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久しぶりの高校はあのゴミ屋敷より落ち着きを感じましたが、その反面、思っていたより居心地のいい場所ではありませんでした。間に夏休みを挟んでいるとはいえ、実に三ヶ月以上通っていなかったことを鑑みるに、クラスメイトたちはそれこそ久しぶりに見る私が物珍しかったのでしょう。腫れ物を扱うような、一線引かれているような、そんな態度で私のことを噂したり、視線を寄越したりしています。暇なのでしょうか。私は特別気にすることなく、休んでいた間の取り返しをしようと、先生に尋ねて教えてもらった範囲を今のうちに取り組むことにしました。……“新しい家”では、ゆっくり勉強などできそうにないからです。
「ねぇ、氷川さんの家、燃えたらしいけど……大丈夫だったの?」
プリントを回すついでと言わんばかりに、前の席に座る女の子がそんなことを尋ねてきたので嫌なことを思い出しました。ああ、そんなこともありましたっけ。もう二週間も前のことだから、実家がどうなったのかなんてすっかり忘れていました。そう、あの時彼に質問した『死体はどうやって処分するのか』という疑問はその日のうちに解消したのです。ゴミ屋敷はアパートの他の部屋も道連れにして、よく燃えたようでした。
……ということをそのまま包み隠さず教えてあげてもいいけれど、それはとても面倒なことになりそうなので「大丈夫です」と一言だけ告げてノートに視線を戻しました。どうせクラスメイトの誰かから、話しかけてみてよ、とでも頼まれたのでしょう。名前の頭文字が同じというだけで前の席に割り振られて、不運だったと思います。でも、今はもう清潔なお風呂に入れてもらえる環境になったから、以前までのゴミのような臭いはしなくなっていると思うから……それで許して欲しいです。……えっと、何さんでしたっけ?



「……た、ただいま、帰りました」
前の家とは比べ物にならないくらい、大きな、大きな、マンションの一角。これが鍵だということが未だに信じられないけれど、登校前に持たされたカード型の鍵を使って、慣れない操作でエントランスのオートロックの扉をくぐり、移動速度が速すぎるエレベーターで吐きそうになりながら……私は最上階の一番端の部屋のインターホンを押しました。今朝、お見送りしてくれた時に帰る部屋を間違えるかもしれないと漏らした私に、彼はこの階とその下の階の部屋は全部“組織”が持っているから安心してくださいとか言っていたけど、信じられません。とにかく部屋を間違えていないかどぎまぎしながら待っていると、じきに開かれた扉からきちんと見知った顔が現れたことに、とても安心してしまいました。
「おかえりなさい、赤琉。知っていました?その鍵でここの扉も開きますよ」
「……?」
変なことを言う人です。エントランスの鍵と玄関の鍵が同じでは、このマンションの人は他の部屋にも出入り自由になってしまいます。
「……。まあ、今日は金曜日ですしこれは一旦回収しますよ。休み明け初日でお疲れでしょうから、どうぞゆっくりなさってください」
彼は……白龍さんは、私が落とさないように大切に両手で握っていたカードキーをするりと抜き取ると、続けて肩にかけていた学生カバンまで奪い取り、いつまでも外に立ち尽くす私の手を掴んで玄関に引き入れました。あ、また。扉が閉まった途端にドアノブ付近を見つめる私。彼は一切鍵を閉める動作などしていないのに、鍵の閉まる音がすることに未だに驚いてしまいます。私はオートロックの未知の仕組みにはてなマークを浮かべたまま促されるままに靴を脱いで、畳じゃない、フローリングに足を乗せました。
「夕食までは時間があるので、適当に暇つぶししておいてください。俺は少し外出します。インターホンや電話が鳴っても気にしないでいいですよ。ていうか勝手に出ないでください」
白龍さんは私の学生カバンをその辺の台の上に置いてから、一旦自室に入っていきました。この家に来てから外出するのは今日が初めてだったから少し行動に迷ってしまうけれど、洗面所で手を洗うことにしました。エメラルドグリーンの大理石(?)に囲まれた竜宮城みたいな洗面所です。お風呂の中はもっと凄いです。
