不快感と異臭に目が覚めました。約一年間もの間、それを排出して来なかった私のおなかは信じられない量の血液を溜め込んでいたのでしょう。その痕は腰にまで到達していて、目覚めてから十秒もしないうちに度肝を抜かしてしまいました。ショックで涙が出てきました。約一年ぶりの生理です。生理というものの存在を忘れていた頃にやってきた生理です。高熱が出ても家にいたくないからという理由で無理やり学校に行っていたくらい、病気に無頓着な私でも、さすがに体に不調が起きているかもしれないことはなんとなく分かりました。けれど不安の的はそれ以外にありました。そんなことはどうでもいいのです。私の体のことは。そんなことより、この大惨事を白龍さんにどうやって説明しようかを、まず一番に考えました。両手で涙を拭いながら。
「赤琉?お早いですね。あなたには珍しい」
ここに来てから約二ヶ月が経過しました。まだ言葉がつっかえてしまうこともあるけど、白龍さんとは結構スムーズに意思疎通ができるようになりました。けれどそれは平常心であるときだけの話で、少し感情のゆらぎがあったりするとすぐに何も言葉が出てこなくなります。
いつも起こされるよりもずっと早い時間です。白龍さんのお仕事の時間帯はバラバラなので、彼がこんな時間に起きていることには驚かないけれど、逆にまだ陽も出ておらず、朝食すら作り始めていないタイミングでお寝坊常習犯の私が出てきたことに彼は大層驚いたらしく、不思議そうに顔をあげました。一ヶ月前に白瑛さんのところで切り揃えてもらった前髪はすっかり伸びて、目元を隠すのにちょうどいいです。でも白龍さんには目元が見えないのはむしろ不審感を得るのに充分だったみたいで、朝の挨拶もしない私に尋ねました。
「どうかなさいました?」
その質問には答えられませんでした。色々な感情が混ざりあって、さっきまでさんざん考えていた言葉がごちゃりと濁って喉の奥深くに沈んでいきました。私は何も話せませんでした。私が何も言わずに突っ立っているから、彼はとうとう読んでいた本を閉じてソファーから立ち上がりました。私に歩み寄り、両頬に手を添えるようにして顔を上げさせたことによって、両目の腫れにすぐに気づかれ、今の今まで泣き腫らしていたことが露見してしまいました。彼は言いました。怖い夢でも?そんなもんじゃありません。こうしている間にも私の下腹部はどくどく波打っていて、一刻も早くトイレに向かわなきゃいけないのに、行ったところで生理用品がないんじゃ……一生出てこれないかも。紙を畳んで代わりにするのもいいけれど、そんな大量に消費するんじゃ、絶対おかしいって思われてしまいます。ごまかしはききません。私は心を無にして、私が出てきた部屋の扉をゆびさしました。そうです、もうどうにでもなれという気持ちです。どうせすぐにバレるのです。白龍さんは親指で私の目元を撫でたあと、手を離してさっそく私の部屋へ向かいました。おばけがいるわけじゃないのでそんなに慎重にならなくてもいいです。実際には彼がどんな面持ちで部屋に向かったのか知る由もなく、私はリビングのそこらじゅうに植えられた観葉植物を見ていただけだけど。じきに、「ああ」と声を零す白龍さん。部屋を一目見ただけで、全てを察したようでした。何を言われてしまうでしょう。ワンピース型のパジャマだけは脱いで、痕を隠すようにしてベッドに置きざりにして、今は新しいものを着ています。でもインナーはそうもいきません。ていうか脱いだら凄いことになってそうです。早く洗わなきゃ……。
「赤琉」
背中に白龍さんの手が触れました。もう戻ってきたようです。彼を見上げた拍子に、再度溜め込んでいた透明の血が頬を伝ってこぼれ落ちていきました。彼はどんな顔をしているのか分かりませんでしたが、怒っている様子はないみたいです。よかった。
「泣くことないですよ。女性なら誰しも起こり得ることでしょう?俺にも理解はありますし、大丈夫ですから、気にやまないで」
「……」
「それより、あなたはまず手洗いへ……必要ならシャワーを浴びてきてください。着替えなどは用意しておきますから。ああその前に、トイレ上の戸棚を確認しておいてくださいね」
トイレ上の戸棚、と言われてまさかと思いながら扉を開けると、確かにそこには生理用品が常備されていました。一般的なナプキンタイプのやつ。この家は白龍さん一人だけが住んでいると思い込んでいたけれど、もしかして……。
「ここには、他にも女の人がいるんですか?」
私は会ったことがないけど。純粋に気になって声に出してみると、なんだか浮気を疑う人みたいな言い方になってしまいました。そんなつもりないのに。
シャワーを終えてリビングに戻る頃には、白龍さんは既にベッドシーツの入れ替え作業を終わらせて再度ソファーで本を読んでいました。血で汚れた下着やパジャマも回収されて、新しいものがお風呂場の前に用意されていたし、あまりにも手慣れているのでこういうことは経験があるのかもしれません。
「いいえ。この部屋に住まわせるのはあなたが初めてですよ」
「じゃあなんで生理用品なんてもの、」
「気になります?そんなこと。あなたが来てから用意したに決まってるでしょう」
決まっているのか。
