パルデア中で人気のあの人に、私も等しく夢中になってしまったの。
彼女は探しても探しても非の打ち所がなく、たとえば、バトルの腕が優れていて、弾ける笑顔が女神のようで、誰にでも優しく振る舞い、それでいて時に四天王として厳しい一面も見せる。
まさに私たちポケモントレーナーの鑑。
そんな素敵なオーラに惑わされて、私は今日もスマホロトム片手に彼女のすべてを明らかにするのです。
+
いつまでもこうではいけない。彼女のすべてを知るためには、勇気を振り絞ってこちらから接近しなければ。……なんて。
たまに、というか結構頻繁に、そんなことを思ったりするけれど、まさかそんな、私ごときがどうして彼女に近づけるものだろうか。
「はぁ……」
心の中のわかだまりを吐き出すように、大きな大きなため息をついた。神の計らいか、彼女とはこうして同じ職場に就くことができたものの、それでも神は勇気までもを差し伸べてくれたわけではなかった。
「ん、どうした。いつもより元気ないね。今日の朝飯失敗したん?」
朝から仕事用のカバンをぎゅうっと抱きしめながら顔を埋める私。の、隣に腰を下ろしたボタンさんが尋ねてくる。
「違うの、ボタンさん。人生なかなか思うようにいかないなあって思って」
「人生?アンタ人生語れるほど生きてないじゃん」
「……ふふ、ふふふ……私の弱音にそんなに真剣になって返事してくれるの、たぶんボタンさんしかいないね」
「アンタ今日おかしいよ。その辺のキノコでも食ってきたん?」
「おかしくないよ、ちょっと落ち込んでるだけで」
「ふ〜ん、そ。何があったか知らないけど、悪いもん吐いて元気出しな」
ボタンさんは私の頭をポンポンと撫でてから、スマホロトムを取り出してピコピコとゲームを始めてしまった。
「悪いものなんか、食べてないよ」
「……」
「ボタンさ〜ん」
「……」
この子は集中し出すと途端に鼓膜をシャットアウトするのです。こうなったら何を話しかけても無駄だから、大人しくしておこう。
ああそういえば、今日は館内清掃の日だったっけ。スケジュール帳のカレンダーにはサンドイッチくんの可愛いシールが私に向かって微笑んでいた。
お仕事が早く終わるから、今やトップの右腕であるネモさんから「同期のみんなでごはん食べに行こーよー!」なんて声をかけられていたんだった。
「ね、ボタンさん。残業しないためにも、少ない時間でがんばらなきゃね」
「……ん」
「それにしても、アオイさん遅いね。今日は三人で外回りに行く日、なのに……。……」
その時、会議室に入ってきた、とある一人の職員に気を取られ、私はしだいに口を噤んだ。
さらさらな緑髪に、すらっとした背筋。私の部署でも、他の部署でも、ていうか、パルデア中で有名な、四天王のひとり――チリさんだ。
ぼーっと見とれるようにそちらの方を見ていると、ふと自分の方に顔を向けたチリさんと目が合った気がして、私は操られるように、抱きしめていたカバンに顔面を思いきり殴りつけた。
め、目があってしまった……!?
急激に上昇する心拍数をなんとかおさえつけるように、すーはー、大きく深呼吸をする。しばらくしてからそっと顔を上げると、チリさんは不思議そうな顔をしながらも、やっぱりこちらを見ていた。
わ、私を見てる……びっくりしながら、ドキドキしながら彼女から目を離せずにいると、チリさんはふわりと笑って「おはようさん」と声をかけてきた。
「……?」
後ろを振り向いた。でも、後ろ側の席には誰もいなかった。
すると前方からくすくすと笑い声が聞こえてきたので、顔を元の向きに戻した。そこではチリさんが口元に手を当てて静かに笑っていた。
「おかしな子。どう考えても君しかおらんやろ」
私は隣を見た。そこにはさっきまでいたはずのボタンさんが姿を消していた。
え?い、いつの間に!?
私は混乱した。いつもなら廊下ですれ違うだけなのに、よくて会釈をかわす程度なのに、今日はチリさんの方から声をかけてきてくれた。
い、いいいったい私の身に何が起きているの……?混乱と混乱が頭の中を渦巻いて、心臓がだんだんと熱を増していく。幼なじみでマブダチのボタンさんがいない今、私はいったい、この状況で、どうすれば……!
