05


「お、皇子さま」
「……おや、赤琉殿。あなたは気配を消すのがお得意なのですね。声がするまで気づきませんでした」

部屋に入るなりびっくり仰天した。迷宮『ザガン』へ向かう船内、思いもよらぬ人物の登場に此方は目を見開いた。白装束に黒い帯、ぱっと目につく金の冠。他でもない、煌帝国が第四皇子の練白龍さまではないか。
な、なんか目の前に皇子さまがいる。嘘だあと思って一歩下がり、廊下をきょろきょろと見渡して状況の整理を試みるも、しかしやはりこの部屋は此方の目的地であるお台所に間違いなかった。場所を間違えたのではなく……確かにお台所である。
誰かいるにしてもシンドリアの文官殿あるいは武官殿、あるいは侍女たちのいずれかだと思っていたのだが、なぜ皇子さまがこんなところに。そも驚くべきはそれだけではない。皇子さまは、お料理をしていた。お料理である。

「どうかなされたか?」

此方が入口でいつまでも固まっているから、彼は不思議そうに首を傾げた。ど、ど、ど、どうかなされたか……?待たれよ、それはこちの台詞でございます。
なにゆえ地位ある皇子ともあろうお方が、このようなところで包丁を握って、シンドリア名物の魚介類を次々に捌いているというのだ。その包丁捌きは見事なものであった。思わず目を見開いて凝視してしまうほどだ。じゃなくて。

「い、いえ。このようなところで白龍皇子にお目通り適うとは思わず」
「同じ船に乗っているのに、そこまで大袈裟なことではないでしょう」
「……」大袈裟なことなのだ。

彼とはシンドバッド王さまの王室でご紹介に預かった時に初めて顔を合わせたが、それすら光栄と言えるほどだった。甲板で日差しを浴びて風に吹かれながら楽しくお喋りしていたアラジンさまたちだが、そこにお姿が見えなかったから、てっきり皇族らしく自室でのんびりと過ごされているのかと思っていた。
それがまさか時を同じくして厨房でお料理をなされているとは……しかもその量は船内の人数を網羅できそうな程の。
シンドリアの名産品かは分からないが、彼は自らが右手に持ついかにも料理用と見える包丁を掲げて、これは切れ味が良いだとかなんだとか悠長なことを申し上げている。まるで厨房に立ち慣れている料理人そのものである。
それにしても、誰か一人くらいお手伝いがいてもおかしくはないというのに……従者などを連れず、皇子さまがたった一人でここにいることにも此方としては疑問を感じる余地がある。

「何か考えごとをしているようですが、厨房に用があったのでは?」
「その、少々喉が乾きまして」
「飲み水ならばそちらに」
「……はいな、ありがとうございます」

皇子さまがお水の場所を教えてくださった。ご厚意にあやかり、さっそくテーブルの空いたスペースにグラスを並べて冷水を注いでいく。どうせなら甲板におられる皆さまの分も用意して差し上げよう。
ああ、これはべつに好感度を上げたいからやっているのではないですよ?皇子さまが働いているそばで、此方が自分だけ喉を潤して満足するだけの器の小さい人間であることを認めたくないからです。
ついでと言ってはなんだが、グラスの一つを白龍皇子の作業する近くに差し出した。御礼など要らぬのに、わざわざ手を止めてお辞儀をする彼の礼儀正しさにやや狼狽える此方。

「わざわざ俺の分までありがとうございます」
「いいえ……あの、白龍皇子。なにか、お手伝いできることはございませんか?」
「大丈夫ですよ、俺一人で事足りますから。お気遣いありがとうございます」

壁を感じた。いやなに、一国の皇子とただの一般人が、こうして一対一で面と向かって話せる状況が既におかしいのだが、此方としてはここで素直に引き下がるのもはばかられるといもの。なんせ此方は幼い頃から、タケル様という名の貴人にお仕えするべく生きてきた。根っからの従者というか、目上の人に奉仕するのには慣れている。

