彼に二回目の昇進を告げ、抱き締められたときに感じた暖かさは確かに生きているもののそれだった。という感慨を、(記憶をなくしてからのことになるが、)初めて抱いたことは私にとって興味深い経験になっている。「ドクター」と彼が私を呼び、彼が私の米神に擦り寄る。そのとき、彼の耳がつむじの辺りを優しく撫ぜた感触があって、“慈愛”なんてフレーズが不意に頭をよぎった。
 それまでを振り返ると、ハグ自体は慣れているという程ではないが、それなりに経験があった。外交的な仕草での抱擁を除けば、例えばロドスの艦内にいる子供たちのなかで、スキンシップを特別好む子がよく私にそうしてくる。しかし大概、そういった子供たちは私の背よりもずっと小さく、きゅっと腹部を締められるような感触はコルセットに似ていた。微笑ましいものだ。一方、外交的なそれの場合はどちらかというと緊張を抱くもので、畏れがまず先にやって来る。私にとってはそれが“ハグ”に感じるものの全てだった。
 が、私よりも背の大きな彼が、まるで子どもたちのようにそうした時、微笑ましいとも畏れともつかない感情が生じたのだ。だから改めて──それを彼に友愛や返礼のための手段だと教えた身でありながら、私はその本質を彼──ウインドフリットによって、初めて実感として知ったのだ。今では、そう思う。

 ある日の午後、承認書類の確認作業が一段落し、仮眠室で眠るでもなく横になっていたところ、開け放していたドアからオペレーターのロビンが執務室を訪ねてきたのが見えた。懐かしい電子記録媒体を手にした彼女が、なにか探すようにしばらくその場を歩き回っていたので声を掛けた。すると、その媒体に保存された映像を再生できる機器を探していたのだという。カシャが私なら知っているかもしれないと話したらしい。多分、前に艦内の催しで古典映画上映会をした時に、機材の運び出し許可を卸したのが私だったからだ。
「ごめんね、ドクター。休憩中だったのに」
「大丈夫。いつもぼーっと目を閉じてるだけだから、却って仕事のことを考えてしまうんだ。こうやってなにか探したりする方が、いい息抜きになる」
 ロドスで通常使用される作戦記録を再生する新型の機器と違って、旧型の再生機器の殆どは同様に型落ちした他の機材と共に倉庫の一角に収められている。だから特定の機材を探し当てるというのはそれなりに労を要するが、暇をつぶすのには最適だ。
「ところで、そのビデオはどこから持ってきたんだ?」
「これ? この前クルビアに寄ったときに他のオペレーターさんからお土産でもらったんだ。ランクウッドで撮影された古い映画なんだって」
「そうなのか……古典商で買ったのかな? 知識としては知ってたけど、初めて見たよ」
「私も。くれた人が言うには、名作みたい」
「もし良ければ、私も観ていいかな?」
「うん、もちろん! でも、まずはちゃんと再生できるといいんだけど……」
目の前にあったダンボールをずりずりと動かすと、目当ての再生機器が重なって入れられた箱を発見した。ロビンに手伝ってもらいながらそれを通路まで出すと、中身を順番に取り出していく。

「これは、壊れてる。……これもだ。これも……あ、限定品! でも壊れてる」
「全部スクラップなのかな……?」
「そうだとすると……私が記憶してる限り、この箱にあるのが全部だったから──」
私とロビンは共に顔を見合わせた。再生機器が見つかりさえすれば映像は見れるものと思い込んでいたので、すっかり名作を鑑賞しようという心積りだったのだ。彼女の顔にも落胆の色が浮かんでいる。それをなんとかしてあげたいと思って、考えを巡らせる。
「そうだ。エンジニア部に行ってみないか? クロージャに頼めば……」
「うーん……仕事じゃないし、クロージャさんはいつも忙しそうだから、なんだか悪いよ」
「でも、ロビンはこの映画を観たかったんじゃないのか?」
「そうだけど、このビデオを持っていればいつでも観れるから大丈夫。また次の街に降りたときに、これと同じ再生機器がないか探してみるよ」
「そう?」
「うん。ドクターも、一緒に手伝ってくれてありがとう」
「こちらこそ。いい息抜きになったよ」

