──ちょうど三杯目のコーヒーを飲もうとした頃、ソファの方から聞こえていた規則的な呼吸音が一瞬止んで、深く息を吐き出すような音が聞こえた。空になったカップを片手に立ち上がっていた私は、ソファの背もたれの向こうから顔を上げたウインドフリットと目が合う。
「ドクター……?」
起き抜けでぼうっとしていた様子のウインドフリットは、しばらく私をぼんやり見ていたかと思うと、急にはっきりとした顔つきになってじっと私を見た。そして彼は一度壁の時計を一瞥し、深夜の二時を回っていることを確認すると、再び私を見て呆気にとられたような表情を見せる。
そんな彼の表情にデジャブを感じる──昨日、夕食を取っていなかったことを咎められた時のような。この場合、次に起きるのは。
「起きていたんですか?」まず、この問いかけは予想できた。上々だ。
「ああ、まあ」
「仮眠を取って僕より先に起きた──というわけではなさそうですね」
「……」
「ドクター。先に眠ってしまった僕が言うのは失礼かと思いますが、睡眠を取ることは大切ですよ」ふむ。
「……そうだね」
「……」
「いや、初めは書類を書き上げたら終わりにしようかと思っていたんだ。でも、つい」
「ドクター」
彼の呆れたような表情に耐え切れず、私は弁明を図ろうとした。が、あえなく失敗に終わった。
ウインドフリットは起き上がると、こちらまで歩いてきて、私の持っていたカップをそっと取り上げた。そのまま彼は給湯室へと向かっていき、それからすぐに戻ってくる。いつも笑顔な彼の真顔には中々の圧がある。
「ウインドフリット──」
「少し待っていてくださいね。すぐに準備をします」
彼はソファに残されていたブランケットを畳み、それから、ここに来た時に持ってきた荷物からいくつかの器具や、小型の暖房器具らしきものと、ビニールシートを取り出した。そして私へと向き直ると、彼はようやくこちらに笑顔を向けた。
「では、行きましょう」
「あ、ああ……?」
少し、私の考えていた展開とは異なったものになった。てっきり、寝かせられるかと思っていたが。だが、当初の目的は果たせられる。彼と共に執務室を出て、私たちは例の倉庫へと向かった。
真夜中の廊下は、夜間でも動くこの方舟の静かな駆動音と、排熱ファンの音が僅かに聞こえていた。やはり明りには乏しい。前を行くウインドフリットの足元から影が伸びている。それを辿るように、私は彼に着いて行った。
倉庫に着くと、今度は私が例の再生機器の置かれた区画まで彼を案内した。
「やっぱり、少し冷えますね」
彼がそう言って、持ってきて正解でしたと小型暖房機器を持ち上げる。私は少し笑って頷くと、電源の延長コードを引っ張ってきてその機器と繋げた。その間に、ウインドフリットはビニールシートを床に敷いていた。
この前は惜しくも仕舞い込んだ再生機器の段ボールを引っ張り出し、敷かれたビニールシートの上に置いていく。一通り出し終わると、ウインドフリットは顎に手を当てて考え込む様子を見せた。彼はそのまましゃがみ込む。
「どう? そこにあるものだけで直せそうかな」
「……ええ、これは……」彼はいくつかの機器を見比べて、「大丈夫そうです」と返事をした。
「よかった。じゃあ、私も何か──」
「いえ、ドクター」
ウインドフリットが振り返り、私を見た。またもや真顔だ。おや、と思い彼の言葉を待つ。
「お気遣いは嬉しいですが、修理にそう時間はかからなさそうです。ですからどうか、僕が作業をしている間、今度はドクターが眠ってください」
私は目を丸くした。
──なるほど、だから私は執務室では寝かせられなかったのか。恐らく、執務室に私だけを残せば寝ずに仕事を続けるかもしれないと彼は考えたのだろう。信用されていないというか、ある意味信用されているとも言える。そして同時に彼から差し出されたブランケットに、わざわざそれが持って来られた理由も分かった。単に暖を取るためではなかったようだ。私は苦笑して、分かったよと頷いた。ウインドフリットはようやく安堵したように息をついて、私へ笑いかけてくれた。