「おはようさん。今日はええ天気やね」
「……!」
チリさんは再度言い直してくれた。私は確かに自分に向けられている挨拶に対して、意を決して口を開く。
「お、おはよう……ございます……!」
緊張しすぎて声が震えてしまった。全身から溢れる羞恥心を覆い隠すように、チリさんの視線から逃れるように、またもカバンに顔を埋める私だった。
+++
大きな瞳。汚れのない澄んだ瞳。長い艶やかな黒髪。ふわふわとした佇まい。丸く柔らかい肩。スーツの着こなし。あどけない笑顔。頬をかく仕草。友人を見つめるときの優しい目つき。ポケモンを可愛がるときの優しい目つき。発言するときの声のトーン。イントネーション。お辞儀の角度。細い指。すらっとした鼻。白すぎない肌。長い睫毛。リボンを緩めるときの仕草。細い首。アキレス腱の筋。赤い舌。横の髪を耳にかけるときの扇情的な仕草。明るい挨拶。猫目。仕事の合間につくため息。幼い寝顔。シャンプーの匂い。裏表のない性格。丁寧な字。丁寧な物の扱い。丁寧な人の扱い。自分含め誰にも媚を売らない態度。無遅刻無欠席。短すぎないスカート。太腿。腕。優秀な成績。密かな努力家。取り巻きに気づかないほどの注意力。シャツのしわ。腰のライン。たまに音を外す鼻歌。常識知らずの性格。歩くときの腕の振り方。周囲からの評判(一部除く)。……自分を見つめるときの紅潮した両頬と、熱のこもった視線。自分ばかりを写したスマホロトム。自宅に仕掛けられた録音機と小型カメラ。わかり易すぎる尾行。先週なくなったシャープペンシル。ネモからの告げ口。彼女の鍵付き金庫の中に押し込まれた大量の自分宛のラブレター。
すべてがすべて愛おしい。
+
何故あの子のことが好きなのか。あるいはいつから好きなのか。あるいはどれほど好きなのか。
たいていの人間は、こうやって他人の好意を量ではかろうとする。それが人にとって最も分かりやすい自己満足のカタチであり、自分を意中の相手に誇示するための確かな材料となり得るからだ。
『自分は誰よりも一番あの人を愛している。だから自分にはあの人のそばにいられる資格がある』
たまにこういう類いの阿呆みたいな言い分を耳にすることがある。そういうときには、愛なんて自分のものさしではかれるものではないのに、と密かに思う。もちろん否定するつもりはまったくない。自分自身がどちらかといえば自分を肯定する性格だと言うだけ。
まあ強いていえば、ただ『あの子のことが好きだから』たったそれだけを分かっていれば、それでいいのだ。はかる必要はない。それだけで、無敵である。
+
しかし偉そうに言っておいて、あの子の魅力は語りきれないにも程がある。溢れるほどの愛を自らの中で繰り返し繰り返し復唱したところで飽きがこないのはどいうことや。まずはなんと言ってもあの裏表のなさすぎる純粋無垢な瞳。いつもあれにじっと見つめられている、あの子の親友であるボタンが羨ましくて仕方がない。自分の知らないあの子の幼少期を知っているという事実だけでもう羨ましい。来世では是非ともその席を奪い取りたい。是非とも。
チリは神に懇願するように右手拳をぎゅうと握りしめる。しかしそれからすぐになんともいえない悲壮感に包まれて、握りしめていた右手拳をやわりと解放した。なんとも醜い。自分に呆れる。羨ましがる暇があるならもっと他のことに気をつかうべきだろう。例えば、あの子に近寄る害虫を、一匹残らず排除する、とか。
そんなことを考えていたら、その夜あの子の夢を見た。
+
チリが会議室に入ったとき、そこにいたのはたったの一人だけだった。チリの気配を察したのか、入れ替わるように反対のドアから密かに教室を出ていくボタンの姿を横目に見送り、廊下側の座席に一人で座っていた彼女の方に目を向ける。
かちりと目が合った。
「おはようさん」
言っておくが何も企んでいない。ただ今日は朝から彼女の夢を見たので、なんとなく話しかけたい気分だったのだ。同じ職場でも職種が大きく異なるせいで普段はまったく会話しない分、チリが今現在心から望むものはただ一つ。彼女からの『おはよう』だけである。
チリは常日頃から考えている物騒な考えごとをとりあえず一切無かったことにして、彼女に向けて純粋な笑顔をつくった。もちろんつくり笑顔ではない。チリは彼女を前にして自分を偽るようなことは絶対にしない。従って、自分を良く見せようなどとも思わない。要は彼女を視界に入れた時に、自然に出てくる自分を受け入れているだけだった。
ふいに目が合ったと思ったら、その瞬間に彼女はその両腕で抱きしめていた、彼女らしく何も飾らない素のままのカバンに思い切り顔をぶつけた。チリは内心戸惑う。けれどすぐに腑に落ちた。恥ずかしがり屋な彼女は単純に顔を隠したのだ。チリちゃんと目があったから。このチリちゃんと。
