飽食、くって、くって、嘔吐


「甘ェ匂いがする」

 そういってぐい、と袖口を引かれた時、ナマエは驚いてすぐ後ろにあったテーブルに激突してお客の料理を吹き飛ばした。触れたサンジが呆気に取られる間もナマエはずるずると後退して、おろし立ての白いテーブルクロスを床に引きずる。
頭からまだ暖かいトマトスープをかぶり、ナマエはおどおどとせわしなくサンジを見上げていた。まるで、恐ろしいものを見たとでもいうかのように。
すぐさま他のコックがやってきてナマエは彼らに連れて行かれた。サンジはしばらく立ち竦んでいたが、やがて料理をひっくり返してしまったお客に詫びた。「まだ小さい子だもの、仕方ないわ」と微笑む婦人にサンジは苦笑を浮かべ、「本当に申し訳ない、マダム」とすぐさまテーブルを片付けにかかる。それでも、ナマエのことは少し気がかりだった。
今朝だって、下ごしらえをしている自分の後ろを嬉しそうについて回るその姿は、飼い主に懐く犬のようであったし──、


 店を閉める時間になってサンジが休憩をしに外に出ると、ナマエは閉め切られていたテラスの椅子に座って、食事を片手に持っていた。もぐもぐとリンゴを頬張るナマエはどことなく気疲れしているようだ。
夕方のこともありサンジが「ナマエ」と声をかける。肩を揺らしてナマエが振り向いた。「サンジ」彼は目を丸くし、手に持っていたリンゴをぱきりと折る。
「さっき、悪かったな。急に手ェ引いたりして、驚いたろ」
 サンジがそう言うと、ナマエは困った顔になった。サンジよりも二回りほど小さい体のナマエは、バラティエの従業員の中で最年少だ。サンジが少しばかり穏やかな表情を見せるのも、彼が自分より年下で弟のようなものだからということもある。
 ナマエはじっとサンジを見ていた。品定めをしているような表情だ。あまり居心地の良いものではない。
「どうして、」ナマエが口を開く。サンジが顔をあげた。
「…………」
「どうして、甘い匂いがするなんて言ったの?」
 ナマエにとっては酷いことを言われた、ということなのだろうが、サンジにはそれが理解できなかった。
「いや、なんとなく……」
「なんとなく?」
「分からねェ。ただ、お前を傷つけたくて言った言葉じゃねェんだ」
 あの匂いは子供特有の乳くささや、ナマエがおやつに食べたチョコレート、また、バラティエで使われる香草や香辛料の類とも違う。柔い、果汁の詰まった果実のような、瑞々しい匂いだ。あの時のナマエは──外側が皮だとすれば、中身は果肉だろうか。もたついた肌の内側に、たっぷりと水を蓄えているような。

「……わざとじゃないのは、分かってるんだ。でもサンジ、二度とそんなこと言わないで」

 ナマエの静かな表情の中に、まだサンジへの失望や、怒りや、悲しみの類の感情が渦巻いているのは見てとれた。
「あァ、分かった。もう中に入れよナマエ」
「うん」
 サンジが細い紫煙を薫らすのと入れ違いにナマエはバラティエに戻っていった。「……なんでだ?」爛れた風味を飲み込むと共に、サンジは首を傾げる。海風が揺らいでぼんやりと広がっていた煙を吹き飛す。ナマエの座っていた椅子にサンジが座ると、仄かにリンゴの残り香があった。