そのまま彼の申し出に甘え、私はビニールシートの上に横になった。ブランケットを体に掛けて身を縮こまらせると、小型暖房機器の暖かな微風が肩に届く。頬を付けたときに感じたビニールシートの冷たさは、すぐに消えた。眠さは特に感じていないと思っていたが、横になるとすぐ、根を張ったようにそこから離れ難くなった。その欲求に抵抗せず眼を閉じる。作業用のスペースを確保したウインドフリットが軽く身じろぎしたのか、ビニールシートのごわついた音が耳に入る。
どこかでこの音を聞いた。なんだったか。確か、波だ。あのシエスタの湖で耳にした……。
記憶を辿ろうとすると、自分の体の重みが消えていくような感覚に陥る。これまで何度も感じて来た、眠りに落ちる前の感覚だ──抗おうとは思わなかった。暖かなそれには、抗いにくい。
◆
波。砂浜。砂の匂い。頬に触った砂のつぶて。風に吹かれた埃の擦れた音──。
懐かしい夢を見た。私が石棺から目覚めたあと──戦場となったチェルノボーグでの出来事の夢だ。私はそのとき、まだ意識が朦朧としていて体中が長い眠りによって衰弱していた。チェルノボーグでは歩くたびに煙の臭いと、痛みと、息切れから来る喉の渇きを感じていた。アーミヤが繰り返し、私に「大丈夫ですよ」と話しかけている。
鉱石病。感染者。ロドス。天災……。自然と私はそれらの事項を記憶した。
それから少し後、彼女──タルラが現れ、おおよそ人ならざるような炎で辺りを燃えつくし、その火の手が一人のオペレーターに回り、その体を焼いた。その時、私は不意に気づいた。では次にどうするべきか、そんなことを考えているのに。私は狼狽した。誰かが死んだからではない。自分の使い方を、自分自身が覚えていることに気づいたからだ。それは目の前の超常的な現象、即ち、タルラのアーツ──何をどうして、どう使えば、この状況を切り抜けられるのか、という思案。
私が自認している“今の私”というのは、私の記憶に連続性がないためにそう表現している、便宜的な呼称に過ぎない。以前の私がどんな人間だったかのは知る由もない。しかし、私は、過去の私が、今の私に地続きであることを、その時に知ったのだ。
だから、私はその時──。
◆
「──クター、……ドクター」
「……」
「起きられますか? ドクター……」
体を軽く揺すられる感覚に、私は眠りから覚めた。肉体の重みが戻って来る。肩が灼熱のように熱い。暖房に近すぎたのだろうか。気怠いままにゆっくりと目を開けると、気遣わしげな様子のウインドフリットが私を見下ろしていた。
「すみません、少し魘されていたようだったので……」
「ああ……」私はぼんやりとしたまま、自然と呟いていた。「夢を見てたんだ」
「夢を?」ウインドフリットが首を傾げる。
「うん。でも、どんな夢だったか忘れてしまった」
実際には覚えていたのだが、話題にし辛い内容だったので嘘をついた。するとウインドフリットが眉を下げ、「すみません。やはり、ここでドクターを寝かせるべきではなかったですね」と言った。なんだか昨日から彼を謝らせてばかりだと、安心させてあげたくて、私は首を横に振る。
「まさか。君が連れて来てくれなかったら、私は眠らなかったさ」
「え、あ……そ、そこは眠ってほしいです、ドクター!」
彼は困ったまま、だけど雰囲気を柔らかくしたのを見て、私はほっとした。
「起こしてくれてありがとう」
私の言葉に彼は一つ頷き、それから気を取り直したように私と目を合わせる。
「直りましたよ」
彼は、そう言って微笑んだ。
ウインドフリットが見せてくれた再生機器は、なるほど確かに修理品だと、異なる外装やパーツが組み合わされた見た目からも分かった。そして彼は、私に一つのビデオ──ロビンが貰ったものとは違うそれ──を見せてくれた。聞くと、再生機器のジャンクの一つに、挿し込まれたままだったのを取り出したものだという。ラベルはなく、どのような内容のものかは分からない。せっかくだからと、彼が修理してくれた再生機器の試運転も兼ねてそのビデオを見てみることにした。そのために、私たちはモニターのある執務室へと戻る必要があった。
倉庫から引き上げて私の執務室へと戻る道すがら、今度はウインドフリットと並んで廊下を歩いた。行きよりも少し明るい。窓側を歩いていたウインドフリットが、ちらと空へ視線を向けて口を開く。