少しして彼女はまた顔を上げた。考え事をしていたチリは、目を逸らすでもなくじっと彼女を見つめてしまう。そしてそれは向こうも同じだった。チリに見つめられた彼女は、目を逸らせるはずもなくチリを見つめ返す。
「(今なら死ねる)」
彼女に今、自分が、一秒以上も見つめられている。あの瞳に。チリは今すぐにでも死んでもいい気分だった。心に湧き上がってくる様々な感情がチリの心の中を埋めつくしていく。
なかなか返事を返さないなまえに、クラピカの額には徐々に戸惑いの色が現れてきた。もしや『おはよう』の意味が分からないのだろうかと、おかしな方向に思考がはたらいてしまい、なんだか彼女のことがだんだん心配になってきた。しかしその後のなまえの行動に、クラピカはようやく納得した。
後ろにいる誰かを確認するように教室の後ろ側を振り返る彼女。もちろん今この教室にはなまえしかいない。どうやら彼女はそれを認識していないようだ。そんな彼女が可愛らしくて、クラピカはつい笑みをもらしてしまう。
「おかしな奴だな。どう考えても君しかいないだろう」
そう助言をしてやると、彼女は今度は隣の席を見た。そこに誰もいないと分かった途端、顔を真っ赤にして慌てふためく彼女。どうしてだろうか。抱きしめたい衝動に駆られてしまう。
マチはこの状況を予想していたのだろうか?もしそうだとしたら、今度改めてお礼をしなければならないな。クラピカは心の中でマチに対して感謝して、またなまえに向き直った。
「おはよう、#名字#」
こうやってファミリーネームで呼ぶのはもしかして他人行儀だったか。と、クラピカは呼んだそばから心配になる。しかしそんな杞憂は次の瞬間吹き飛んだ。
「お、おはよう…ございます…!」
彼女の笑顔。
死。
彼女は探しても探しても非の打ち所がなく、たとえば、バトルの腕が優れていて、弾ける笑顔が女神のようで、誰にでも優しく振る舞い、それでいて時に四天王として厳しい一面も見せる。
まさに私たちポケモントレーナーの鑑。
そんな素敵なオーラに惑わされて、私は今日もスマホロトム片手に彼女のすべてを明らかにするのです。
+
いつまでもこうではいけない。彼女のすべてを知るためには、勇気を振り絞ってこちらから接近しなければ。……なんて。
たまに、というか結構頻繁に、そんなことを思ったりするけれど、まさかそんな、私ごときがどうして彼女に近づけるものだろうか。
「はぁ……」
心の中のわかだまりを吐き出すように、大きな大きなため息をついた。神の計らいか、彼女とはこうして同じ職場に就くことができたものの、それでも神は勇気までもを差し伸べてくれたわけではなかった。
「ん、どうした。いつもより元気ないね。今日の朝飯失敗したん?」
朝から仕事用のカバンをぎゅうっと抱きしめながら顔を埋める私。の、隣に腰を下ろしたボタンさんが尋ねてくる。
「違うの、ボタンさん。人生なかなか思うようにいかないなあって思って」
「人生?アンタ人生語れるほど生きてないじゃん」
「……ふふ、ふふふ……私の弱音にそんなに真剣になって返事してくれるの、たぶんボタンさんしかいないね」
「アンタ今日おかしいよ。その辺のキノコでも食ってきたん?」
「おかしくないよ、ちょっと落ち込んでるだけで」
「ふ〜ん、そ。何があったか知らないけど、悪いもん吐いて元気出しな」
ボタンさんは私の頭をポンポンと撫でてから、スマホロトムを取り出してピコピコとゲームを始めてしまった。
「悪いものなんか、食べてないよ」
「……」
「ボタンさ〜ん」
「……」
この子は集中し出すと途端に鼓膜をシャットアウトするのです。こうなったら何を話しかけても無駄だから、大人しくしておこう。
ああそういえば、今日は館内清掃の日だったっけ。スケジュール帳のカレンダーにはサンドイッチくんの可愛いシールが私に向かって微笑んでいた。
お仕事が早く終わるから、今やトップの右腕であるネモさんから「同期のみんなでごはん食べに行こーよー!」なんて声をかけられていたんだった。
「ね、ボタンさん。残業しないためにも、少ない時間でがんばらなきゃね」
「……ん」
「それにしても、アオイさん遅いね。今日は三人で外回りに行く日、なのに……。……」
その時、会議室に入ってきた、とある一人の職員に気を取られ、私はしだいに口を噤んだ。
さらさらな緑髪に、すらっとした背筋。私の部署でも、他の部署でも、ていうか、パルデア中で有名な、四天王のひとり――チリさんだ。
ぼーっと見とれるようにそちらの方を見ていると、ふと自分の方に顔を向けたチリさんと目が合った気がして、私は操られるように、抱きしめていたカバンに顔面を思いきり殴りつけた。
め、目があってしまった……!?
