鮮やかに色づくもの


 モノクロフィルムからカラーフィルムに写真の主流が変わった頃、俺はアーサーという人にバラの写真を二枚あげた。ひとつはモノクロのもの。もう一つはカラーのものだ。
その頃俺のいたところでは新聞の欄にあった"文通のすすめ"みたいな感じの記事を使った文通が流行っていて、誰も彼も気軽にぽんぽん住所を載せていたものだから、ちょっとした気まぐれで(当時俺はミドルスクールに通う十四才のちっぽけな子供だった!)その一つの住所に写真を送ったのである。それが、アーサーだ。
 返事は二ヶ月後にやってきて──俺はその頃には自分の出した手紙に返事がくるのとは思っていなかったのだが、やけにずっしりした封筒を受け取り、そこに署名されていたアーサーの名と、住所に目を輝かせたのを覚えている。

 彼の送ってきた手紙の文はとても堅苦しく、俺は彼のことをよっぽどの爺さんなのだろうか、と思ったりした。中身はバラの写真のお礼から始まり、彼がバラの庭園を持っていること、ぜひいつかティータイムにでも招待させてほしいとのこと、ファンタジーは好きか、まあとにかくたくさんのことが書いてあった。
 文章を書くのが苦手な俺にとってはここまでの長文を書くのにどれだけ時間を要したのか、もしやそれが返事が遅れた原因なのだろうかと考え、さて俺はこれにどう応えるべきか、と頭をひねった。
 俺が文通を始めたことに対して、母はあらあらペンフレンドができたのね、なんて茶化して、少し良いレターセットをくれた。まるで女の子が使うみたいな、ウサギの刻印がついたものだった。
その時俺は、初めて出したあの手紙が白封筒に簡素なメモ用紙を突っ込んだ素っ気ないものだったことを思い出し、あんなので良かっただろうかと気にしていた。アーサーのくれた手紙は、封筒にバラの型押しがしてあって、レターそのものには金色の縁取りが輝いている、とても上品なものだったからだ。

 二度目の手紙には、学校帰りに拾った紅葉をしおりにして送ることにした。ただそれだけだと味気ないかと思ったので、公園で見かけた鹿を写真に撮ってそれも同封した。
アーサーから聞かれたことに答えてしまうと、あとはもう書くことがなくなってしまったので、俺は自分の生活の身の回りのことを書いた。もっとも俺がその時住んでいたのは田舎のところだったので、レター三枚分にもならなかったけれど。


 友だちに誘われて初めて大学のほうまで行ったのは、年末ごろのことだった。「俺のいとこが講師をしてるんだ」そう言われて、俺は面白そうだとついていくことにした。汽車に揺られながら初めて都市部の方まできて、慣れた様子の友だちに引きずられながら大学まで行った。
 初めてきた大学は居心地が悪くて、本当は講義を受けていくつもりだったけれど、友だちと別れて俺はキャンパス内のベンチに座った。その時考えていたのは、今度高校生になることと、家に残っているフィルムが切れそうになっていること、帰りの汽車の混み具合、それからこの大学がアーサーの住所に近いことだったと思う。それから持ってきていたカメラで、大学のキャンパス内の景色を撮っていた──うろついていたといった方が正しいのかもしれない。
どん、と背中になにかがぶつかって、俺ははっとした。「わ、なんだよ!」眉を寄せた金髪の人が振り向いて俺を睨み、「よそ見してると危ないだろ」と言った。「すみません」俺が目を丸くして謝ると、その人はいや、と小さく息をついた。それから俺の手元にあるカメラを見て目を瞬かせる。
「写真、好きなのか?」その人は、俺の目の前にしゃがみこんでそう尋ねてきた。彼の緑色の瞳は少し穏やかな光を持っていて、ふと、俺はこの人の写真に撮ったら、この目にちょっとした青みがかかることに期待した。

「はい」
「……ふーん。流行ってるのか?」
「ううん、全然。俺の友だちはみんな、そんなの楽しくないって言うよ」
「そう、なのか」その人はがっかりとした様子で立ち上がり、頭を掻いていた。
「あの、」
「ん?」
「写真、撮っていいですか。……あなたの」