仕方なく、私は彼女と共に再生機器の箱の中に戻し、元の場所へと片付けた。それから彼女と別れて執務室に戻り、再び仕事を始めたのだった。

 夜の八時を回った頃、ウインドフリットが執務室へと訪ねてきた。
「ドクター、こんばんは!」
「こんばんは。ええと……」
彼が訪れるのは大抵日中のことなので、私は少し驚いた。用向きを尋ねようとすると、彼はじっと私を見つめて言った。
「どうしたの? なにか相談が?」
「……夕ごはん。それからお昼も食べていないって、食堂の人から聞きましたよ」
思わぬ内容に面食らう。なぜ彼がそんなことを。
「ああ。えっと……そうだな。今日は食べてなかったかも?」
そう答えると、ウインドフリットが眉を下げて私を見た。責めている性質のものではないが、なんとなく罪悪感が刺激された。
「今日だけじゃなくて、昨日と、一昨日も……最近はずっと見かけないと食堂の人たちが話していました。ドクター、ちゃんと食事は採っているんですか?」
こういった物言いに既視感を覚えるのは、アーミヤやケルシーを始めとした他のオペレーターや職員にも言葉を変え品を変え、似たような指摘を度々されているからだ。痛いところを突かれたとも言う。
「う、いや、その……じゃあ今から! 今から食べに行こうかな!」
するとウインドフリットは顔を輝かせて、後ろ手に持っていたらしい包みをさっと私へ取り出してみせた。
「そうですか! じゃあ、良ければ僕と一緒に食べませんか? ホットドッグを貰ってきたんです!」
彼の満面の笑顔を見て断れるはずもない。なるほど、といつか読んだ彼の恩師からの手紙の内容を思い出した。

 応接用のデスクにウインドフリットが持ってきた包みを広げて、彼をソファへと座らせた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「あ、ありがとうございます……! コーヒーを、お願いします」
 給湯スペースからから目を向けるとそわそわと尻尾を揺らす彼の様子が見え、少し口元が緩む。ステンレスのカップにインスタントのコーヒーを淹れて、彼の元へと戻った。対面になるように座り、彼にお礼を言ってから温かいホットドッグに手を付け始める。クルビアに降りた際に補給した物資の中のソーセージだとウインドフリットが教えてくれた。
燻製の香りが強く、濃い目の味がパンに合って美味しい。そう伝えるとウインドフリットは笑って、大学時代にもよく食べた、自分にとっては慣れ親しんだ故郷の味だと言った。
「ドクターが気に入ってくれたのなら嬉しいです。もし次にクルビアに行く機会があったら、別の食べ物……ドーナツとかも試してみてください! とびきり甘いけど、砂糖もミルクも入れない濃い目のコーヒーなんかに合って美味しいんです。研究で疲れた日なんかに食べると最高ですよ!」
ウインドフリットは一つ一つ思い出を辿るように、表情をころころと変えて私にクルビアでの話をしてくれた。
他のオペレーターの場合もそうだが、データ上に記録された言葉として理解するよりも、生身に接する方がずっと彼らの姿は雄弁だ。私は彼らとの交流に関して消極的な方だが、時折──とりわけ彼らの文化的な側面に接したとき、知りたいという意欲が湧く。ただ、それが私の一方的な理解に留まることは、交流としての礼を欠いているとも思う質だ。
 何が言いたいのかというと、彼の話を聞きながら、私は今日のロビンとの出来事を彼に話したくなった。ちょうどクルビアの文化の話でもあるしと、話に一区切りついてコーヒーを飲んでいたウインドフリットにビデオのことを話してみた。すると彼は、壊れた再生機器の話題に差し掛かったところで少し考え込む様子を見せた。
「──それ、もしかしたら僕が直せるかもしれません」
そして彼はそんなことを言った。
確かに再生機器は機械ではあるが、旧型のものであるのでウインドフリットが興味を示したのは意外だった。
「複数同じ機器があるんですよね。ドクターの話を聞く限り、完全にスクラップになっているわけではないみたいだし……それぞれに残っているパーツをうまく活用できれば、再生機器として使えるものができるかも」
「本当に? じゃあ、お願いしようかな」
「ええ、任せてください。そうと決まればすぐ!」
勢いよく立ち上がったウインドフリットの尻尾が激しく揺れる。しかし私は壁掛けの時計を確認して、もうすぐ夜の九時にかかることが分かると彼に向けて首を横に振った。
「九時以降は倉庫は電子ロックが掛かるんだ。それ以降に入るにはクロージャに予め申請しておかないといけないから、するなら明日にしよう」
「え? あっ! そうでした……」
ウインドフリットは少し照れたように笑って、再びソファに腰を下ろした。私は明日の予定はどうだったかと思い起こす。
「私は明日、午前に来客があって……正午にもミーティグがあったはず。午後の二時以降なら事務仕事だけだから、予定が空けられるんだ。君の予定を聞いてもいい?」
「はい。僕は……明日は朝一でエンジニア部みんなでやる機器メンテナンスがあって、それがどのくらいかかるか分からないんです。もしかしたら夕方まで掛かるかも」
「忙しいんだな。急ぎの用事ではないから、無理をしなくても大丈夫だよ。また気が向いたときにでも声をかけてくれれば──」
「うーん……」
考え込む彼になんだか困らせてしまったかな、と心配になる。エンジニア部での仕事を大切にしている彼のことなので、私の個人的なお願いに付き合わせるのは申し訳ない。はっきり別の人に頼むよ、と声を掛けようとしたところで、「そうだ!」と彼は顔を上げた。
「僕がクロージャさんに申請しますから、今日と同じくらいの時間にまた会いませんか? それで倉庫に行って、機器の様子を見て、修理ができそうだったらそうしましょう」
「ええ、いいのか? 流石に悪いよ。君も疲れてるんじゃ……」
時間外労働という単語が頭をよぎる。いや、仕事ではないのだが、彼の知識や技術を借りるわけだし、なにか労働契約違反が起こりはしないだろうか。
「大丈夫ですよ。それに、旧型の機器だって思いもよらないアイデアや発見があるかもしれません。ドクターの話がなければ僕も気に留めることがあったかどうか。いい機会だと思うんです。ぜひやらせてください!」
にっこりと笑う彼に、私はそうかと頷いた。
「じゃあせめて──明日の夕飯は私が用意しておくよ。なにか食べたいものはある?」
「いいんですか? じゃあ、何にしようかな……うーん……あっ、パイ生地を使ったものはどうですか?」
「わかった。それならきっと大丈夫だ。今日みたいに食べやすい感じにできるかお願いしてみるよ」
「ありがとうございます、ドクター!」
楽しみだなあと呟く彼に笑いかけて、私は食べ終えたホットドッグの包みを畳んだ。その後も少しだけ雑談して、ウインドフリットが2杯目のコーヒーのお代わりを飲み切ったところでお開きになった。
別れ際に、彼は思い出したように私に言った。

