景色


「あ。」

「……ああ。」


流れる空気が何とも言えない。ばちりと目が合って思わず声を出してしまったことを今更後悔しても遅い。口から放り出された言葉たちがわたしの喉へ戻ってくるはずもなく。

背中を預けていた壁が温かい。居心地の良かったそこに足を踏み入れようとする足音。ゆっくりこちらに近付いてきて、わたしの隣を陣取る。べつにわたしの場所ではないのに、何故かまるで自分の部屋に土足で入られたかのように、少しムッときたりなんかして


「何。」

「べつにー。」

「じゃあ、早く自分の屋敷に帰ってあげれば。お坊ちゃんが。胡漸が心配しているんじゃない?」

「うわ、冷たいなあ。」


そう言いつつもけらけらと楽しそうな蒙恬。調子が狂う。気まずい空気に、息苦しさ。そう感じているのはわたしだけのようで、蒙恬は特に何とも思っていないようで、そこから立ち去ることもせず、ただわたしの隣でぼうっと佇んでいる。どうして蒙恬がここに居座るのか訳がわからずもやもや。聞いてもはぐらかされてしまうし

何なのよ、もう。

何も用がないなら早く屋敷に帰ればいいのに。前戦から久しぶりに帰ってきたのにこんなところにいないで屋敷に帰ってやればいいのに。そう、再度蒙恬に言おうとして口を噤んだ。よく、考えればわたしにも言えることだなと気付いて苦笑。用がないのに、ここに根を生やしたように佇んでいるのはお互い様で、それを言う資格をわたしは待ち合わせていないのである


「あのさあ。」

「……何。」

「そんな敵視すんなって。…寒くない?」

「べつに。」

「そっか。」

「うん。」


数刻の沈黙。その沈黙を破るように蒙恬が話題を振って、それに答えて、また沈黙。それ以上わたしも蒙恬も話題を振ろうとはせず、沈黙がこの場を占拠した。ほう、と吐き出した息は色もなく、どこかへ消えていく。いつの間にか吐く息は無色透明で誰にも見えなくなっていた

特にすることもなく、ただ俯いて、すぐそこにある自分の爪先を見つめた。ボロボロだ。それもそうだ。わたし自身も前戦から帰ってきたばかりで。戦場をずっと駆け続けたら、こうなるだろう。なんてどうでもいいことを思っていると、おもむろに口を開く蒙恬。わたしの名前を呼ぶ声が、この沈黙の中を静かにこだました


「なまえ。」

「何。」

「あのさ。」

「おかえりなさいませ、王賁様。」

「彩華……ああ。」

「………っ。」


近付く蹄の音。閉じられた空間でもないのに良く響いた二つの声。蒙恬の声を掻き消してしまうほど、わたしの耳に大きくこだまして、その二つの声に、ぐっと思わず噛み締めた唇。食い込んだ歯でぴりりと痛んで、口の中に広がり鉄の味が胸を締め付けた

見たくない、のに。

何をやっているんだろう。馬鹿みたい。被虐嗜好か、わたしは。こうなるってわかっていたのに、こんなところで、待っていたりして。知っていたのに、王賁と彩華さんがここにいるって。知っていたからこそ、わたしはここで待つしかできなくて

動いてくれない足。逃げ出してしまいたい。絶対に見たくない。そう思っているのに、わたしの足はそこに根を張っているかのようにぴくりとも動いてくれなくて。その間にもどんどん近付く蹄の音。馬の息遣いと、がちゃがちゃとうるさい甲冑の音


「おい、そこで何をしている。」

「蒙恬様…?あら、なまえ様も。こんなところで何をなさっているんですか?」

「あはは。ちょっとねー。」

「……ふん。フラフラとみっともないことだけはするなよ。」

「いやあ、魅力的な女性が多いもので困ってしまうよね。」

「行くぞ。」

「はい、王賁様。お二人とも、失礼致します。」


彩華さんが礼を残して、王賁が足を止めた馬の脇腹を叩き、この場を後にする。わたしはまだ爪先を見つめたまま。ズキズキと痛み出した胸元を掴んで、呼吸困難。二人はもう目の前にいないのに、二人の声が耳の奥でずっと響いている


「なまえ。」

「……何。」

「あのさ。」

「へへ、惨めだよね。馬鹿だろって思うでしょ。わかってる。わたしもそう思うし、思ってるし。」

「なまえ、ちゃんとおれのお話聞けって。」

「言わなくてもわかってるって!蒙恬に言われなくても全部わかってる!王賁は彩華さんとこの帰省中に結婚するし、どうにもならないって!!」

「なまえ!」

「大体蒙恬にわたしのこの気持ちなんかわからないくせに!」

「わかるって言ってるだろ!少しはおれの話を聞いてくれよ!!」

「………蒙恬、痛い。」

「ああ…悪い。」

「うん……わたしこそ。」


珍しく怒鳴る蒙恬。その勢いのまま蒙恬に掴まれた手首。ぐっと力を込められて痛む。痛い、と言えばすぐに離れていく蒙恬の手の平。気まずそうな顔で謝られて、わたしも悪かったと謝った