「あっ、向こうの空が明るいですね」
「本当だね。もう朝か……」
そう呟くと、ウインドフリットが私を見て、そういえば、と思い出したように言った。
「僕、ロドスに来てからここまで夜更かししたのは初めてかもしれません」
「そうなの? 徹夜は経験済みかと思ってた」
驚いて彼を見ると、彼はあはは、と笑う。
「僕がエンジニア部だからですか? でも、いつも気づいたら眠ってしまっているんですよね。だから、徹夜だったことは今まで一度もないんですよ」
「……それ、疲れて気絶してるんじゃないか?」
「そうとも言います」
「ええ、大問題だよ! ……もしかしてクロージャに弱味を握られてるわけではないよね?」
「まさか!」
笑っていたウインドフリットは、不意に眩げに目を細めた。窓からはっきりとした陽光が射し込んだからだ。陽に反射して細かな埃がきらめくのが見える。「君がうまくやれているならいいんだが──」私はそのまま言葉を続けることはせず、口を閉じた。彼の尻尾が緩く揺れているのが、彼から伸びた影の撫でるような動きから分かった。
私たちは執務室に戻ると、倉庫から持ち出した変換用の端子を介して再生機器とモニターを繋げた。モニターをソファの前まで引っ張って来ると、ウインドフリットはビデオを片手に首を傾げる。
「何の映像なんでしょう?」
「どうだろう。でも、確かクルビアの……倒産した新聞社から引き取ったものだったと聞いているから……」
「報道用の映像でしょうか?」
「だとすれば、過激な映像かもしれないな。君は見ても平気なのか?」
「ええ」
機器の再生ボタンを押して、彼と並んでソファに座った。しばらく黒い画面が広がった後、粒子の荒い映像が映る。右下には撮影日らしい日付があり、それを見ると何十年も前に撮影された映像であることが分かった。
映像はテープが劣化しているのか時折乱れたが、映っているのは極めて日常の風景だ。撮影者はどこかの街を歩いていて、建物や人の様子が映されている。
「あ……」
ウインドフリットが声を上げた。
「ここ、きっとクルビアです」
「え、本当に?」
「都市部の……今とは様子は違っていますけど、あ、あの建物! 今でもありますよ」
確かに、クルビアの新聞社であれば現地の映像であってもおかしくはない。映像の中では撮影者が足を止め、通行人と会話を交わしている。
──こんにちは。
──こんにちは。それって、カメラですよね。映画の撮影?
──いえ、私は記者です。インタビューをしていて。もしよければ、あなたのお仕事をお聞きしても?
──構いませんよ。私は××地区の工場で働いてるんです。今もこれから、仕事に行くところで……。
映像の中で彼らは仕事についていくつか意見を交わしている。次に会った通行人とも、同様の話をしていた。クルビアの労働に関することがテーマなのだろう。横にいるウインドフリットの様子を伺うと、彼はじっとその映像を見ていた。中断する必要はなさそうだと、私は彼と共にしばらくその記録映像を見ていた。
少し経つと、映像は途切れた。モニターの画面が暗転し、すぐさま別の映像を映す。右下の日付を見ると、先ほどの映像から随分と経っているようだった。今度は日常の様子ではなく、多くの人々──暴徒だろうか、恐らく、どこかの内戦の様子か何かを映した映像だ。ふと、私はその人々の服装や、街の見た目に既視感を覚えた。厚手のコート、特徴的な帽子。建築物……。
ああ、これはウルサスだ。そう思い当たる。
私はウインドフリットにこのまま見続けるのかと尋ねてみた。彼が頷いたので、私もそれを見た。映像の中の撮影者は、しばらく建物から上がる火の手や、煙や、怪我人を映したあと、警察らしき人物に呼び止められ、最終的に片手でレンズを塞ぐ様子が映されて終わった。再び画面が暗転する。次の映像はないようだ。
二つの映像は、両方を合わせても一時間にも満たない、短いものだった。このビデオは後で映像記録として申請しておこうと心に留め、私は立ち上がって再生機器を停止した。
「あの、ドクター」
ウインドフリットが私を呼ぶ。「どうした?」私が端子を外しながら返事をすると、彼に「ドクターはウルサスに行ったことがあるんですよね」と尋ねられた。
「ああ、あるよ」