「そうだ、ドクター。明日もお昼はきちんと食べてくださいね?」
「え? あ、ああ。分かってるよ」
「……絶対ですからね? じゃあ、おやすみなさい。明日また!」

 執務室を出るとウインドフリットが通路の角を曲がるまで見送って、私は戻った。なんだか珍しく交流的な一日だったと、私の心は充足感で満たされていた。



 翌日の正午からの会議は考えていたよりも長丁場になり、終わる頃には二時近くなってしまっていた。この時間の約束でなくて良かったと安堵しながら、会議アプリのステータスを離席中に切り替えると、背もたれに体重を預けて息をつく。
デスクの引き出しに入れていた携帯食でも食べようかと思ったところで、昨日のウインドフリットとのやりとりを思い出した。確か食堂はまだランチを出している時間のはずだ──了承したからには、きちんと言いつけを守らなければ。
開けかけていた引き出しを閉じ、私は重い腰を上げた。

 ランチのピークタイムはとうに過ぎ、テーブル席にぽつぽつと座る職員がいるのみで食堂は静かだった。
職員たちとそれぞれ挨拶を交わしつつ、カウンターまで訪れる。人の姿が見えないので「すみません」と声を上げてみるとぴょこりと黄色の丸耳──グムが厨房から顔を出して、私の姿を見ると目を見開いた。
「えっ、ドクター!?」
「ああ。今からお昼を──」
「みんなー! ドクターだよー! ドクターが来た!」
 私の声を遮って出されたグムの大声になんだなんだと料理人たちが集まってきていたたまれない。私の姿を見てまたざわめきが起こるので、今度からはロドスの幽霊になるまいときちんと顔を出すよう心に留めた。どうしたものかと考えていると、グムは我に返ったようで照れたように舌を出した。
「えへへ、ごめんね……ドクターが来てくれてびっくりしちゃったんだ。こんにちは!」
「うん、こんにちは。えっと……」
「注文だよね。おやつで来た? まだランチも出せるよ。何食べるの? 今日のおすすめはカランド風シチューと厚切りのパンのセットだよ! 豆サラダの付け合わせがあって……そうだっ、アイス食べる? トマトとオレンジのアイスが──」
「ちょ、ちょっと待って! ええと……シチューだけ貰えることはできるかな。アイスとか、他のものはまたの機会に」
「それだけでいいの? ドクター、食べられるときに食べておかないと!」
「ありがとう。でも、今日は夕飯を重めにするつもりだから……そうだ」
シチューと、ついでに夕食のことを頼む。二人分、片方は少し多めに。私の細かいオーダーにもグムはまかせて! と頼もしく言って、夕食時に禽獣のパイ包みを届けてもらえることになった。出来上がったシチューの皿が載せられたトレイをグムから受け取った後、適当な席に座った。