「暑いだろ、制服を変えてこい」

 水平線を拭う風に温さが混じった時、バラティエは夏島に近づいた。それに伴いあっという間に満ちた湿気に誰かが「氷を持ってこい! 氷を」と苛々した声を上げている。「あるわけねェだろバカが!」食材の殆どは暑さに弱い。腐ってしまうまえに下準備をしているコックが、伝う汗を拭い、すぐさま手を洗う。
 ナマエはというと上陸前のひとときに店内やテラスを清掃していた。通りかかったサンジがナマエの制服の袖がまくられているのを見て変えるよう促した。
と、同時にむわりと香る甘い香り。サンジは嗅いだことのあるそれに目を瞬かせながら、眉をひそめた。ナマエを見下ろし、それが彼の腕から発せられているものだと確認する。
「ナマエ」
「何? サンジ」
「汗は、ちゃんと拭えよ。水分もしっかり摂れ」
「うん、分かってるよ」
 ナマエは首を傾げながらも素直に頷いて笑った。サンジは彼の首筋に流れる汗をハンカチで拭ってやって、背中を軽く叩いた。がしゅ、とシャツの空気が抜ける音がする。どことなく、グレープフルーツの果肉を潰した時のような音に似ていた。


 島に上陸して、サンジは他のコックと共に食料調達へと出かけ、ナマエは船に残った。
「この島は珍しいフルーツがたくさんあるらしいぞ」「でも傷みやすいし、日持ちしねェだろ」「まあな。でもジャムにするとかドライフルーツにするとか、あるいは発酵させて酒に……使い道もあるだろ?」「おれはどうせならフレッシュに食いてェ」「なーにがフレッシュだ! ムサい面しやがって!」
 傍で騒ぐコック二人にサンジは溜息をついて、市場に並ぶ食材を眺めた。夏島ということもあってかその種類は豊富だ。コック達が話していた珍しいフルーツ、というのも気になり、サンジは果物を売っている店へと近づく。

「いらっしゃい」

日に焼けた男がサンジを迎え、「なにか欲しいものでも?」と尋ねる。
「あー、日持ちするような果物はなにがある?」
「これと、これだな」男が指さした果物を見、サンジは「どのくらい保つんだ?」と聞いた。「これは葉の部分を逆さにして干せば一ヶ月。他は冷暗所に保存して二週間ってところだ」「じゃ、それぞれ二箱ずつもらうか」
 船に残してきたナマエのことを思い出し、「あ、あとこのリンゴも頼む」と付け足す。頷く男を横目にサンジが財布を取り出した。「……しかし、鮮度が落ちねェ果物ってのも、無いもんかね」代金を支払い、果物の入った箱をし出していた男が顔を上げた。
「どうした?」
 男の様子にサンジが首を傾げる。男はしばし黙り込んだあと、何か思うように口を開いた。
「兄ちゃん、果物の体(フルーツ・ボディ)、って、知ってるか」
「フル……なんだそりゃ?」
 男はとん、と木箱を指で叩き、中に詰まった果物に目をやった。中では甘い匂いが充満している。柔い身を潰さないよう、白い藁に包まれていた。


 昔、貴族の食事として、幼い子供が育てられることがあった。彼らは母のもとを離れたその日から、与えられた果物のみを食らい、育つ。その体臭や体液は果汁のように甘く、また抱けば麻薬のように体を蝕む快楽が得られるようになるからだ。
しかしその反面、彼らの体は脆く、すぐに死んでしまう。ただその肉はどんな食材よりも美味であり、心を奪う──、


 その話を聞いた時、サンジはナマエのことを真っ先に思い出した。

「……それは本当なのか?」
「ああ。今でもあるんじゃねェか? おれは見たこともないし、見たいとも思わん。もっとも、俺たちが暮らす夏島でしか知られていない話だろうがな」
「何故?」
「そりゃあ、兄ちゃん、お前さんが考えることと同じだよ」
「? ……あ」
「生きているなら、腐ることはねぇだろうからな。人間は」
 ほら、持ってけ。と山積みの木箱を促され、サンジはそれを担ぐ。
「気をつけろ。長持ちはしても、傷がありゃあ腐ってくもんだ!」
「ご忠告どうも!」
 果物の詰まった木箱を抱え、サンジは少し駆け足で船へと戻った。



「大丈夫、大丈夫、」

 ナマエはかちかちと震える奥歯を誤魔化すようにそう呟いた。じっとりとした暑さの中に甘い匂いが充満するのに彼自身気づかないまま、着替えたばかりのシャツの裾を掴む。その手には手錠が、足は柱に鎖で繋がれており、抜け出せない。
 ナマエがいるのは、島のどことも分からない倉庫だ。窓は木で塞がれ、扉は重く閉まっている。自身を攫った男は、まだ戻ってこない。