「では少し言い方を変えますが、白龍皇子。此方に何かお手伝いをさせてくださいな」
「……はい?大丈夫と、言っているのですが」

白龍皇子は此方の発言に再三大丈夫と繰り返した。まるで此方が大丈夫という言葉の意味を理解していないかのような疑問の呈し方である。理解してるわい。

「その、どのような風がお吹きなさって、白龍皇子がおひとりでお台所に立たれているのかは分かりませんけれど……」
「それは単に、世話になる身で何かできることはないかと。ああ、もちろんここを使う許可は取っていますよ」
「左様でございますか。しかし、そもそもお給仕は案内役である此方がやるべき仕事です。そのお役目を肩代わりして頂くのは、ご命令頂いたシンドバッド王さまに示しが付きませぬ」

上半身を若干折り曲げて、何がしか説得できないかとお辞儀をしながら白龍皇子を覗き見た。なんだか、この時ようやくはっきりとお顔を拝めた気がする。左目周囲の火傷のような痕と、それを思わせない左右で色の違う明眸な瞳。
しかしまあ、随分と整ったご尊顔である。出発前にシンドリア王宮で目撃した、同じく煌帝国から参られた練紅玉姫もそれはそれは美しい人だったなあ。

なんだろ、この人、どこかで見たような。

そんなことを考える此方をよそに、白龍皇子は少し瞬きをしてから、納得したように「そうですね、分かりました」と頷いた。此方のお手伝いの要望を聞き入れてくれるらしい。それは良かった、とこちらが返事をする前に、次に彼が放った言葉に思わず体が反応した。

「やはり、あなたは鬼倭国の方ですよね」

何かと思えば、此方がお辞儀をした拍子に、此方の頭から生えた二本の角がしっかりと目に入ったらしい。鬼をあしらった頭飾りが。
何度も言うように、これは鬼倭人であることの何よりの証明である。いくらこちらが正体を語らずとも、分かる人には分かるのだ。この人には誤魔化しても無駄だな。

「初めてお目にかかった時から気づいていましたが。今や存在すら怪しいのに、まさかシンドリアでお会いできるとは思いませんでした。いいえ、むしろ異国情緒あふれるシンドリアだからこそお会いできたのかもしれませんね」
「……さすがは隣国、煌帝国の皇子であられる方ですね。よくご存知で」
「鬼倭国の頭飾りは特徴的で分かりやすいですから。もっとも実物を見るのは初めてです。紙の資料で見るよりずっと精巧な造りをされているのですね」

そりゃあ、此方のこれは母上と父上から授かった大事な大事な……。

「ええ、鬼倭の誇る伝統工芸品ですから。それにしてもお詳しい」
「周辺諸国の情報は知っておいて然るべきですし。……数年前に島ごと姿をくらました鬼倭国の方がどうしてこんなところにおられるのか、俺は少し興味があります」

やはり、皇子だから。いくら鬼倭が小国でも、将来傘下に率いれるやもしれぬのだから、そのへんの知識はしっかり蓄えておられる。心做しか探りを入れられているような気もする。
煌帝国が西への侵略を推し進めている今の段階では、おそらく彼らとやり合う心配はないだろうけれど……世間話風とはいえ、せっかく霧に包まれた鬼倭の情報をうっかり漏らしてしまうことのないように、これ以上話が広がる前に愛想笑いで受け流した。

「それはさておき、此方は何をすれば?なんなりと言いつけてくださいな」
「ああ、お手伝いをしてくださるんでしたね。こちらこそ仕事を奪うような真似をして申し訳ありません」
「い、いえ、そんな……。謝罪のお言葉を頂くつもりはなかったのに」
「いいんです、ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

油断も隙もなく、彼はこれまた丁寧に感謝の意を述べお辞儀をしてから、子慣れた手つきで腕まくりをし、解けかけていたらしい腹の帯を締め直した。ひとつひとつの動作がこれまた美しい所作である。……ともあれ、鬼倭の話題が終わったのならなんでもいいや。
彼は話をしながらどこからともなく木箱を持ってきた。見ると、育ちのいい青々とした野菜や食用花たちがこれでもかも敷き詰められている。良い香りが鼻につき、思わず駆け寄って両手を握り締めた。