蒙恬のあんな声、初めて聞いた。

いつもはひらひらとどこか掴みどころのない蒙恬の怒声に、びっくりした。あんな風に声を荒げることもあるんだ。びっくりしてしまったから、だから心臓がどくどくとうるさいのはそのせい。急に、怒鳴られたから


「おれには、なまえの気持ち、わかるよ。」

「…何それ。なんで、何が、どう、わかるの。」

「王賁のことが好きで、仕方ないってこと。二人が結婚するって知っていても、諦めきれなくて。傷つくってわかっていても、ここに足を運んでしまう、なまえの気持ち。」

「どうして。」

「なまえが王賁を好きだってばればれだし、嘘吐くの、下手だよなまえは。」

「……うるさい。」


何でもお見通しだとでも言うかのように笑う蒙恬の顔がむかつく。でも、うるさい、としか言えなくて、ちゃんと反論できないのは、蒙恬の言う通りだから

ずっと、ずっと前から、王賁のことが好きだった。凛として、綺麗で。初めて戦場を駆け抜け、いつの間にか一緒に並んで馬を走らせて。少しでも近付きたくて、なんて不純な動機で必死になって武功を挙げて同じ将軍を目指したりなんかして。

彩華さんだって悪い人ではない。可愛らしくて、良い人なのに。それなのにいつの間にか、二人とも嫌いになっていた。人としては好きなのに、二人が一緒にいるところを見ると、どうしても胸が痛くなって、苦しくなって、勝手にわたしの心は醜い想いに占拠されて。わたしの心なのに、全然自由にならない。思い通りになってくれなくて、なのに、わたしは馬鹿みたいにここで二人を待って


「わたし、彩華さんのこと、嫌いじゃない。可愛らしくて、王賁とお似合いだと思う。すごく。好きなんだよ、二人とも。それなのに、嫌いなんだ。本当に、自由にならないの。わたしの心なのに、想い、なのに。二人を好きなわたしでいさせてくれない。」

「なまえ…。」

「知っているの。蒙恬の、言う通りなんだ。」


見つめた爪先が、ぐにゃり、と歪む。まるで水の中にいるみたい。鉄の味がする唇をきゅっと引き結んで、胸をグッと押さえる。震える言葉を口から零せば、蒙恬がわたしの視界の端からスッと消えた。蒙恬の姿を探すために思わず顔を上げそうになった瞬間、引き寄せられる体。さっきまでぴくりとも動かなかった足が何故かいとも簡単に動いた

自分の今の状況がわからなくて、瞬きを数回。何度も繰り返した瞬きのせいで、目尻に溜まっていた塩分を多分に含んだ水が頬を伝う。地面に落ちる前にいつも気に食わなかった蒙恬の女の子みたいな服の肩口に落ちて、小さな染みになる


「なまえは、馬鹿じゃないよ。」

「蒙恬…?」

「馬鹿じゃない。」

「……。」

「おれも、おれもね、同じだったよ。」

「え?」

「なまえが王賁も想うように、おれもなまえのことを想っていたから。」


そう言って、蒙恬がわたしの背中に腕を回して、ぎゅう、と力を込めればより一層二人の間になくなる距離。隙間なく、ぴたりとくっついて。わたしの背中に回っている蒙恬の腕が、小刻みに震えている。もしかして、蒙恬泣いているの?なんて聞いてみたら、うるさい、といつものわたしの口癖のような返答

ああ、なんだ。ホッとした。

この気持ちをわたしだけではなく、蒙恬も持っていたことに。馬鹿じゃないと言われたことに。この想いはごく自然なことだと言われたことに。抱き締められ、力を込めれば抱き返してくる蒙恬の体温に


「ねえ、蒙恬。」

「ん?」

「わたし、やっと前を、向ける気がする。」

「……ん。」


汚れてボロボロになった爪先ばかりではなく、わたしの前に広がる景色を。王賁越しに見た景気ではなく、わたしだけの景色を。言葉にして初めて、気付いたんだ。


あの人の背中がない景色。
こんなにも寂しくて、何もなくて、綺麗だった。


(帰ろう。)
(うん。)
(今日も、明日も、一緒に。)
(うん。)
(おれが、手を引いてあげるから。)


爪先ばかり見てしまうわたしにきみが言った。手を引いて、今日も、明日も、ずっと一緒に歩いてくれる、と。わたしはまだ爪先を見てしまう。きっと、今日も、明日も。でも少しずつ、少しずつ前を向いていけると思うんだ。前を向いていきたいと思うんだ。だって、見たいと思うの。きみがわたしの手を引いて見せたいといった景色を、わたしも。あの人越しに見た景色ではなくわたしだけの景色をわたしも。わたしがあの人を想うようにわたしを想ってくれていたきみの隣でどんな景色が見えるのか。わたしはぼろぼろの爪先を見ながら、少しだけ力を込めてきみの手を握り締めて、一歩踏み出した

あとがき
蒙恬って良い役回りするよね。素敵。



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