05


ある時まではまともな人間のはずだった。俺が小さい頃は俺のことをよく可愛がって、俺が良いものを食えるように仕事に熱意を出して、父と同じ医者という崇高な役目を担えるように教育に心血を注いで……いつからか、歯止めが効かなくなった。両親は俺が武士団やお国元に重宝されるような格式高い医者になるためなら、なんでもした。なんでもだ。簡潔に言うと狂っていた。そして、狂ったまま出先で遭遇したという鬼に殺されて死んだ。
物事を知るということは、俺にとっては苦痛ではなく、むしろ楽しさを感じさせるもので、苦労もあったけど感覚的には娯楽とそう変わらなかった。だから学習意欲は存分に増していき、それこそ両親の望むままに育ったことだろう。寺子屋を早々に卒業し、現役の医師に直接師事してもらう方が早いとまで言われた九つの時、俺はどこからともなく聞こえてくる赤子の泣き声に興味を惹かれた。
「赤子って、不思議だよなぁ。近くで見れたらいいんだけど……まぁ教科書があるしな」
ふとした言葉だった。三日後には普通に忘れたくらい、深く考えずに発した言葉。おそらくはこの発言のせいで、……いや、この発言のおかげで、あの子は生まれた。俺の大切な妹だ。
「※※、あなたに兄弟ができるのよ。歳が離れているけど……赤ちゃんを観察したいって言っていたでしょう?あなたのための子よ」
この時はまだ両親の異常性をはっきりと認識することができず、ただただ母親の肚の中にいる弟か妹の存在に純粋に喜んで、産まれてくる日を待ちわびた。妊婦がどのように腹部を膨らませて、悪阻に苦しんで、大変な生活を送ることになるかもこの時に学んだ。
数ヶ月の時を経て、この世に送り出された小さな命。父が取り上げた新生児はあまりにも小さくて、儚くて、でも元気いっぱいに泣いていて可愛かった。妹だ。乱暴に触ったら簡単に潰れてしまうんじゃないかって、わくわくしながら自分より随分と小さな手を指でつつく。そんな中、父は言った。
「男の子が欲しかったのだが、仕方がないか」
そう言った。母親も「そうね」と同調した。俺には理解できなかったが、それなりに物事を知っているから理解出来てしまう側面もあった。この世は強い者が生き残る。故に、女は低く見られがちなのだ。両親は昔からその辺の思想がかなり強い方だった。そんなこと言ったって、女がいなければこうして新しい命は生まれないだろうが。でもまあ、いくらこの人たちだって自分の娘のことはきっと可愛いと思うはず。抱かせてもらった小さな命。この日のことは、今でも思い出せる。

「おまえさんは、よく泣く子だよなぁ……どっからそんな声が出てるんだい。喉枯らすなよ?まったく……ふふ、かわいいねェ」
縁側に立ち、


「ああ、いいのよ!泣いている時は私たちにまかせて……お勉強に集中しないとね。あなたはこの子が大人しい時に観察すればいいのよ」
観察……という言葉を、この人はよく使う。俺は観察しているんじゃなくて、可愛がっているんだ。


母親の力というのは不思議なもので、俺が抱っこするよりもすぐに泣き止むことが多い……ような気がする。だから、もやっとした感情を抱きながらも無理に奪い取るような真似はせず、大人しく自室へ戻った。

赤琉はよく笑う子だ。……俺の前では。両親はやはり赤琉に対しても並々ならぬ期待を込めていたらしく、少しのことでも鬼のように説教をして厳しく接していたから、当然心を開くことはなかった。箸を落としただけ、お椀を落としただけで殴り掛かる勢いで怒号を撒き散らすものだから、その度に俺が割って入って二人の熱を収めなければならない。確かに赤琉は普通より不器用のように思うけど、それを叱るにしろ直すにしろ、とても大事な家族に対する態度とは思えなくて、俺はもうこの時には二人のことを諦めていた。
夜、隣で寝ていたはずの赤琉の姿がなくて、不思議に思って物音のする裏口から外に出てみると、そこでは赤琉が小さくしゃがみこんで一生懸命箸とお椀を持つ練習をしていた。しばらく何も考えられなくなり、その場に立ち尽くしてしまった。あんなに理不尽に叱られても、それでも赤琉は二人の期待に応えようと夜な夜な練習をしていたのかもしれないと思うと、心底いたたまれなくなった。声もかけずに赤琉の体を抱きしめた。
赤琉を大切にしてやれるのは俺だけだ。





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