“今の私”はそこで生まれた、と言っても差支えはないだろう。
「ビデオの二つ目の映像……あれはウルサスでしたか?」
「多分。私が見たものとよく似ていた」
「なら……もし失礼でなければ……その……ドクターがロドスに来るまえに遭遇したという天災の──」
「……チェルノボーグでのことを聞きたい?」
彼がどんな表情をしているのかと思い、私は振り返る。ウインドフリットが「はい」と答えた。私は了承して、ソファに再び座り直す。
「そうだな……ええと、まず、全てのことは話せない。機密事項や、作戦内容、あとは私が話すべきでないと判断したこと──つまり、君に閲覧権限が付与されている概要記録程度の内容しか話せないんだ。それでもいいかな」
「構いません。ドクターの言葉で聞いてみたいんです」
そうか、と私は頷く。「あまり上手くは話せないかもしれないが、」と前置き、私は彼にチェルノボーグで起こった出来事を話し始めた。思えば、あの日から随分と時間が経ったものだ。話しながら、私でさえいくつか思い出したようなことがあった。
そもそも私はあの日、目覚めた瞬間、このテラで生きていくのに必要な知識さえ、何も有していなかったのだ。
◆
「……ドクター、あなたは決して冷酷な人でないと、僕は思います。しかしそういった選択を迫られることはあるでしょう。自分の選択一つで、多くの命がなくなることもある。そのことを恐れはしませんか?」
私がチェルノボーグでの出来事を話し終えた後、ウインドフリットはそんなことを尋ねた。
ウインドフリットがするような問いかけは、これまでにも何度かされることがあった。それは私が指揮官という立場である以上、避けては通れない問答の一つだった。なるほど、これも繰り返した話題かと、私は思った。ただ話すのに快い感覚がないのが、日常の出来事を話すのとは違っていた。
しかし、こういった問いかけに対する自分の答えは随分と前から決まっていた。
「いつも恐れているよ。後悔もする。……そのことはいつも頭の片隅に置かれているんだ。私の行為に並列していると言ってもいい。けれど互いを干渉させることはない。恐れから足を止めることは少ないんだ。私は恐れることを……障害とは捉えていないのだと思う」
「ドクターにとって、感情は行為に結びつかないものですか?」
「難しいな。でも、殆どの場合──特に戦術面ではそうだと考えている。君が私を、冷酷だと思わないでいることは嬉しいよ。ただ、それは事実ではない。私はある意味、冷酷であるからこそ、自分の怒りや悲しみに関係なく様々な選択をできるし、例えそれが客観的に見て優しくあったとしても、それすら選択の一つというだけで。時と場合で振る舞い方を選択しているだけなんだ」
ウインドフリットはそこで考え込む仕草を見せた。私は黙った。
「……いえ、冷酷さや優しさが、先に来るはずはありません。それは生きてきた時間や、場所や、人々の中で培われたもので……行動の結果として表れるものの一つに過ぎないはずです。……それに結果的に冷酷な人がいたとしても、その人を好きでいたり、愛することが許されないわけではないですよね。そして、冷酷な人がかつて誰かに向けた優しさも、なくなることはないはずです」
「私は──いや、そうだな。……私がそれを否定することはできないか……」
「……僕はロドスに来てから、よく他の人の生きてきた生活を想像するようになったんです。それで、単に“嫌な人”や“いい人”と表現できる人はいないのだと考えるようになりました」
「それでさっきの……冷酷や優しさの言葉を?」
「はい。僕にとってのドクターは、色んな言葉で例えられますよ。……ドクター、ハグをしてもいいですか?」
彼の思わぬ言葉に、私は目を丸くした。とはいえ、なんだか真剣な様子だったので、私をからかっているというわけでもないようだ。
「ああ……どうぞ」
「ありがとうございます! 失礼しますね」
ゆっくりと体を屈めたウインドフリットが、私の背に両腕を回した。それに合わせるように、私も彼の背に両手を回した。確か彼の昇進以来だったかと、私は自分の体が緊張していたことに気づいた。少しずつ力を抜いていく。同じ人間だが、どうして彼の体はこうも暖かいのだろう?