 俺は彼から返事を聞く前に、カメラを構えていた。彼は困ったように笑い、「よく分からない」と首を傾けた。だけど、その後にいいぜ、と小さい声で応えてくれた。ただ立っているだけでも彼は俺よりずっと大きく見え、笑った顔は子供っぽかった。
もし俺がこの時持っていたカメラがインスタントのものであれば、彼にすぐ写真をあげられただろう。俺がたびたび遠回りをするのは、幼さとか、財力とか、もしくは無知であることだとか、そういうものの重なり合いなのだと思う。
「いつかまた会えたら、その時にでも渡してくれ」
 写真を撮り終えると、その人は街路樹の広がる道を行ってしまった。その背中すら残せないのはとても惜しいことのように思えて、俺は彼の写真をもう一枚、こっそりフィルムに残した。
それから戻ってきた友だちが「講義、面白かったぜ。お前もこればよかったのに」とにやにやしながらからかってきたので、「そりゃ良かった! 大した頭だよ」と軽口で返した。きょとんとした顔の友だちもそれはそれで傑作だったけれど、フィルムの残りはもうなかったので撮ることはできなかった。


 アーサーから返事がきたのは年が明けて二週間ほど経ってからのことだ。前回と同じ封筒で、いつもの手紙と共に、新年のグリーティングカードが同封されていた。動物好きだと思われているのか、鹿とかリスとかウサギとか、やけにファンシーなものだった。手紙には写真を撮るのが最近の流行りなんだということと、送ったしおりを大切に使っているということが書かれて、嬉しかった。
 俺はすぐに返事を書いた。同封する写真に悩んで、この前行った都市部の、混み合った汽車を撮ったものを送ることにした。アーサーにいつか会いにいくとすれば、今度は人の多くない時がいい。それから、今度高校生になるんだ、ということを書いて返事を出した。



 アーサーとの文通は、数ヶ月おきに、というものながら、実に俺がハイスクールを卒業するまで続いた。大学には行かないでカメラマンになる、ということを真っ先に伝えたのもアーサーだ。その時の返事には、心から応援する。支援が必要なら言うように、とかなり先走ったことを書いていた。ちなみに俺の両親はそれを聞いて曖昧な反応をしていたが、写真コンクールで銀賞をとったとなると、ほぼ肯定的になってくれた。

 カメラマンになるために故郷を出てから、俺はアーサーと文通をすることが難しくなり始めていた。写真屋でアルバイトをしながら有名なカメラマンの手伝いをしたり、出版社に出向いて写真を見せにいったりと、生活が忙しくなったからだ。毎月のフィルムや機材の出費に加え、生活費のこともあってやらなければならないことはたくさんあった。
 アーサーは俺の住所が変わったことさえ知らなかったろうし、実家にいる両親がそのことを教えたかも分からない。教えたとしてもそれがやってくる前に俺は住居を転々として、アジアにいることもあれば、アメリカの方や、ヨーロッパ、果てはソ連の寒空の下でオオカミを撮っていたこともあった。
そうこうしているうちに数十年が経って、今に至る。新聞の欄からは"文通のすすめ"は消えた。季節は春から冬を繰り返し、カメラはフィルム式よりもデジタルが主流になった。高度経済成長によって物価は上がり、ハリウッドスターが何人か死んで、チョコレートには添加物がてんこ盛りになった。それでも俺はカメラマンをなんとか続け、現在は雑誌の表紙に使うための写真を撮っている。
 アーサーがまだ生きているのかは分からない。なにしろ俺は彼の年齢を聞きそびれていたからだ。実家の両親は、健在だ。ポケットに残るネガの青年とはまだ再会できていない。


「大学講師?」
「まさか! 特別講師さ。ゲストだよ」

 久方ぶりに会った友人はおどけた様子で両手を挙げた。俺が眉を寄せてみせると、彼は鼻を鳴らす。いつか二人で行った大学の助教授になった彼がそんな話を持ちかけてきたのは、春先のことだった。
「俺なんかが何を話す? 学歴でも負けてるんだってのに!」
「そんなことを気にするなよ、ナマエ。今を輝く雑誌の表紙を撮るカメラマンに話を聞けるってだけでほとんどの学生はありがたがるぞ」
「だけどなあ、特に面白い話もないよ。現像の仕方でも教えるか?」
「いいや。それよりアフリカで腹を壊して部族の人たちにお世話になった話がいいんじゃないか。妙薬だって、とてつもなく苦い薬草を食べた話だとか──、」
「……写真と関係ない」
「うん。だから、お前が"写真を撮る上で"体験した話とか、国のこととか、苦労話をちょっと芝居がかった感じで話せばいいんだ」
 そんなことでいいのか? いいんだ。コーヒーを啜る友人は涼しい顔で、「なら、決まりだ。来月の末にな。詳細はメールで送るよ」そう言ってさっさと帰っていってしまった。
 ソファーを背に、ぼんやりと天井を見上げる。「……俺なんかが?」未だ、実感は湧かなかった。

