01
一瞬の殺意で父親を手にかけました。不規則に点滅する照明の元、広がる血溜まり、動かない死体。何もかも終わりました。何もかも終わったのなら、自分の人生もさっさと終わらせればいいのに、大乱闘の後だったからもう体に力が入らなくて、ナイフを逆手に持ち周囲のゴミをザクザクと刻みながら部屋の隅で膝を抱えていたら、突然玄関から一人の男の人が現れて、部屋の惨状にぽつりと呟きました。
「おや、これは一体全体……どういうことなのでしょう?」
彼はいかにもこの家の住人みたいに、正面から堂々と鍵を開けて中に入ってきました。けれどその皺のないおろしたてのような身綺麗なスーツを纏った人間が、このゴミ屋敷に立っていること自体、私には異様な光景に感じられて、知らない人が家に勝手に入ってきたという当たり前の疑問はすぐにどこかに飛んでいきました。手の動きを止めた弾みでナイフも飛んでいきました。
もちろん状況が状況なので、騒ぎを聞きつけた誰かがただ様子を見に来ただけなのかもしれません。私も最初は警察か何かだと思い、むしろさっきの今で早すぎる到着の方にまず混乱したけれど、しかしどういうわけか素人目に見ても彼の素振りにそんな気配は感じられず……どうやら彼は警察の類ではなく、父の知り合いの人か、もしくは、泥棒?なのでしょうか。その人は懐から取り出した携帯電話に「お忙しいところすみませんが、ご相談が……」と何やら語りかけながら、部屋のタンスや押し入れを物色し始めました。
「蓮兄様。ご指示通り姉上の情報から鶴の自宅を割り出しましたが、どうやら出遅れたようです。お陰で俺の仕事が無くなりましたよ、これちゃんと報酬出るんでしょうね」
殺人現場を目撃したら、まずは警察に電話をするのが普通だと思っていた私の一般常識はなんだったのでしょうか。誰に何の電話をしているのでしょうか。そもそもこの男の人は誰なのでしょうか。この状況、私はどうするべきなのでしょうか。混乱に混乱を重ねながら、最早取り付けておく意味があったのかも分からない、居間と奥のスペースをお気持ち程度に仕切る薄汚いカーテンの隙間から、今も慣れた手際で家の色々なところあさり続ける彼のことを見守りました。
「ですから、問題のUSBはもう回収しているんでしょう?俺の任務は鶴の始末だけだったはずでは?はあ、犯人探し。面倒なことを……」
いくら泥棒でも、このゴミ屋敷でゴミの中に紛れたゴミのような私を見つけるのに、少々時間がかかったようでした。遂に居間の物色が終わり仕切りのカーテンが開かれた時、彼は私の存在にようやく気づいて、その場でほんの少し固まりました。驚いていたようには見えなかったけれど……私の近くに転がる赤黒いナイフとゴミを一瞥してから、とても冷静にこんなことを言いました。こちらを見下ろす左目周囲の火傷痕が、強く印象に残りました。
「あなたでしたか、この者を始末したのは。と言ってももう人間の面影もありませんが」
彼は私に声をかけるとすぐ、電話口に戻りました。
「兄上、鶴の娘が生きています。ええ、どうやらこの娘が。よかった、これで犯人探しの必要はないですよね。え?……さあ、理由など知りませんよ。それより、この者の処遇はどうすれば……はあ?“好きにしろ”?……分かりましたよ、じゃあ好きにします」
彼は雑とも丁寧とも取れるよく分からない口調で失礼しますと挨拶をしてから、電話を終わらせ、散乱するゴミを掻き分け、私のそばに歩み寄り、しゃがみ込んで目線を合わせました。近くから見るともっと高級そうな印象の、青みがかった黒いスーツ。それよりもさらに色濃い黒の手袋。革靴。長い髪をまとめる金の髪飾り。火傷痕など気にもならないほど整った顔立ち。どこかの会社の社長室にいてもなんら不思議ではないような、その人はこう言います。
「あなたの父親は昨夜、組織の馬鹿共を上手い具合に騙し、欺き、『煌樂白苑』の機密情報を持ち出しました。よって俺はこちらの“主犯の方”の片付けに参ったのですが、あなたが代わりにやっておいてくれたようですね。ミンチにまでする必要はなかったですが、まあありがとうございます」
「……」
「他、共謀の疑いにある者たちは既に『紅苑』が始末したとのことだったので、つまり現状部外者でこの件を知る生き残りは……あなたのみということになります。今、俺が詳細を話してしまったので」
「……」
「蓮兄様はあなたの処遇は俺の一存で、とおっしゃいましたが……あなたにも選択する権利はある。ああ、何がなんだか分からないという顔をしていますね。ここまででご質問は?」
こちらの反応など意にも介さず永遠に喋り続けるつもりなのかと思いましたが、彼はそこまで言いきると一旦口を閉じ、私の目を見つめてきました。質問もなにも、話があまり入ってこなくて彼が今何を言ったのか半分も理解できていませんのに。ただ、一つだけ聞き覚えのある単語が聞こえてきたので、それについて尋ねてみることにしました。