「ドクター、お昼ごはん?」

 少し離れたところから声がして、その元を探して見ると、入口近くのテーブルを挟む通路にA6のメンバーであるポプカルが立っていた。その後ろから同じく隊のメンバーであるスポットが歩いてきて、私と目が合う。
「……どーも」
彼は気怠げに会釈した。よくよく見ると、彼自身が見た目に頓着しないタイプであることを差し引いても、やけにぼろついた風貌になっている。訓練をしていたのだろうか。ただ、彼の目は「何も聞くな」と語っているようなので追及は控えた。
二人が私のところへとやって来る。
「二人ともこんにちは。訓練終わり?」
代わりにポプカルに問いかけると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ううん。今日はお休みで、スポットお兄さんが一緒に遊んでくれたんだ……それで、おやつを食べに来たの」
「ああ、なるほど」
そうなの? とスポットに目で尋ねてみて、彼はそうだ、と目で頷き返した。
「おやつもらってくるね……! だから、スポットお兄さんはドクターと座っててだいじょうぶだよ」
「え? 俺は──ああ、行っちまった」
スポットはゆっくりと視線を私に向け、胡乱げに首を傾げた。
「……ここで仲良く座れって?」
誰に言うでもなくそうぼやきながら、彼は私の斜め向かいの席に座った。「どうか気にせず食べててくれ」彼は漫画を取り出すと、ぱらぱらと捲って読み始める。前に降りたクルビアは発展している地域なので、漫画好きの彼は相当新刊を仕入れたのかもしれない。

 私はしばらくシチューを食べるのに専念していたが、ふと目に入った彼の漫画の表紙を見て、映画化していた作品だと気づいた。
「スポット、一つ聞きたいんだが」
「……なんだ?」
「君って映画は好きだっけ」
彼は眉間に皺を寄せ、漫画をぱたりと片手で閉じた。彼はちらとその表紙に視線を移し、それからフーと息をついたのち──「実写化はクソだ」と答えた。
「いや……まあそれは言い過ぎかもしれない。手作りって感じで味のあるやつもあるが、でも、キャスティングが気になる映画とか、無駄に続けすぎて必要な前提知識がなきゃ楽しめなくなった映画は大抵駄目だな」
相当括りがあるらしい。
「実写化じゃなくて、オリジナルのものは見たりしない?」
「恋愛もの以外なら見る」
「じゃあ、例えばランクウッドの映画は?」
そこでスポットが片眉を上げ、すかさず一人の監督の名前を上げた。分からないと言うと、「それ本気か?」と彼は少し驚いたように言った。
「今言った監督の映画はな、毎回やってることとか、テーマは擦り切れるくらい同じなんだが、かえってそこがいいんだ。どの話も何も考えずに見れるのに、見返すたび、さりげなく色んな要素が詰まってるのに気づかされる。押し付けがましくない感じだ」
「へえ……見返す? ビデオを持ってるのか?」
「ああ。ドクター、あんたも見てみるといい。俺が一番いいと思うのは──」