 あまりにも突然のことだった。テラスでコックたちの帰りを待っていただけだ。それなのに、後ろから床の軋む音がして、振り向くと、顔を赤らめた男が立っていた。
「────!」
叫ぼうとした言葉は音にならず、顔を赤らめた男に横っ面を殴られてナマエは倒れた。目を白黒としているところに男が覆いかぶさり、自身の首筋を嗅がれた。「……確かだ」その言葉にナマエの目にじわりと水膜が張る。嫌なことが、滂沱のように降り注いで落ちてくるようだった。
 どくどくと鼓動が高まる。甘ったるい唾を飲み込んで男を睨んだ。
「高い値で売れそうだ、おまえ」
 全ての価値と、あるいは宝物を手にしたような声。ナマエを見下ろして笑う男は、悪魔の顔をしていた。


 バラティエに戻ったサンジは木箱を置いて、「ナマエ!」と大きな声を出した。彼がいつもいるテラスの扉を開ける。そこに立っているのはバラティエのオーナーただ一人で、探していたナマエの姿はない。
「おいクソジジイ! ナマエは!」
「……サンジ」
振り返ったオーナー、ゼフは額に青筋を立てていた。「うちのウエイターを攫ったクソ野郎がいる」彼の視線はテラスに残る僅かな血痕に寄せられていた。

「探すぞ!」
「当たり前だろ!」



「ただいま、坊ちゃん」

 どさ、と目の前に落とされたのは、大量の果物だった。ナマエは目を見開き、壁を背に男を睨む。倉庫に戻ってきた男は果物を一つ取って、ナマエの口元に押しつけた。「食え」ナマエはぶんぶんと首を横に振った。
「……食べ物を粗末にするなって、教わらなかったかァ?」
 言うや否や、男はナマエの口元に近づけているだけだった果物を無理やり押しつけた。ぶちゅう、と実が割れ、汁が溢れる。べたついた果肉が口に入る。酷く甘い。熟し切っているようだ。むしろ、食べ頃も過ぎているのだろう。「げほ、っ」ナマエが咽せると、男はその頭を地面に押しつけた。
べちゃ、と音がして生温い液がナマエの頬に張り付く。「舐めろ、残さずな」その物言いはナマエにとってこれ以上ないほどの屈辱だった。その痛みから逃げるように、ナマエは自身を可愛がってくれたコックたちを思い出した。──食べ物を粗末にしてはいけない。それは、彼らの教えだから。
目の前の男の顔を打ち消すように、舌を伸ばした。舐めた汁は、自分の血液の味がした。
「ざまぁみろ」
 男が笑っている。ナマエは無意識にがたがたと震えた。捕食される恐怖は拭いきれない。
傷つけないで。痛いのは嫌いだ。甘い匂いはぼくのせいじゃない。

──お前を傷つけたくて言った言葉じゃねェんだ。

「いやだ……ぼくは、ぼくはッ、食べられたくなんか、ない……!」

 だろうな。──誰かが答えた。その途端、自分の頭を押さえていた力がなくなって、ナマエはゆっくりと顔を上げる。傍らに飛んだ鉄扉と、男が転がっていた。
「……クソペドめ」
「サンジ!」
 見慣れた金髪に安堵して、ナマエは彼に飛びつこうとした──、が、巻かれた鎖に足を取られ、思い切り躓く。「おっと、!」サンジが地面を滑って、ナマエを受け止めた。暖かい腕に包まれて、ナマエは目頭が熱くなるのを感じた。
「うえ、っ、あ、さんじ、サンジぃ……!」
「あー泣くな、泣くな! 男だろうが!」
「だって、た、食べられるかと、思っだんだもんん゛!」
「馬鹿野郎だれもお前なんて食わねェ!」
 サンジがそう叫ぶや否や、ナマエをぎゅうと抱きしめた。甘い香りを打ち消すような、煙草と、海鮮の匂い。ナマエはそれに心から安心して、それから、「ありがとう」と告げた。
「……どういたしまして」
 飄々としたいつもの態度に、サンジの心臓が強く脈打っていたのは、ナマエしか知らない。


