02


「その絵、気になるん?」

突然声がした。絵にのまれかけていた私の意識を引っ張りあげるみたいに、誰かの声が鼓膜に届く。男の子。関西弁。静かな廊下でいきなり声が聞こえてきたものだから、相当びっくりしてしまった。

「あ、ええっと」

私がはるかちゃんの絵にむちゅうになっている間に音も立てずに近づいてきていたのは、なんとも珍しいおさげ髪の男の子。私より背が高くて、周囲に不思議なオーラが漂っていて、先輩か後輩かも分からない。けど、向こうがタメ口だから先輩っぽい。あと何故か白衣を羽織ってる。

「気になるというか、好きです」

初対面でまだ心臓がどきどきしているが、変に取り繕うのも不自然だし……ここは素直な気持ちで返事をした。すると彼は少し驚いたような顔をしてから、にこにこ微笑んで「ありがとう」と頷いた。なんでこの人がお礼を言うんだろう。仲良いのかな?

「もしかして美術部の方ですか?」
「せやけど」
「私、美術部に入りたくて」
「へえ!それは驚いたなあ。こんな時期に珍しい」

彼は両手に持っていた教材や荷物を片手に抱え直し、美術室の扉を開けた。白衣を着ているから後ろ姿だけ見ると先生みたいだ。背も高いし。校内で見かけてたら絶対覚えていると思うんだけど……残念ながら心当たりはない。彼は中を指さし「とりあえず中入ろ」と言うので、頷いて後に続いた。

「でも、まだ顧問の先生に伝えていないからどうなるかは分からないんですけど」
「まあ知っての通り人数少ないし、きっと歓迎してくれると思うで」
「そうですか。良かったです」
「なあ、なんで敬語なん?タメでええよ。僕ら同い年やろ」
「えっ」

電気を付けると、まるで美術室が自分の部屋みたいに慣れた様子で適当なテーブルに荷物を広げる彼。私もその辺にカバンを置いて、妙にそわそわする空気に見慣れたはずの美術室を見回していたら、急にそんなことを突っ込まれた。

「君何回?」
「に、二年です」
「僕も」

ぎこちないピースをする私に、彼も微笑みながらピースを返してくれた。
もう完全に先輩のつもりで話していたから大袈裟に驚いてしまったなあ。こんなに大人びているのに、同い年なんだ。まあ先輩だったとしても一個しか変わらないんだけど。

「あ、あの〜えっと……」

初めて話した時あるある。敬語からタメ口に切り替える瞬間、なんか恥ずかしい。

「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「なんや?」
「えっと……“はるかちゃん”も美術部に?」
「……うん?」
「私、あの廊下の壁に飾ってある桜の絵を描いた子とずっとお話してみたくて……どんな子なのかなって気になってて」

初めて見たのは去年の夏頃だっただろうか。それもまた美術室の廊下の壁に飾られていた覚えがある。小学校の時も絵が上手な人は何人かいたけど、さすがは中学生ともなるとレベルが違うんだなあ……と思って名札を見たらしっかり一年生で同い年だったと知った時の衝撃よ。
私があの子の絵を好きなのはこれまで私だけの秘密だったから、来年こそは同じクラスになって仲良くできたらいいなと密かに思っていたのだが。美術部に入るならそんなの関係ないじゃん。デザイン画を書くためという当初の目的なんか忘れちゃってるな、私。

「その子は今どこにいるのかなあ」
「……」

彼は私の言葉にきょとんとして、少しの間何かを考えるように右斜め上を見上げた。しばらくしたあと、「おお」と納得したかのように自分の手の平に拳を打つ。
そして、だんだんと耐えきれなくなったかのように口元を片手で押さえ、急に笑い出してしまった。

「あはっ、なんやそれ君おもろいわ」
「……おもろい?」
「あーおかし。そういやまだ名乗ってなかったなあ、ふふ」

彼の笑いのツボがよく分からない。今、どこか面白いところがあっただろうか。絵を描いた人とお話してみたいってそんなに変……!?

「ここにおるよ」

いつまでも笑いを堪えながら、ふと自分のことを指さす彼。え?何がここに、

「あれ、僕が描いたんよ」
「……え!?」
「僕の名前、橋田悠。よう女の子みたいな名前やねとは言われるけど、まあ名前だけなら勘違いされてもおかしくないなあ」

ぽかんと口を開けて固まる私を見下ろして、おかしそうに笑う彼。待って。待って。今なんて言ったの?僕の名前は橋田悠?まさか、だって、……橋田悠は疑いもなく女の子だと思っていたのに。
あれ、どうしてそう思い込んでいたのだろう。でも名札には性別を書くところなんて無いんだから、絵を見ている側は名前だけで判断するしかないのだ。

「わ、私とんでもない勘違いしてた……」
「まあ気持ちは分かるよ。僕も名前だけ見たら男の子とは思わんし」
「本人にそう言われちゃうと、もう私は何も言えないけど……」

橋田悠。彼のことをよく見てみると、本当に男の子の顔をしている。私が心の中で思い描いていた「はるかちゃん像」とは似ても似つかなくて、私はまだ驚きが隠せない。

「でも、嬉しいわ。僕の絵をそうやって好きやって言ってくれる女の子、僕初めてやから」
「本当に?好きって思ってる子はたくさんいると思うけどな。たぶん私がそうだったみたいに、本人に言う機会がないんだね」
「……君めっちゃいいこと言ってくれるなあ。ありがとう」
「まあ、私はるかちゃ……あ〜橋田くんの絵が好きだから」

はるかちゃんと言いかけて、すぐに言い直した。橋田悠が男の子だとわかった今、さすがにちゃん付けで呼び続けるのは抵抗があったから。でも彼は特別気にする様子もなく、穏やかに笑う。

「はるかちゃんでええよ」
「……いいの?」
「君の中で、僕の絵は『はるかちゃん』の作品なんやろ?」
「それはそうだけど……」
「好きなように呼んだらええ。そういう自分の中の感覚ってあんまり安易に捨てるもんやないで」

と、彼は自分のお下げをそれぞれ両手で持ちあげて、私に見せびらかすように少しだけ頭をこてんと傾けた。
なるほど絵描きが言いそうな言葉だ。

「悠久の悠ではるかって、素敵な名前だね。私好きだよ」
「やめとき、照れるわそんなん。ところで君の名前は?」
「あ。私、新色なまえって言うの」
「なまえちゃん」

名前呼び。

「僕も好きやで。君の名前」

なんというかすっごいフレンドリーな感じの人だ。真正面から自分の名前を好きだと言われることが、こんなにも嬉しいことだなんて思いもしなかった。


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