力を捩じってから放って来ている。術式持ちかは分からないが、あの土地神に理性はない。ただの獣なんだ。
「最後の手段なんて……」
呟くと、ぼくの背中に誰かがそっと手を当てた。見ると、灰原が僕の隣に立っていた。
「ナマエ」
「うん?」
「やるだけやって駄目だったら──」
「……」
「逃げないとダメだよ」
ぼくはそれには頷かなかった。命を差し出すのはコンビニでお菓子を選ぶのとは違う。だからぼくは、祈るために最後の手段を使う。そう決めていたから。灰原が目を伏せていた。
「怒らないで」
「……怒らないよ」
灰原はぼくの背からするりと手を離すと、「またあとで!」と離脱した。ぼくは三人でここから逃げ出せることを強く願った。それこそ、乏しいはずの心から。
◆
「こういうのも、呪いか」
「うん。呪術の世界は広いなあ……」
「灰原は怖くないのか?」
「何が? ナマエが?」
「ああ。本人も言ってたが、正気じゃないんだろう」
灰原の隣の獣を見つめながら、七海はじっとその気配を辿る。
その獣は、ナマエだった。最近はずっとこんな姿でいる。彼の天与呪縛について七海と灰原は早い段階から知っていたが、ここまで変化する必要に駆られるものではなかったと聞いている。
本人が言うには、天与呪縛からの呪力の侵食が進んでいるのだという。このままでは良くないから、誰か式神や呪霊使いのできる術師を当たって、将来的には主従関係を結ぶつもりだったと言った。
確かに初見で見れば、今のナマエは間違いなく呪霊に近い。憑物がせいぜいだ。五条の目などがなければ判別も付かない。
今こうして眠る獣のべったりと纏った皮の中身には、確かにナマエがいるはずなのだが、やっぱりそれは見えない。
「ナマエは僕達に合わせようとしてくれるよ。だから、怖がる必要はないって分かったんだ」
見た目こそ犬と飼い主のそれだが、灰原は決して犬にそうするように、ナマエの頭を撫でない。七海は後から知ったことだったが、入学してすぐに二人の間では縛りが交わされたらしい。灰原雄がナマエをナマエとして扱う限り、ナマエは彼に危害を加えない。──縛りがなくても、きっと灰原はそうしたのだろうな、と七海は思った。
「それに七海も、怖がってはないよね」
灰原が七海を見て言った。
「それは事情を知ったからで」
七海は煮え切らない返事をしたつもりだったが、灰原はそうだよね! と明るく笑う。
「ナマエは自分にできることをやってる。だから僕も、僕ができることを精一杯やるよ」
「私も、できているんだろうか」
灰原の黒目がちな目が七海を捉える。それで彼はいつものように笑って、こう断言した。
「僕からは七海が精一杯頑張ってるように見えるよ!」
「そうですか。……ありがとう、灰原」
穏やかな寝息を立てる獣を見下ろし、七海は自分でも気づかないうちに微笑んだ。
明日になれば、自分たちは任務に向かう。なんてことはない内容だ。すぐに終わるだろう。やけに楽しみにしていたようだし、ナマエの行きたい場所に付き合うのも悪くないかもしれない──そんな考えが、七海の脳裏に浮かんだ。
◆
──、
咳き込んで、目が覚めた。辺りは酷い状態になっている。が、その割には静かなのが却って奇妙だった。空の色からして先の戦闘からあまり時間は経っていないように思える。しかしどうだろうか、もう一日経ってしまっていて、昨日の今日ということもあるかもしれない。
「ぉん、ぅうう、あ」
二人の名前を呼ぼうとして、濁った声が出る。頭を振ると、自分がまだ獣の姿のままであることに気づいた。呪力はおおよそ尽きているはずなのに人間には戻れないということは、肉体の半分以上を損壊したということだ。けれど不思議なことに、理性だけが残っていた。
「ぁ、ああ、おお、お」
二人を探して辺りを歩き回ると、滅茶苦茶に倒された木々との間に黒い影が見えた。近づいていくと、それは木に圧し潰された灰原の身体だということに気づいた。顔を近づけて息を確認する──灰原は、もう動かなかった。せめて木をどかそうと木の隙間に潜り込んで下から持ち上げる。生半可な力では不可能だと、なけなしの呪力を込める。うまくいった。
すると灰原の死体の傍から、ぽろりと落ちるものがあった。見るとそれは、指だった。灰原の手に目を向けると、小指の部分の皮膚が引っ張られたような痕を残して千切れていた。
「ぃ、あ、あう」
酷い気分がぼくの体を襲った。急に首を絞められたように苦しくなって、涎が垂れた。──灰原が死んだ。灰原が死んでしまった! ぼくはたまらずその小指に顔を近づけて、一息に飲み込んでしまった。
しばらくしてから、灰原の死体を開けた場所にまで咥えて運んでいくことにした。灰原の体は重くて、引きずるのにも骨を折った。少し休んでから、今度は七海を探した。
七海はすぐに見つかった。木々のない代わりに、広い範囲で抉り返された地面のその先で眠るように倒れていた。顔を近づけると、今度は息があった。
倒れている七海の頬を舐める。まだぼくと七海は生きている。だから七海に高専に帰ろうと話がしたい。それなのに随分と体が怠くて、意識が薄くなり始めている。恐らく次に起きるときには正気が保てないだろうから、ぼくは七海が早く起きるように願った。
「ウ……」
七海が苦しげに片目を開いて、ぼくを見た。「ナマエ……?」返事の代わりに弱く唸る。七海の横に伏せると、腕が伸びてきてぼくの胴体を触った。
「灰原は」
「……」
「……死んだのか」
「ウ、」
「ナマエ、おまえ、意識は……あるのか?」
ぼくは一つ鳴いた。すると目を開けるのが辛くなってきて、七海の傍に伏せた。ふす、と鼻息を立てて七海の首元に擦り寄る。思ったよりも乱暴な衝動に駆られていないのは、きっと戦いで呪力を消費し過ぎたからだ。せめて七海の肉体を損なわずに済む。
それが一番の幸いだった。
「ナマエ?」
「……」
「ああ、」
「……」
「……ふたりとも、置いていかないでくれ……」
あたたかなからだ。みみをすべるてのひら。ぼくのなまえ。
このひとをかなしませてはいけないってわかるから
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