彼がその監督に付いて熱弁を振るうのを聞いていると、二つのアイスの皿を持ったポプカルが戻ってきて私の隣に座った。一つがスポットに手渡され、「映画の話してたの?」もう一つの自身のアイスにスプーンを突き入れながら、彼女はそう尋ねてきた。
「うん。いまスポットが──」
言いながら彼を見るが、彼は咳払いし、「大した話じゃない」と首を横に振った。心なしか少し気まずげに見える。そのままスプーンを片手に先程の漫画を開き始めたので、もうこれ以上さっきの話はしてくれないのだろう。
「ポプカルもこの前、みんなと映画みたよ」
代わりにポプカルが、別の映画について話し始めてくれた。
「どんな映画?」
「えっとね……頑張り屋さんの動物の、面白くて最後は悲しい話。スポットお兄さんもちょっとだけ泣いてたもんね」
「……」
スポットの漫画を読む手が止まる。
「え、ほんとに泣いた?」
「……あんな分かりきった展開で泣けるとは思わなかったんだ」
にわかに信じ難いが、スポットが泣くくらいの映画が存在する。興味がそそられた。
「ええっ。ポプカルはどうなるのか全然わからなかったよ。だからたくさん泣いちゃったし……スポットお兄さんはすごいね」
「いや……どうなるのか分かりきってるより、ポプカルみたいに分からないことが多いほうが、ずっと楽しめるさ」
「そうかなあ……?」
「ああ。あの映画、悲しいところもあるけど、面白かっただろ?」
「うん! 悲しかったけど、面白かったよ。それにね、ドクター……動物がかわいいんだ。死んじゃうんだけど、でも、最後に天国で一番最初の飼い主に会えるの……あっ」
楽しそうに話していたポプカルは、そこで顔を曇らせた。どうしたのか尋ねると、「お話の内容を言っちゃった、ごめんね、ドクター……」と困ったような顔を見せる。私はどう答えるべきか迷った。
「問題ない、ドクターは初めから展開が分かるタイプだ。……そうだよな?」
すかさずスポットが助け舟を出してくれた。私はこれ幸いと便乗する。
「ああ。それに、分かっていても泣けるみたいだし、大丈夫」
私の言葉にスポットが肩をすくめた。「あんただって、見たらきっと泣くに決まってる」彼がそう言うので、私は頷いた。きっといい映画なんだろう。

 それからしばらく三人で映画の話をして、その流れで私はまたロビンがもらったビデオにまつわる出来事について話した。二回目ともなると流石に話し慣れてきたのが自分でも分かった。そのまま昨晩のウインドフリットとのことも話すと、スポットが反応を見せる。自身の盾の整備の関係で、交流を持っているのだという。
 3時近くになり、休憩から戻らなければな、と私は執務室に戻ることにした。私の分のプレートも戻してきてくれるというポプカルに甘え、私は彼女に空になったそれを預けた。席を立ったスポットは、ふと思い出したように私を見た。

「ああ、そうだ、ドクター」
「どうした?」
「今日の夜ウインドフリットに会うなら、新刊を買ったって伝えておいてくれないか?」
その言葉に普段の二人の関係が見れるようで、私は思わず笑った。
「わかった。伝えておく」

戻ってきたポプカルにお礼を言って、私は二人と別れた。



 エンジニア部が忙しいかどうか、そんな疑問は、日々のクロージャの様子を見れば一目瞭然だ。午後七時を回った頃、私は一度なんとはなしに執務室から廊下に出たが、節電状態で照明の落とされたほの暗い通路が続いている──と、そこに人影が見えて、彼かな、と思ったが違った。食堂の職員だ。私と目が合った彼は「こんばんは! お疲れ様ですドクター」と声を上げてこちらへとやって来た。

「頼まれていた禽獣のパイ包みです! 出来立てで熱いので、気を付けて」
「ありがとう。あ、いい匂い。おいしそうだね」
「もちろんです、腕によりを掛けましたから!」
「楽しみだ……そうだ、今日のシチューもおいしかったよ。また食べに行かせてもらってもいいかな」
「もちろんですよ。みんな喜びます!」

 良い夕食を。そう言った彼にお礼とお疲れ様と返し、去っていくのを見送る。彼の背中が通路の向こうに消えてからも私はしばらくそこに立っていたが、また通路はひっそりと静まり返った。やはり、まだまだ忙しいのだろう。温かなパイ包みの入った袋を抱え、私は執務室へと戻った。
ただ待っているのもなんだからと急ぎでない仕事を片付けているうち、八時を回っていた。昨日、ウインドフリットがやって来たのはこのくらいの時間だった。他の部門でも残業があればこんなものかな──と考え、しかし改めて考えれば、労働環境としてはおかしいか、と私は仕事をしながら頭を抱えた。その辺りは、また改善しよう。
そんなことを考えていると九時を過ぎる。このまま、彼が自分の部屋に戻って眠ってくれているのなら、それはそれで嬉しい。モニター上で書類を作成していると通知のアイコンが表示される。確認すると、早く眠るようにというケルシーからのメッセージだった。休憩から戻ってきて会議アプリのステータスをオンラインにしたままだったので、それを見かねてのことだろう。
私が彼女にも同じような返事をすると、その気持ちだけもらっておく、という旨の返事が寄越された。私が言うのもなんだが、ケルシーも寝るべきだ。