「ただ、今後使うものは自分に合うものを選んで買った方がいい。俺の目があるのも嫌でしょうし、今日の学校帰りにでも必要な分は買っておいてください」
現金を渡されました。しばらく買ってなかったから正確な値段は分からないけど、たぶん、こんなに万札は要らない。
「今のところ平常のようですが、生理痛があるのなら薬もね」
あ、なるほど。私は人より痛みが少ないタイプみたいだし、今朝は痛みどころじゃなかったから、そこまで頭が回りませんでした。もちろん痛い時は痛いから薬は持っておきたいと思います。なにしろ久しぶりだから。
手渡されたお札の数を慎重に数えながら、今度は別の質問を考えてみました。
「……白龍さんは、本当は女性ですか?」
「はあ?」
「やけに詳しいので……生理のこと」
「常識では?」
「ベッド見てもあんまり驚いてなかったし」
「血なんて見慣れていますから」
な、なんか今のはデリカシーがないです。
「まあ、姉上の影響もありますね。俺はその辺の周辺知識も漏らさず叩き込まれているので」
それらしいことをいう人です。でも、確かに白瑛さんはこういうことも全部きちっと教えてくれそうな方だと思いました。実際に会っているから分かります。女の子としての身だしなみは手取り足取り教えてもらいました。その時に生理の話題になっていれば……もう少し心構えができたかもしれないのにな。いいえ、白瑛さんのせいにしているわけじゃありません。急にくる生理が全て悪いのです。こいつのことはいつか殺してやります。
「ちなみにあなた……一応聞いておきますけど自分の周期は把握しているんですか」
「?してません、そんなの」
「してくださいよ。でないと次困るのはあなたですよ。じゃあ前回はいつだったか覚えています?」
「?えっと、……たぶん、一年前くらい」
白龍さんは一瞬動きを止めました。
「今、なんて?」
「……?」
彼は持っていた本を閉じました。そして私を手招きして、ソファーのすぐ隣に座らせます。急にどうしたのでしょう。生理だから座る仕草にも慎重になってしまいました。
「赤琉。生理はいつ始まりました?」
「えっ?」
「初潮はいつかと聞いているんです」
「な、なんですか、なんでそんなこと」
「いいから答えてください」
白龍さんは、やけに優しい口調でそんなことを言います。男の人はそんなことも気になるのかな。ていうか女の人にも聞かれたことない。
「……た、確か、中学二年生の秋くらい、でした」
「当時は月一で来てました?」
「……んと、来てたり来てなかったり……でも一年前からはパッタリ止んだので……もう来ないのかと思って、油断して……」
あんな大惨事に。白龍さんは私の手を掴んで言いました。
「それは異常ですよ」
「え」
「いえ、思春期なので一概にそうとも言いきれませんが。産婦人科へは行きました?」
「そんなお金、……」
「じゃ、今日行きましょうか」
「えっそんな、いいです」
急に病院へ行くとか言い出す白龍さんに戸惑いながら、つい遠慮して首を振りました。けれど私の言うことなど聞こえていないらしく、立ち上がってテーブルの上のタブレット端末を手に取り、産婦人科の場所や営業時間について調べるなどしています。
「放課後、校門で待っています。ああ、それとも今日は休んでおきますか?安静にしておきたいでしょうし」
「い、いいです。行かないです。あ、学校のことじゃなくて、病院はいいです」
「絶対、一度診てもらった方がいいですよ。それに、俺から見てもあの量は……少々異常に思えます」
彼のその言葉に、つい口を閉じました。やっぱり?それに関しても私は同じことを思っていました。実は私が寝ている間にあのベッドの上で殺人事件が起こっていたんじゃないかって思っているくらいです。
「……学校は行きます」
「なら、迎えに行くので。いいですね?」
「もしかしてあの車で、ですか……?やです、わたし目立ちたくありません。そんなの、一生教室から出られません……」
「ならいつも通り校門を出て適当に歩いていてください。こちらから拾いに行きます」
「それも、誰かに見られるかも」
「俺の本職をお忘れですか?そんなヘマしませんよ」
とても説得力のある言葉です。結局、私の遠慮などなかったことになり、放課後に病院行きが決定しました。病院なんていつぶりでしょう。それも内科ならともなく産婦人科なんて初めてです。妊婦さんだけが行くところだと思っていました。
「さ、……産婦人科ってどんな感じのところですか。って、白龍さんは男の人ですね……」
「そうですねえ、医者に根掘り葉掘り聞かれるでしょうから、先に洗い出しておきますか。あなた、緊張して喋れなくなるでしょうし」
「……白龍さんは行ったことがあるんですか?あ、もしかして、赤ちゃん……」
「いません」
きっぱりと否定された。
「生理が止まったこと以外で何か異常はありましたか?」
「べつに、ないです」
「統計的に言うと生理不調は思春期なら誰にでも起こり得るらしいので、あまり心配する必要は無いのかもしれませんけど。まず考えられる原因となると、まあ最後が一年前もなのでこれは関係ないでしょうが……」
あの、白龍さんは、お医者さんですか?