「まあ!白龍皇子、これってシンドリアにしか生息していないカミツルの花ですよね!図鑑で見た時から可愛くて目を惹かれていて……」
「可愛い……?食用だそうですよ。これらは自由に使って良いと」
「どんなお味がするのでしょう……あのあの、つまみ食いしてもいいですか?」
「あはは、なんだか急に目の色が変わりましたね。もちろんダメです」

ダメでした……残念。此方はそれらを水で洗う作業を任された。その後皇子の手によって綺麗に捌かれた魚や肉や、切り刻まれた野菜と食用花を、指示通り大皿に盛り付けていくのも任された。
この工程、もしや見栄えに直結する割と重要な部分なのでは……と思うとぶるぶる手が震えてしまったが、完成後に白龍皇子はご満悦の表情で「助かりました」と仰ったので、まあ何よりであった。

「赤琉殿。あなたは何故シンドリアに?」
「単なる留学ですよ。此方、植物や花に興味がありまして。シンドリアと周辺の島を観察して回っているのです」

嘘ではないし、むしろ本当のことしか言っていない。ついさっきもアラジンさまと同じような会話をしたな。

「ああ、だからさっきはあんなに……」
「まあ、此方は座学の方が好きなので、ほとんどは黒秤塔で過ごしておりますが。シンドバッド王さまが、良い機会だからと今回の案内役に指名してくださって」
「勉学がお好きと。その割に、武具をお持ちなのですね」
「え?ああこれは、護身用の……単なる目眩しと言いますか」

作業中に目に入ったのは鬼の頭飾りだけではなかったようだ。白龍皇子は手を動かしながら此方の携える刀に注目している。
それに対して此方はなんなく答えた。護身用と。これはもちろん誤魔化しで、『華刀』は護身用などという矮小なものではない。なんせ氷川家が代表して代々受け継いでいる、れっきとした国宝である。適当にはぐらかしたつもりだったのに、それでも白龍皇子は鞘に収まった此方の刀をじっと観察している。

「“そう”は見えませんが……」
「……」
「これも鬼倭の伝統品だったりするのでは?煌や他の国には見られない形をしているので」
「ふふ、お目が高いのですね」

思わず感嘆の言葉をもらした。白龍皇子は此方が想像していたよりもずっと博識らしい。そこまで言われてしまうと、此方はより警戒しなければならない。
一旦作業の手を止めて、彼の方に向き直った。それに気づいた彼も同じように顔を上げて此方の方に目線を寄越す。

「白龍皇子。おそれながら、一つだけお願いがございます」
「なんでしょう?」
「此方が鬼倭の出身であることや、鬼倭についてご存知のこと全て、他の皆さまには他言しないで頂きたいのです」
「はあ……理由を伺っても?」

それは真っ当な疑問である。

「至極個人的なことですから、いかんせん申し上げにくいのですが……」
「個人的な理由、とは?」

個人的な理由というか、本当は国事に関する重大な理由なのだけれど。一応カモフラージュのために本質は伏せておかなければ。しかし信用を得るためには、ある程度は真実をさらけ出さなければならないものだ。
そんなことを、数日前に“皇子自身がシンドバッド王様に対して口にしていた”。
それまで普通にお話をしていた此方たちだが、思い返してみれば煌帝国はふとした瞬間に敵国となる可能性があるのだ。正直、好戦的な彼らにおいては割と現実的な問題である。鬼倭は七海連合に守られているけれど、それでも此方は予防線を引くために、彼と話をしなければならないと個人的に考えてしまった。故に、此方はこの言葉を選んだ。

「此方の“母上”をお守りするためです」

その発言に、白龍皇子の手がピクリと動いたのを見逃さなかった。


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