洗面所を後にして大きな廊下を抜けた先にあるのは、これまた大きなテレビが備え付けられたやや吹き抜けになっているリビングで、ここには大きなふかふかのソファーがあり、はるか下に広がる街を一望できる大きな窓があり、天井には大きな照明……?のような、へんてこな物体がぶら下がっています。
竜宮城のような水場もそうだけど、それぞれの家具やインテリアからはどことなく中華風な気配が漂っていて、とってもお洒落です。とってもお洒落なんだけど、とってもお洒落という言葉だけではとても表現し切れないくらいで。そんな高級住宅に、なぜ私のような貧乏人が出入りできるかというと……。……。……私にもよく分かりません。
「もし腹が減っているようなら、そこの菓子でも食べておいてください」
いつの間にか準備を終えたらしく後ろに立っていた白龍さんは、テーブルのパンケーキを指さしました。きっと彼の手作りの……。こんな全身真っ黒な格好をした鋭い目付きの男の人が作ったものとは思えない、お店で買ったみたいな完成度の、小さなケーキ。これでも彼の本職はパティシエではなくマフィアなのです。料理人には近しいようだけれど。
ここに来て二週間とはいえ、未だに慣れない私は大きなソファーにかちこちになりながら腰をおろし、背広を羽織りながら玄関へ向かう彼の背中を見送ったのでした。

あの時、父を殺しに来た彼は、自身の名を練白龍と名乗りました。ええ、練と聞けば、分かる人には分かるでしょう。正直私も最初は彼の話を信じていなかったけれど、本当にあの『煌樂白苑』を運営している練家の人だったということが判明した今、恐れ多くてとても対等には話せません。というのも、元いた家にテレビがなく情報に疎い私ですらどこかで聞いたことあるほど有名なお店で、予約は数年先まで常に埋まっており、毎年世界から多くの人が訪れるらしいとか。ファンが多過ぎて予約の席が高値で取引されているとか。国際的な重鎮のいるイベントの時はほぼ確実に呼ばれる、だとか。本当のところは知らないけれど、それに近似した人気ぶりであることは確かだと思います。
白龍さんは、そんな高級料理店の本性がマフィアだということを聞いてもいないのにあっさりバラした他、(あのナイフを使って)殺されることを拒否した私を、どういうわけか自身の持ち家に招き入れ、食事やお風呂や寝る場所を与えるどころか、今後払いきれるか怪しかった父の借金まで工面してくれたのです。これは、一体、どういうことなのでしょう。誰かわかる方いますか?いませんよね。
「素知らぬフリをしても無駄ですよ。生きる道を選んだということは、もはや“こちら側”に足を踏み入れたということ。前までのように平穏な生活が送れると思ったら大間違いです」
と、彼本人が言っていたのを私はしっかり覚えているのですが。確かにあのまま死んでおけばマフィアとの関わりなんて無かったも同然にできたけれど……私はてっきり組織の下っ端に配属されてボロ雑巾のようにこき使われるか、臓器を抜かれ金に替えられるか、そんな感じの扱いを受けるんだろうなあと考えていたのです。ので、こんなに清潔感たっぷりのお部屋で、毎食下民の舌ではむせるくらい美味しくて温かい食事を与えられること、それだけで……以前よりも断然平穏で幸せな生活を送ることができています。私には白龍さんが何を考えているのかちっとも理解できない。私は何故こんなところにいるのでしょう。

「なんだ、ずっとそうしていたんですか?ケーキにも手をつけてないし、食器の場所はもう覚えたはずでしょうに」
学校の四階より高い場所に登ることが人生であまりないので、窓から街を見下ろすだけでも相当の暇つぶしになるのです。青舜さんという方が用意してくれたという、肌触りのいいもこもこの部屋着に着替えた後、ずっと窓近くのソファーに座っていた私。「こんな曇り空に面白みも何もないと思いますけどね」なんて呟きながら、白龍さんは外出する時とは逆に背広を脱いで、タートルネックのセーターの袖をまくり、キッチンに姿を消しました。と言ってもリビングから様子が丸わかりの間取りなので、彼が何をしようとしているのかはなんとなく分かります。