「うちは出前を始めた覚えはねェぞ」

 バラティエに二人が帰ってきて、真っ先にそんなことを言ったのはゼフだった。
べたついた髪の毛のナマエは「ごめんなさい」としょぼくれた様子で、サンジは我関せずと煙草を吹かしている。

「ウエイターがいねェと困るんだよ! ナマエ、お前はあの腰抜け共の二の舞になるつもりか!?」
「パティ、お前ナマエに責任転嫁してんじゃねェぞ」
「んだとコラ!」

 「あれでも心配してたんだぜ」言い合いをしているパティとサンジを横目に、コックの一人がナマエに耳打ちする。
「それにしてもお前その汚れはひでェな。風呂入ってこい、そんなんで接客したらオーナーにぶっ飛ばされる」
「うん」
「あとな、テラスも掃除しっかりな」
「うん」
「あと……」
「まだあるの?」
 ナマエが怪訝そうにコックを見上げた。コックは「おかえり」と笑った。ナマエは「うん!」と少し震えた声で答え、走っていく。
まだ言い合いをしていたサンジ達にゼフが近づいていって、「バカども、ここでケンカするんじゃねえ」と一喝する。それからサンジに、「うちのウエイターを攫いやがった野郎はどうした?」と尋ねた。

「そりゃあもうコテンパンにecrase(叩き潰)した」
「……そうか」

 ゼフが頷き、「クソコック共、開店の準備だ!」と高らかに声を上げる。店内はゆっくりとランプによって照らされた。



 ラストオーダーを過ぎ、最後の客が帰ったところでサンジはナマエを探しに厨房を出た。テラスにいたと思ったナマエは、バラティエの外、港の波打ち際に座っていた。
「ここにいたか」
「……サンジ。お疲れさま」
手元を見ると、ナマエはナイフでリンゴの皮を剥いている。「お前がそういうことしてんのは初めて見たな」サンジが隣に座ると、ナマエが丁寧に向いたリンゴの一片を差し出す。それを受け取り齧り付いた。風味が強めの、甘いリンゴだった。

「昔ね、姉ちゃんに習ったんだ」
「…………」
「大切に食べなさいって。いつか逃げ出せる時がきたら、充分力を蓄えておけるように」
「……あァ」

 ナマエが皮を持ち上げて、口に運ぶ。もぐもぐとそれを咀嚼しながら彼は話し続けた。
「ぼくね、ここに来る前は果物しか食べられなかった。なんかね、それでぼくの体は甘くなって、ご主人に食べられるんだ」
「……果物の体」
「知ってるの、サンジ?」ナマエが目を丸くする。サンジが頷くと、ナマエはそっか、と小さく呟いた。
「自分では自分の体がどうなってるのか分からないよ。でも、食べられるのは、すごく怖いことだって分かる。姉ちゃんだって怖かったと思う」
「…………」
「姉ちゃんはね、食べられた」ナマエが少し震える声で言った。
「……あァ」
「守れなかった。あのね、サンジ。ぼく、強くなりたいよ。今日だって、ぼくがもっと強かったら、もっと」
「ナマエ」

 サンジの呼びかけにナマエは口をつぐんだ。「お前が強くなるのには賛成だ。でも、お前を攫った奴がクソ野郎なのには変わりねェだろ。お前が悪いわけじゃない」ナマエが手に握っていた折りたたみナイフを仕舞う。種もヘタも綺麗に取り除かれている。

「うちの店にいりゃあ鍛えられんだろ。ナマエ、お前はウエイターなんだ。よくやってるよ、大の男が逃げ出すようなレストランでここまでやってきた」
「……うん」
「分かったら、皿洗い、手伝ってくれ」

 サンジが立ち上がり、煙草に火をつけた。リンゴを囓ったナマエが薫る煙を見上げ、きゅっと目を閉じる。甘さよりも、塩辛い味が強かった。



Title by 天文学


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