急激に上昇する心拍数をなんとかおさえつけるように、すーはー、大きく深呼吸をする。しばらくしてからそっと顔を上げると、チリさんは不思議そうな顔をしながらも、やっぱりこちらを見ていた。
わ、私を見てる……びっくりしながら、ドキドキしながら彼女から目を離せずにいると、チリさんはふわりと笑って「おはようさん」と声をかけてきた。
「……?」
後ろを振り向いた。でも、後ろ側の席には誰もいなかった。
すると前方からくすくすと笑い声が聞こえてきたので、顔を元の向きに戻した。そこではチリさんが口元に手を当てて静かに笑っていた。
「おかしな子。どう考えても君しかおらんやろ」
私は隣を見た。そこにはさっきまでいたはずのボタンさんが姿を消していた。
え?い、いつの間に!?
私は混乱した。いつもなら廊下ですれ違うだけなのに、よくて会釈をかわす程度なのに、今日はチリさんの方から声をかけてきてくれた。
い、いいいったい私の身に何が起きているの……?混乱と混乱が頭の中を渦巻いて、心臓がだんだんと熱を増していく。幼なじみでマブダチのボタンさんがいない今、私はいったい、この状況で、どうすれば……!
「おはようさん。今日はええ天気やね」
「……!」
チリさんは再度言い直してくれた。私は確かに自分に向けられている挨拶に対して、意を決して口を開く。
「お、おはよう……ございます……!」
緊張しすぎて声が震えてしまった。全身から溢れる羞恥心を覆い隠すように、チリさんの視線から逃れるように、またもカバンに顔を埋める私だった。
+++
大きな瞳。汚れのない澄んだ瞳。長い艶やかな黒髪。ふわふわとした佇まい。丸く柔らかい肩。スーツの着こなし。あどけない笑顔。頬をかく仕草。友人を見つめるときの優しい目つき。ポケモンを可愛がるときの優しい目つき。発言するときの声のトーン。イントネーション。お辞儀の角度。細い指。すらっとした鼻。白すぎない肌。長い睫毛。リボンを緩めるときの仕草。細い首。アキレス腱の筋。赤い舌。横の髪を耳にかけるときの扇情的な仕草。明るい挨拶。猫目。仕事の合間につくため息。幼い寝顔。シャンプーの匂い。裏表のない性格。丁寧な字。丁寧な物の扱い。丁寧な人の扱い。自分含め誰にも媚を売らない態度。無遅刻無欠席。短すぎないスカート。太腿。腕。優秀な成績。密かな努力家。取り巻きに気づかないほどの注意力。シャツのしわ。腰のライン。たまに音を外す鼻歌。常識知らずの性格。歩くときの腕の振り方。周囲からの評判(一部除く)。……自分を見つめるときの紅潮した両頬と、熱のこもった視線。自分ばかりを写したスマホロトム。自宅に仕掛けられた録音機と小型カメラ。わかり易すぎる尾行。先週なくなったシャープペンシル。ネモからの告げ口。彼女の鍵付き金庫の中に押し込まれた大量の自分宛のラブレター。
すべてがすべて愛おしい。
+
何故あの子のことが好きなのか。あるいはいつから好きなのか。あるいはどれほど好きなのか。
たいていの人間は、こうやって他人の好意を量ではかろうとする。それが人にとって最も分かりやすい自己満足のカタチであり、自分を意中の相手に誇示するための確かな材料となり得るからだ。
『自分は誰よりも一番あの人を愛している。だから自分にはあの人のそばにいられる資格がある』
たまにこういう類いの阿呆みたいな言い分を耳にすることがある。そういうときには、愛なんて自分のものさしではかれるものではないのに、と密かに思う。もちろん否定するつもりはまったくない。自分自身がどちらかといえば自分を肯定する性格だと言うだけ。
まあ強いていえば、ただ『あの子のことが好きだから』たったそれだけを分かっていれば、それでいいのだ。はかる必要はない。それだけで、無敵である。
+