 一ヶ月は慌ただしく過ぎ、久しい大学の地に足を踏み込むと俺は昔のことを思い出した。あの頃よりも大学は少し寂れていて(友人が言うには奥ゆかしい伝統、ということだ。)昔ほど居心地の悪さを感じなかった。すり鉢状の講義室に立ち、スライドに映る写真をじっと見つめる。随分若い頃に撮ったものも引っ張り出したので、フィルム特有の粗さが残っている。更にアーサーと文通をしていた頃のものまであった。これに関しては現像の未熟さもあってか光のもやがかったものもある。アーサーに送ったあのバラの写真はそれと比べれば、まあマシではあったけれど──、
「綺麗では、ないなあ」
溜息をついた。多分、当時の俺は「これが最高傑作だ!」と自慢するぐらいの勢いで送ったのだろうが、やはりなんとも言えない野暮ったさが残っていた。アーサーはそんな俺を子供だと思ったのだろうか。でもそんな相手にあんな長文を送るものなのか。俺の心の中に、孤独な老人が一人ぼんやりと浮かんで消えた。

 大学の講義というのはどんなものなのだろうか。俺は大学に通っていなかったので内容についても友人や、大学の職員らと打ち合わせを重ねたけれど、今、ここで話す内容さえ、まだまだ添削が必要なような気がした。
講義室の席は全て埋まっていて、それでも壁際で立ち見をしている学生がいる。俺は初めてこの大学にやってきた頃の話をしながら、青年の背中を映した写真をじっと見つめている。
「私は昔、子供だった頃、アーサーという人と文通をしていました」スライドに映る画像が例のバラの写真に変わる。と、同時にガタン、と音が鳴った。
「……ッ、」
 学生の視線がその一点に集まる。俺も言葉を失ってしまった。──彼は、俺が写真を撮ったあの金髪の青年にそっくりで──いや、瓜二つというほうが正しいかもしれない。立ち上がった彼はぽかんと口を開けて俺を数秒見つめた後、静かに座った。学生達が再び俺の方へ視線を戻す。だが、何も話し始めない俺にやがて怪訝そうな声や、表情が見え始めた。
「……失礼、」一つ咳払いをする。まさか。あれから何十年も経っているのに、あの青年がここにいるのはおかしいじゃないか!
「アーサーに送ったこの写真は、二つあります。一つは白黒のもの、もう一つは色のついたもの……」カラーのバラはぼんやりとした鈍い赤色だった。学生の一人が質問をする。「フィルムの種類が変わったのはこの頃ですか?」俺はそれに頷く。俺はこの頃、インスタントカメラが欲しかったけれど、そのお金はフィルムに消えた。写真を撮るほうが、俺にとっては大切だった。しかし友人が言うには、俺の写真とその社会的背景というのが大切なのだという。あいつはいつも難しいことばかりだ。
 全てを終えると、講義室にはいっぱいの拍手が鳴り響いた。それはしばらく鳴り止まなかった。俺はお辞儀をするふりをして、先ほど立ち上がった青年の姿を探した。彼の背中が、講義室の入り口から出ていくのが見える。ぎゅっと拳を握りしめた。スーツの内ポケットに入れたネガを現像しておくべきだったと、そう思った。



 俺が初めてアーサーの家を訪れたのは、彼と文通を始め、それが終わり、更に長い時間が流れてからのことだった。大学の講義を終えて久々に実家に戻った俺に、両親が一つの手紙を手渡してきたのだ。送り先はアーサー。そして、彼の住所。レターセットは変わらないあのバラの型押しのもの。消印の日付はその渡された当日だった。
俺がその手紙を読んでいる間、母は二階へ行って、それからたくさんの封筒を束ねたものを持って降りてきた。
「アーサーがあなたに送ったものよ。彼、あなたがここを出てからも手紙を書き続けていたの。でも、それから数年くらいして彼からの手紙が来なくなったの。……でも、驚いたわ! まさか、あなたが帰ってくるタイミングでまた手紙が来るなんて」
 アーサーからの手紙は彼にしては珍しく荒っぽい感じで、便せんの内容は二枚に留まっていた。ところどころ誤字や、それを消した痕跡が残っていたけれど、もし良ければ会いに来てくれないか、ということが書かれていた。
「なんて書かれていたの?」覗き込む母を尻目に、俺は急いで椅子から立ち上がった。「明日一番の電車でロンドンに行くよ!」アーサーからもらった手紙の束を鞄に詰め込み、俺はそう叫んだ。父が何事かとやってきて、母と顔を見合わせている。「俺の部屋、そのままになってる?」「ええ、なにもしていないわ……でも、どうして?」「現像をするんだ」