「セックスの経験は?」
思いもよらぬ単語が飛び出てきたので、しばらく思考停止してしまいました。目を見開いて全身ゆでだこのように真っ赤になった私に、白龍さんはそれを返事と受け取ったようでした。
「これは失礼しました。そういやあなたパパ活の意味も……」
「は、白龍さんの、ばか!」
「バカとはなんですか。心配しているのに誰に向かってそんな口を……」
「白龍さんのバカ!」
二度目ははっきりと叫んだら、脳天を容赦なくスパーンとしばかれた。……と思うくらいの威力で、額にデコピンされました。今絶対頭割れた。あまりにも痛くてショックで「ひどい」と泣きながら額を押さえる私。そうしたら白龍さんの手がぬっと伸びてきて、優しく抱き締められました。優しい声と共に、よしよし、と頭を撫でられました。
「痛かったですね、つい手が出ました。でも次は首が飛びますよ。痛いのは嫌でしょう?もうそういうことは言わないと誓ってください」
「え、あ、はぃ……」
「いい子ですね、赤琉」
こわい。このひと。
「そういや、あなたの家は多額の借金を抱えていたんでした。最初ここに来た時、一般的な一人前の分量が食べきれなかったのを考えると、単なる栄養失調でしょうね」
“そういえば”、なんて言えるほど少ない借金ではなかったと思うんだけど……それも、白龍さんが自分の手持ち金で一括で返済してしまったものを、“そういえば”だなんて、この人は金銭感覚がとうに狂っていらっしゃいます。ていうかあれって一人前だったんですね。もやし一袋の二分の一を一食にしていた時期もあったから、私には十人前くらいの豪華な盛り合わせに見えました。
今まさに食べてるみたいな、白龍さん作のバランスの取られた食事を二ヶ月間続けたお陰で、私の体はすっかり健康体になり、生理が始まった……。というのが彼の見解だそうです。ていうかお医者さんもだいたい同じことを言っていました。確かに肋骨が目立たなくなってきたような気がしていました。体重も増えていたりして。
「あなたのことだから、自分の重量も把握してないでしょう。知っておいた方がいいですよ」
「……おうちに体重計なんてあるんですか」
「脱衣場に」
「……」
あるんですね。でも、あの竜宮城みたいな広い脱衣場のどこにあるのかなんて、家主である白龍さんしか分かり得ないと思います……という視線を送る私。
「はあ、ついてきてください」
立ち上がって脱衣場へ向かう白龍さんにひょこひょこついていく私。この二ヶ月で分かったけれど、白龍さんはとても面倒見がいいのです。生活に必要なことなら、頼めば大抵のことは叶えてくれます。
「なんだ、思ったよりはマシじゃないですか。俺の料理で肥えましたね」
「言い方……」
体重計に乗せられた私の足元で、白龍さんは聞いてもいないのに他にも体脂肪率やらBMI?の説明を始めました。彼は体重管理を徹底的に行っているようで、このマンションの他の部屋には筋トレの器具も置いてあるらしい、ということを前にチラッと聞きました。服の上からでも筋肉が見えるくらいなので、服を脱いだらもっと凄いのかもしれません。
「肉がそこそこ付いてきたのなら、運動もしましょうか」
「運動……?私、苦手です」
「そうですか。大丈夫ですよ、そういうあなたにもいい運動方法があります」
いい運動方法?なんでしょう、それ。運動は苦手でも嫌いなわけじゃないから、白龍さんは私の知らないたくさんのことを知っているし、少し楽しみです。