そして十時に差し掛かった頃──、勢いよく執務室へと入って来る者がいた。ウインドフリットだ。

「ド、ドクター! すみません、遅くなってしまいました……っ」

 肩を上下する彼はエンジニア部の部署からそのまま走ってきたらしい。器具らしきものが入った荷物をどさりと下ろし、彼は私に何度も頭を下げた。私は驚きつつ彼の様子を観察した。作業服は若干汚れているし、髪が乱れていた。爆発でもしたのだろうか? ちらと見えた彼のエプロンの裾に煤らしきものが付いている。なぜメンテナンスで爆発が起こるのかはわからないが、エンジニア部のひとびと曰く、よくあることだ、と。今回もそれだろうか、と私は想像した。
「いや、大丈夫だよ。お疲れ様。君こそ……」
「あ、いえ……僕は……」
「いや、大丈夫じゃないな。そこに座っててくれ。コーヒーを淹れてくるから」
「でも──」
いいからいいから、と彼を強引にソファーに座らせ、私は給湯スペースへと向かった。コーヒーと温め直したパイ包みを持って、昨日と同じように対面で座る。見るからにしょんぼりとした様子のウインドフリットに苦笑して、「落ち込まないでくれ」と声を掛ける。彼は眉を下げて、すみません、と再び謝った。
「メンテナンスは順調に終わった?」
「ええ! 改善点も分かりましたし、ずっと気になっていたパーツの交換もできました。以前よりずっと快適に使えるようになったはずです」
「そうか。詳しい話は食べながらにしよう。オーダー通り、禽獣のパイ包みを用意してもらったんだ」
「はい。いい匂いですね……」
「うん。シェフが腕によりをかけて作ってくれたそうだから」
包装を剥いて、パイに噛り付く。一度冷めたので温め直したものだったが、変わらず軽やかな感触の生地と柔らかな肉が口の中に広がった。「美味しいです」同じように一口食べたウインドフリットが目を丸くして、破顔した。お腹が空いているのか、食べるペースが少し早めだ。彼の分を多めにしておいてもらって良かったと私も笑う。
「本当に美味しいな……」
二日連続で誰かと夕食を取ったのは、記憶を失ってから初めてだった。ウインドフリットが今日一日の出来事を話すのを聞きながら、私もいつもよりゆっくりと夕食を食べた。

 私がパイ包みの最後の一口を食べ終えた頃、私よりも先にそれを食べ終えていたウインドフリットの頭が舟を漕いでいるのに気づいた。少し前から、口数も少なになっていた。時計を見ると彼がやって来てから四十分程度経っている。十一時近くなったし、一日の疲れが出たのだろう。このまま倉庫に向かう予定だったが、彼を休ませた方が良さそうだろうと私は判断した。
ただ、休ませるにしろ私が声を掛ければ、彼が恐らく無理やりにでも起きようとするであろうことは、これまでの付き合いで見た彼の性分から予想できた。舟を漕ぐ彼がほぼ眠りに就きつつあるのを確認してから、ゆっくりと誘導するようにソファに寝かせた。「ドクター……」彼のぼんやりとした呼気が、彼の頭を支えていた私の手首にかかる。
薄っすらと目を開ける彼は、不思議そうに私を見た。この様子では、やはり声を掛ければ素直には眠ってくれなかっただろう。私は安心させるように、彼に笑いかけた。
「少し待っていてくれ。カップを片付けるだけだから」
「……わかり、ました……」
そのまま彼の目が完全に閉じられ、深い眠りに入ったのを確認する。それからテーブルの上のコップや包装を片付けた。最後にいつも仮眠用に使っている自分のブランケットを持ってきて、彼にかけておく。
「おやすみ」
書きかけていた書類だけ完成させてしまおうと、私は自分のデスクへと戻った。



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