 ロンドン行きの朝一番の電車は、思ったよりも空いていた。それもそうだろう、平日の早朝だ。堅い席に座り、アーサーからの手紙を読む。
 初めは、俺の生活についてうまくやっているかとか、心配しているような内容から始まっていた。それから、随分忙しいんだろう、何度も写真を見返している、バラが綺麗に咲いた。段々と彼の生活について触れるようになり、時折書いたところを消したような痕跡も残っていた。
"ナマエの名前を雑誌で見た。本当に、いいカメラマンになったんだな。" ──彼が最後に送った手紙には、そう書かれていた。インクの滲むその手紙は一枚の便せんで終わっていて、最後の行には小さく彼のサインがしてあった。
 電車がロンドンへの到着を告げ、俺はタクシーを拾って彼の家の住所に行くよう頼んだ。冷たい空気が体を包み、手紙でかさばった鞄ががさがさと音を立てる。
 アーサーの家は、ロンドンの郊外にあった。広い屋敷は高い門で囲われていて、緑が生い茂った庭園が見える。俺は何度も彼の住所を確認したのち、深く息をついて、インターホンを押した。
「はい」若い男性の声。「すみません、アーサー・カークランドさんは、ご在宅ですか?」「……はい?」「私は、ナマエといいます。アーサーさんと数十年前に、文通をしていました」それからややあって、「少し待っていてくれ。すぐに行くから」若干くぐもった返事が聞こえた。

 アーサーがまだここにいるならば、彼はもう随分な年だろう。俺のことを覚えていて、それでいてここに呼び寄せたのならば、それほど嬉しいことは後にも先にもないに違いない。
高い門がぎい、とさび付いた音を立てた。若い青年が顔を出した。「……ああ、」彼はそう呻いて、俺を見た。俺は彼に見覚えがあった。あの、講義にいた青年だ。「君は……」吐き出した息で視界が白く濁る。だけど彼の金髪と、緑色の目のことは、鮮明に思い出すことができた。
「アーサーは……」
「写真、」
彼は俺をじっと見て、そう呟いた。
「写真?」
「ああ。いつかまた会えたら、渡してくれ、って」
 ぱち、と頭の中でいくつかの閃光が見えた。モノクロの写真に、色をつけたようなものだった。咄嗟にコートの内ポケットに入れていた写真を取り出して、目の前の彼と見比べた。何一つ変わらない、あの頃と同じ青年が、そこにいた。
「どうして?」
呆然とする俺の問いに、青年は困ったように首を傾けた。「俺の名前は、アーサー。アーサー・カークランド……」彼の呟いた言葉は、まるで呪文のようだった。
「アーサーは、俺よりずっと年上なんじゃ?」
「ああ。もし、お前……いや、ナマエが、ファンタジーの類が好きだったなら、もう少し説明はうまくできると思うんだが」
「あなたは年でも取らないのか? それともタイムスリップでもしてきた? それとも冗談?」
「いいや。……俺はそのどれとも違って……なんて言うのか、ああ、くそ!」彼がアーサーだとすれば、悪態をつくのは初めてだ。
「俺は人と時の流れ方が違うんだ」
「つまり?」
「バラは鹿より早く散って、鹿は人より早くに死んで、人は国より早く死ぬのと同じ。それぞれに寿命があるが、俺は人よりも寿命が長いんだ、とても」
 神妙な顔でそう話す彼は、とても嘘をついているようには見えなかった。「じゃあ、俺が大学に行って写真を撮ったのは」「ああ、俺だ。だから、会うのは初めてじゃないんだな?」そう言って、彼は嬉しそうに笑った。

「どうあれ、ここで立ち話をしてても寒いだけだし、上がっていけよ。たくさん話したいことがあるんだ」

 色あせない輝きを持って、アーサーの緑色の目が静かに俺を捉えた。それを俺が撮りたいと思ったのはあの頃と全く同じで、何もかもを手放しで信じることができるような気がした。


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