「……『煌樂白苑』って、あの」
「はい?」
「『煌樂白苑』って、繁華街にある、高級料理店のお名前、では……ないのですか。私なんか一生手も届かないような、高級な、……。たしか『煌樂紅苑』も……姉妹店で、」
「世間体は、そうですね。でも実態は殺し屋です」
「……」殺し屋。
「まあ他にも色々やっているんで、より近い言い方をするのなら……マフィアと言った方が正しいのかもしれませんが」
「……」マフィア。
ただでさえ緊張して上手く喋れないのに、そんなおかしなことを言われたらもう声も出せなくなりました。では、ここまでの話を整理してみると私の父親は……さっき私が殺したあの父親は、彼の言う『煌樂白苑』という名のマフィアを敵に回し、命を狙われていた、ということ?何故、父親がそんな危ない人たちと関係を持っていたのでしょう……なんて疑問は微塵も浮かびませんでした。
昔から金遣いの荒かった父は、一年前に母が死んだことで歯止めが効かなくなったために、短期間のうちに多額の借金を作り出して闇金融に片っ端から手を出していたので、近頃は取り立ての人が頻繁に家を訪ねてきていたからです。私はろくに家の外にも出られなくなり、高校を休むのも余儀なくされ、いくらまとめてもすぐに新しいゴミで溢れかえるこの息苦しいゴミ屋敷の中で、日に日に精神が削られていくのを実感していました。
そして今日、父が邪魔になって殺しました。そんなタイミングでマフィアの人がやって来るとは思いもよらず、私は、何か、大変なことをしでかしてしまったのではないかと思いました。
「わ、わたし、どうなるのですか」
「それを聞こうと思っていたんです。姉上によると娘のあなたは今回の事案には無関係ということでしたので……まあ“この事態”は予想外でしたが、生かすも殺すも俺の自由ということになります」
彼は、さっき私が床に落としたナイフを拾って片手の上で器用に半回転させると、次の瞬間には切っ先を私の喉元に差し向けました。ひゅ。この隙のない卓越された動作だけで、彼が殺し屋だという事実を簡単に分からせられたような気がしました。私の命など、彼にとってはとうに軽い。二つの意味で、喉元に冷たい感覚が襲い掛かります。たとえ指先だけでも、ほんの少しでも動きを見せれば即座に喉を掻き切られると思いました。
「あなたは、何故ご自分の父親を殺したんですか」
「そ、それはっ……その、よく分かりま、せ」
「分からない?」
「だ、だって、気づいたらその人はそこで死んで、いました……で、でも、静かになったのはいいんですけど、」
「……“いい”?」
「こ、困りました、ね……」
「何がです?」
「えっ?だから、結局これ、生きてても死んでても、邪魔なことには変わらなくて……どうやってごみ捨て場まで、持って行けばいいのか、考えていたところ、なんです」
気が動転して、変なことまで口走る。
「あなたは、殺し屋さん、なんですよね。ど、どうやって、いつも……重たいゴミを、どう運んで、いるのですか?」
あまりにも舌足らずなので、そのことに彼の不快感を買って殺されてしまうかも、とも思いました。でも自分のできる限りをもって、精一杯思っていることを伝えたら、彼はそれまでほぼ無表情だったのにも関わらず、今は何故か面白いものを見るかのように口角を少し上げてナイフの側面で私の顎を撫で上げます。父の血はまだ乾いていないのに、そのことにかなり不快感を覚えました。
「なるほど、あなた……まるで死ぬ気がないですね。この状況で死体の処分方法を気にするなど、まあ、たぶん初めてですよ。俺の覚えている限りでは」
「……それは、」
「好きな方を選んでいいですよ。死ぬか死ぬまいか。今回はその通りにして差し上げます」
返事を促すように、目を細めて首を傾ける彼。私は少し考えてから言いました。
「えっと、正直、……どっちでもいいんですけど、その……その“汚いの”が付いたナイフでは、切られたくないです。何か、別のにしてください」
そう言いながら、勇気を持ってナイフを持つ彼の手を控えめに押しのけると、彼は今度こそ愉しそうに、愉快そうに、薄らと笑い声を零してナイフをその辺に放り投げました。何に受けているのかよく分からないまま、顎についた汚いのを手の甲で拭う私。その不機嫌な顔がツボにはまったのか、彼は手袋をはめた指で顎をくいっと持ち上げて、至近距離から観察を始めました。
「ふふ、なんだ、やけに肝が座っているかと思ったら……もうこちら側の人間ですよ、あなたは。面白い人ですね」


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