さすがは高級料理店のご子息……だからなのかは分からないけど、彼は毎食全て、その場その場で自炊しているらしいのです。どこかのレストランの厨房かなと思うほど設備の整った大きなキッチンで、私が来てからは当然のように私の分まで。しかもそれは有り合わせの適当なものではなく、毎回バラエティに富んだクオリティの高すぎるフルコース(?)的なやつを作り上げるものだから、もやし生活が身に染み付いた私の体は逆の意味で受け付けず、初日は全て食べきることが出来ませんでした。
だって、だって、美味しくて美味しくてこの世のものとは思えませんでした。残すのは申し訳ないというより、もったいないが圧倒的に勝利して、泣きながら頑張って胃の中に詰め込む私に、彼自身が止めに入るほどでした。翌日からは量も完璧に調整され、前日の格闘が何だったのかと思うほど普通に食べきれました。
「おまたせしました。……赤琉、黄昏てないでさっさと席についてください」
『煌樂白苑』で有名な練家は、その家の方もそれはそれは有名なお金持ちで、だからこそ、このマンションの部屋に使用人らしき人が一人もいないことに少し違和感を覚えていたりするのだけれど……それはともかく、お金持ちの家だからこそ躾の方も厳しいようで。白龍さんは私より年上なのに最初からずっと敬語を外さないし、何をするにも落ち着きがあって、なんというか人としての格が違うような感じがします。初日、初めてこの家で食事をする時に格闘したのは他にもあって、そう、ご察しの通り私は育ての親がアレなのでテーブルマナーが壊滅的なのでした。いただきますをしてから一向に手をつけない私に、彼は事態を察してやれやれとばかりに懇切丁寧にナイフとフォークの使い方を教えてくれたのです。はじめ、それらを奪われた時はそのまま刺されるのかと思ったけれど。
「どうやらすっかり慣れたようですね。ここでの生活に」
「……」そんなまさか。
私はまだ、今の自分のテーブルマナーに間違いがないかビクビクしながらあなたの様子を伺っているというのに。頬杖をついてワイングラスを揺らす彼は、それだけで映画のワンシーンのようなオーラを醸し出しています。ていうか、もぐもぐしている時に話しかけられたら、ゆっくり噛み続けるべきなのか、すぐにでも飲み込んで返事をするべきなのか、迷いに迷って目がぐるぐるしてしまいます。ただでさえ気絶しそうなほど美味しいのに。
夕食も中盤、以前とは180度様変わりした生活にますます疑問を感じる私。彼はじっと送られてくる視線にすぐに気づいたけれど、まるで見当違いのことを尋ねてきました。
「あなたも呑みます?ワイン」
ふるふると首を振る。私、未成年。
「……赤琉、あなた喋らなくなりましたね」
「!」
今すぐ飲み込め、が正解だったようです。
私は即座に飲み込みました。
まあ咳き込みました。
「うう……げほっ」
「ああ、別に急かすつもりはなかったのに。今に限った話ではなく……ここに来てからあなたが言葉を発したのって、ざっと何回くらいでしたっけ?」
そんな、数えられるほどしか話してないなんて思ってませんけれど……。
「私は、まだどうして自分がここにいるのか、よく分かってなくて……戸惑っているだけなのです。白龍さんが普通にしてるから、余計に」
「何の話です?」
「てっきり、あの場で殺されるものだと」
「あの時あなた自身が言ったんでしょう?殺すなと。ですから、」
「いや、でも、ここまでしてもらうなんて思ってませんでした、私。こんな居候みたいな……穀潰し、みたいな」
両手を膝に置いて、俯きがちにそんなことを言いました。けれど返ってきたのは思いもよらない反応で。
「穀潰し?とんでもない、あなたにはこれからやってもらいたいことが沢山あるんです」
「やってもらいたいこと……?」
「そうですね、もう二週間経ちますし生活にも慣れたということで。……そろそろ始めても良い頃でしょう」
いやまあ、生活にはまだ慣れてはないけれど。一体何が始まるんだろう、こんなにお世話になっているから、多少難しいことでも頑張ってこなさなきゃいけません……心の中で意気込んだ私は、まだ、とんでもなく甘くて甘くて幼すぎました。


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