それから三十秒ほど経った後、お互い示し合わせたようにそれぞれ体を離した。私は少しの間視線を下げて、じっとソファの革の繋ぎ目の部分を見下ろしていた。
それから意を決して顔を上げる。ウインドフリットは私を見ていたようだった。彼は私と目が合うと、表情を和らげて、ぽつぽつと話し始めた。
「ドクターとハグをすると、いつもドキドキします。……ずっと考えていたんです。それがなぜなのか。あなたが僕の上司だからなのか、僕がただ緊張しているだけなのか……それで、今納得がいったんです。あなたを抱きしめると嬉しい。それが一番だって」
「それは、」
「こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、僕はあなたに何かをしてあげたいって思うんです。ドクターは僕よりも、ずっとたくさんのものを持っているはずなのに」
「そんなことを思っていたのか?」
初めて聞いた内容に、私は思わずそう尋ねていた。ウインドフリットは右耳をぴくりと動かして、頰を搔く。
「……まあその。ドクターには、迷惑な話かもしれませんが……あはは……」
「まさか」私は咄嗟に否定した。「ええと、そうだな。なんて言ったらいいのか──少し待ってくれ」
「え? あっ、はい!」
私は彼からのハグに対する感情の整理を試みた。恐怖ではない。怒りや嫌悪は言うまでもなく、無い。喜び? それとは、また違うような気がする。
彼との初めてのハグを思い起こす。私がウインドフリットと初めて会ったのは、チェルノボーグでの出来事から随分と経った後のことだった。彼とのハグで“今の私”が初めて経験した感情は、縁のように時折思い起こされた。そういった意味では、恐れの感情と似ていた。それは恐れの感情と同じように、私に並列してついてくるようなものになったからだ。しかしそれが恐れの感情と異なっている点は、私にとって障害になり得たということにある。──ある意味、それは脅威だった。
そこまで考えて、ああ、と私は合点する。
安寧だ。安寧が、彼とのハグにはあった。
「……むしろ、逆だよ。私は多分、君が思っているよりずっと、誰かに寄りかかることは好きなんだ」
自然と、そんな言葉が口を滑った。
「えっ?」
ウインドフリットがきょとんとする。
「あ……いや、依存とかではないよ。伝えるつもりは無かったが──」
慌てて弁明をしていると、突然ウインドフリットが私の両肩を掴んだので言葉を止めた。彼の頬は僅かに紅潮して、目を丸く見開いている。
「本当ですか……? それってすごく……すごく嬉しいです!」
「わっ」
そして、彼に再び抱きつかれた。それがあまりにも力強いものだったので、こういうこともあるのか、と私は固まった。
「いや、しかし──」
「ぜひそうしてください。それが僕にできることなら、いつだって!」
私の訂正しようとした言葉は、彼の尻尾がソファの革をばしばしと叩く音によって遮られた。それで私も訂正は諦めて、「ありがとう」とだけ彼に告げた。彼の腕の力が強まった。
この離し難い暖かいものを、いつかは離さなければならない日が来る。それは少し──いや、大分惜しいことのように感じられた。
後日、ロビンに再生機器の修理を終えたことを伝えると、彼女は思った以上に喜んだ。それを見て、私も嬉しく思った。感謝を伝えるなら、ぜひウインドフリットにと言葉を添えておくのも忘れずに。彼女は笑った。そして、せっかくだから名作の鑑賞会をしようというところまで話が発展して、ある週末の日に、それは開催された。
実際映像を観て、名作──の意味するところが、当時の特殊撮影技術にあったことは意外だったが、一部のオペレーターはそれを大変お気に召したようだ。意外にも、ウインドフリットも映画を気に入ったようだった。
◆
執務室を整理していたとき、いつか見た映画のことを思い出した。たまたまウインドフリットが助手をしていたので、あの映画を気に入っていた彼になぜ? とその理由を尋ねてみた。
「彼らがとても社会的なように見えたんです。だからでしょうか」
彼ら、とウインドフリットが指したのは作中の主人公──ではなく、彼らを襲う側の人々のことだ。確か鑑賞会の後に、ロビンも同じようなことを話していた。話の展開は少し冗長だが、襲う側には魅力があると。
そのことを伝えると、ウインドフリットは「クルビアの人ほど、似た感想を抱くのかもしれませんね」と言った。興味深い意見だった。
「そういえば、フレイムテイル……カジミエーシュの子は、主人公が気に入ったって話してたかな」
「──ドクターはどう思いました?」ウインドフリットに尋ね返される。
「私? 私は……」
──実は、あの映画の感想は人から聞くばかりで、自分が話すのは初めてだった。そうだな、と考えていると、ダンボールを畳み終えたウインドフリットがこちらへやって来る。
「よかったら今から休憩にしませんか? チョコレートのドーナツを貰ってきたので、食べながら話したいです」
「ああ、分かった。じゃあ、コーヒーを淹れようか」
彼がはい、と笑顔を見せる。私も目を細めた。私の、恐らく話慣れていないような拙い感想でも、きっと彼は真摯に聞いてくれるのだろう。
それと同時に、再生機器を修理した日──あの日、ハグを交わした後で、ウインドフリットと交わした会話を思い起こされた。
──君とのハグもそうだが、私が気づかないでいることは、もっと数え切れないくらいあるんだろうな。
──それなら、もし気づいたら、僕にもそのことを教えてくれませんか?
──構わないけど、何故?
──そうしたら、僕はあなたのことが分かりますから。ドクターをもっと知りたいんです。
コーヒーを淹れながら、私は再びあの映画を見てみようかと考えた。そしてもし、彼──ウインドフリットが了承してくれるのなら、彼と共に見てみたいなとも。
そうしたら、また新しい何かを見つけられるはずだ。それに、二度目ともなれば、今よりももっと上手く、思っていることを話せるだろうから。▲|BACK|▼