しかし偉そうに言っておいて、あの子の魅力は語りきれないにも程がある。溢れるほどの愛を自らの中で繰り返し繰り返し復唱したところで飽きがこないのはどいうことや。まずはなんと言ってもあの裏表のなさすぎる純粋無垢な瞳。いつもあれにじっと見つめられている、あの子の親友であるボタンが羨ましくて仕方がない。自分の知らないあの子の幼少期を知っているという事実だけでもう羨ましい。来世では是非ともその席を奪い取りたい。是非とも。
チリは神に懇願するように右手拳をぎゅうと握りしめる。しかしそれからすぐになんともいえない悲壮感に包まれて、握りしめていた右手拳をやわりと解放した。なんとも醜い。自分に呆れる。羨ましがる暇があるならもっと他のことに気をつかうべきだろう。例えば、あの子に近寄る害虫を、一匹残らず排除する、とか。
そんなことを考えていたら、その夜あの子の夢を見た。
+
チリが会議室に入ったとき、そこにいたのはたったの一人だけだった。チリの気配を察したのか、入れ替わるように反対のドアから密かに教室を出ていくボタンの姿を横目に見送り、廊下側の座席に一人で座っていた彼女の方に目を向ける。
かちりと目が合った。
「おはようさん」
言っておくが何も企んでいない。ただ今日は朝から彼女の夢を見たので、なんとなく話しかけたい気分だったのだ。同じ職場でも職種が大きく異なるせいで普段はまったく会話しない分、チリが今現在心から望むものはただ一つ。彼女からの『おはよう』だけである。
チリは常日頃から考えている物騒な考えごとをとりあえず一切無かったことにして、彼女に向けて純粋な笑顔をつくった。もちろんつくり笑顔ではない。チリは彼女を前にして自分を偽るようなことは絶対にしない。従って、自分を良く見せようなどとも思わない。要は彼女を視界に入れた時に、自然に出てくる自分を受け入れているだけだった。
ふいに目が合ったと思ったら、その瞬間に彼女はその両腕で抱きしめていた、彼女らしく何も飾らない素のままのカバンに思い切り顔をぶつけた。チリは内心戸惑う。けれどすぐに腑に落ちた。恥ずかしがり屋な彼女は単純に顔を隠したのだ。チリちゃんと目があったから。このチリちゃんと。
少しして彼女はまた顔を上げた。考え事をしていたチリは、目を逸らすでもなくじっと彼女を見つめてしまう。そしてそれは向こうも同じだった。チリに見つめられた彼女は、目を逸らせるはずもなくチリを見つめ返す。
「(今なら死ねる)」
彼女に今、自分が、一秒以上も見つめられている。あの瞳に。チリは今すぐにでも死んでもいい気分だった。心に湧き上がってくる様々な感情がチリの心の中を埋めつくしていく。
なかなか返事を返さないなまえに、クラピカの額には徐々に戸惑いの色が現れてきた。もしや『おはよう』の意味が分からないのだろうかと、おかしな方向に思考がはたらいてしまい、なんだか彼女のことがだんだん心配になってきた。しかしその後のなまえの行動に、クラピカはようやく納得した。
後ろにいる誰かを確認するように教室の後ろ側を振り返る彼女。もちろん今この教室にはなまえしかいない。どうやら彼女はそれを認識していないようだ。そんな彼女が可愛らしくて、クラピカはつい笑みをもらしてしまう。
「おかしな奴だな。どう考えても君しかいないだろう」
そう助言をしてやると、彼女は今度は隣の席を見た。そこに誰もいないと分かった途端、顔を真っ赤にして慌てふためく彼女。どうしてだろうか。抱きしめたい衝動に駆られてしまう。
マチはこの状況を予想していたのだろうか?もしそうだとしたら、今度改めてお礼をしなければならないな。クラピカは心の中でマチに対して感謝して、またなまえに向き直った。
「おはよう、#名字#」
こうやってファミリーネームで呼ぶのはもしかして他人行儀だったか。と、クラピカは呼んだそばから心配になる。しかしそんな杞憂は次の瞬間吹き飛んだ。
「お、おはよう…ございます…!」
彼女の笑顔。
死。